【感想】あこがれ(新潮文庫)

川上未映子 / 新潮文庫
(51件のレビュー)

総合評価:

平均 4.0
15
13
13
2
0
  • やっぱり好きだな

    読み始めて、直ぐにやっぱり著者の作品は好きだと再認識。
    小学生の少年と少女の視点で書かれた2篇。
    本当に少年や少女が書いている(しゃべっている)ような気がするし、少年・少女の純粋な気持ちが伝わってきて、感情移入してしまった。続きを読む

    投稿日:2019.05.03

ブクログレビュー

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  • ミユキ

    ミユキ

    小学生のヘガティーと麦くんにも、それぞれの悩みがあり、それを乗り越えていく、たくましい元気のでる物語でした。

    投稿日:2024.04.27

  • 司書KODOMOブックリスト(注:「司書になるため勉強中」のアカウントです)

    司書KODOMOブックリスト(注:「司書になるため勉強中」のアカウントです)

    「おかっぱ頭のやんちゃ娘ヘガティーと、絵が得意でやせっぽちの麦くん。クラスの人気者ではないけれど、悩みも寂しさもふたりで分けあうとなぜか笑顔に変わる、彼らは最強の友だちコンビだ。麦くんをくぎ付けにした、大きな目に水色まぶたのサンドイッチ売り場の女の人や、ヘガティーが偶然知ったもうひとりのきょうだい…。互いのあこがれを支えあい、大人への扉をさがす物語の幕が開く。」続きを読む

    投稿日:2024.03.31

  • さち

    さち

    爽やかでよかった。小学生2人の成長記。

    ミス・アイスサンドイッチ
    麦くんの、ミスアイスサンドイッチへの好意というか、あこがれが良い。他の人の評価とか社会的立場とか関係なく、自分がその人に魅力を感じて会いたくて。似顔絵を描いて、それを最後に渡して。恋愛とかじゃない、ただ魅力を感じて純粋に好きになる、っていう小学生の気持ちをすごくみずみずしく描いててすごい。表現力もタイトルもすごく好きだった。

    苺ジャムから苺をひけば
    麦くんの友達のヘガティーの話。これは、死んでしまった「お母さん」へのあこがれ。または半分血のつながった「お姉ちゃん」へのあこがれかな。最後のお母さんへの手紙がすごい。生きていれば、いろんなお母さんを思い出すことができたのに、っていうところが心に残ってる。そうだよね。お母さんがいない、死んでしまった、ってことを小学生が受け入れていく感じにグッと来る。
    麦くんとヘガティーの関係も、お父さんとの関係も、苺ジャムも爽やかでよかった。
    川上未映子、こういうのも描けるんだ素敵…。

    p22
    猫を抱っこするときのさわるお腹の、やわらかいたよりなさ。ジャムの瓶にひとさし指を入れてかきまぜて、それからぜんぶの指をゆっくり沈めていって手のひらでにぎってみるあの感じ。足の甲でこすってみる毛布。いちごの底にたまった練乳を飲むときのべろ。ホットケーキの茶色にとけてゆくときに透明になるバターの色。
    ミス・アイスサンドイッチをみているときにぼくが立っているのは、そういうのをぜんぶ足したようなものが、ぜんぶうさぎの耳のくぼみのなかで起きてるようなそんな場所。

    p36
    なぜ、空気が眉をひそめるほどの大きな声で、ぜんぜんしらない人にむかってあんなふうに叫ぶことができるのだろう。どうして、背中もおでこも目も手の甲も、いきなりあんなにこわい感じにふくらんで、そしてびりびりと爆発してしまう大人がいるのだろう。思いだしてもぞっとするような、あの大きな声が飛び出してくる喉の奥で、いったい何が起きたとしたら、大人っていうのはあんなふうになれるんだろう。
    続きを読む

    投稿日:2024.02.14

  • さてさて

    さてさて

    『六年間』という期間を区切った場合に、あなたはどの時代のことを思うでしょうか?

    私たちの人生は一日一日の積み重ねが一週間、一ヶ月、そして一年という一つのまとまりとして積み重なっていきます。昨日と今日、そして明日と考える中にそこに大きな切れ目というものは本来的にはないはずです。しかし、実際には入学・卒業、就職・退職といった事象によって日々は区切られていきます。

    そのような区切りを意識した中に、『六年間』といった期間を思い浮かべると、そこには、多くの人が小学校時代を思い浮かべるのではないでしょうか?ランドセルを背負っての登校、黒板を向いて友達と受ける授業、そして悪巧み?な放課後…とこのレビューを読んでくださっているあなたの記憶にもハッキリと残るあの時代の風景があると思います。それは、今から振り返れば”大人への扉をさがす”時代だったのかもしれません。

    さてここに、小学生という時代を生きる男の子と女の子が主人公となる物語があります。二つの章それぞれにそんな二人が主人公を務めるこの作品。小学生視点で全てがやさしくやわらかく描かれていくこの作品。そしてそれは、”おかっぱ頭のやんちゃ娘 ヘガティーと、絵が得意でやせっぽちの麦くん”という二人の小学生の内面に溢れる感情を垣間見る物語です。

    『そこで売ってるいちばん安いサンドイッチは卵のやつで、ぼくはふたつ入ってるけどすごく薄っぺらいそれを、毎日か、それか二日に一度は買いにくる』というのは主人公の麦。『ぼくはサンドイッチがすきだというわけじゃぜんぜんない』ものの駅前にあるスーパーで『お客さんにサンドイッチとかサラダとか、パンとかハムとかそういうのを売っている』『ミス・アイスサンドイッチ』の売り場でサンドイッチを買います。『いつも驚いたのとつまらないのをまぜたみたいな顔をして立ってい』る女性を『みた瞬間にぱっと』『ミス・アイスサンドイッチ』と名付けた麦。『まぶたはいつもおんなじ水色がべったりと塗られていて、それは去年の夏からずっと家の冷蔵庫に入っていて誰も食べなかったかちかちのアイスキャンディーの色にそっくりで、それで毎日あそこでサンドイッチを売ってるから』ということでつけたその理由。そんな『ミス・アイスサンドイッチ』をはじめて『みつけた日はママと一緒だった』ものの、『ママ、あの人の目をみてよ!と驚いたぼくの声にママは聞こえないふりをし』ます。『瓦のついた木造の、どこにでもあるふつうの茶色の古い家』にママと『四歳のときに死んでしまったお父さんのお母さん』であるおばあちゃんと三人で暮らす麦。そんな麦は『ミス・アイスサンドイッチはすごく無愛想だ』と思うも『ぼくの順番なんてずうっとこなければいいのにと思いながらぼくはまばたきだってほとんどしないで、ただひたすらにミス・アイスサンドイッチをみ』ます。そして、『ぼくはミス・アイスサンドイッチの目でいっぱいになってしま』う『夏休みを過ごし』ました。やがて二学期になったある日、集団下校の中、他の学年を見回し『四年だけがずいぶんまとも』と思いながら歩いていると、『いきなり後頭部を叩かれ』ます。『ネバモ!』と叫ぶのは『おなじクラスのヘガティー』でした。『カラスをみつけたらなぜか近くにいる人の頭を思いきり叩いても許される』ことが流行りだし、『必ずネバモ!って叫ぶのが条件で、さきにそれを叫んだ人に叩く権利がある』という中にやられた麦。『クラス替えをして早々の昼休みに、ばれないと思ったのか教室でおならをした』、それが『紅茶のにおいがする』ことから麦が『ヘガティー、とぱっと思いついた名前を』口にしました。それが一気に広がり、当初、『露骨に恨んでい』たヘガティーでしたが、やがて『おならの意味がとれ』、『純粋なヘガティーの名前に』なります。そして、父親と二人暮らしのヘガティーの家に映画を見に行くようになった麦。一方で、『いつもおばあちゃんが寝ている部屋で宿題をしたり本を読んだりして過ご』す麦は、『おばあちゃんにだけミス・アイスサンドイッチの話を』します。『こたつに入って、ミス・アイスサンドイッチの絵を描いたりもする』という麦は、『最初に輪郭を描いて、それから前髪を描く。つぎは頭をまるく囲って、つぎになんとなく鼻。そして口。最後に大きな目をふたつ描いてからまぶたを水色で塗ると急にそれっぽくなって、ぼくは思わず感心して、ふうん、と声を出したり』します。そんなある日、いつものようにスーパーに行くと、男が『ミス・アイスサンドイッチにむかって怒鳴ってい』る光景を目にします。そんな麦の小学生の日常が描かれていきます。

    “元気娘のヘガティーとやせっぽちの麦くん。寂しさを笑顔で支えあう小学生コンビが、大人の入口で奇跡をよぶ”と内容紹介にうたわれるこの作品。「新潮」の2013年11月号と2015年9月号にそれぞれ掲載された短編を一冊にまとめた作品であり、渡辺淳一文学賞を受賞してもいます。

    如何にも小学生な男の子と女の子が並んでいる、そんな二人を優しい筆致で描いた表紙がとても印象的なこの作品ですが、文体の印象も表紙の印象そのままです。そうです。この作品は思春期の入り口に差し掛かった男の子と女の子のふわっとした内面感情を丁寧に描いていきます。では、まずは男の子・麦視点で描かれる一編目の〈第一章 ミス・アイスサンドイッチ〉を見てみましょう。この短編では、麦自身が名付けたスーパーのサンドイッチ売り場に立つ店員『ミス・アイスサンドイッチ』を意識する麦の姿が描かれていきます。『まぶたはいつもおんなじ水色がべったりと塗られていて…』という外見からそんな風に名付けた麦ですが、お姉さんにあたる女性のことを意識する様がいじらしく浮かび上がります。そして、列の順番に並ぶ麦の思いがこんな風に綴られます。

     『ぼくの順番なんてずうっとこなければいいのにと思いながらぼくはまばたきだってほとんどしないで、ただひたすらにミス・アイスサンドイッチをみている』。

    順番がやってきて『お金を受けとったりお釣りを返したりするときにまぶたがめくれて大きくなるあの目がやってくる』という瞬間にはこんな感情も顔を出します。

     『あごのすぐ下と鎖骨のあいだのくぼんだあたりがぎゅっとしめつけられたような感じになる』。

    そんな感情を『猫を抱っこするときにさわるお腹の、やわらかいたよりなさ』、『足の甲でこすってみる毛布』、『ホットケーキの茶色にとけてゆくときに透明になるバターの色』とさまざまな比喩で喩えていく麦は、

     『ミス・アイスサンドイッチからサンドイッチを受けとってしまうと、匂いが急に冷たくなる』。

    そんな風にも感じます。なんとももどかしい麦の思いに、それがね、恋って言うんだよ!と教えてあげたい思いが募る中に物語は展開していきます。一方でそんな『ミス・アイスサンドイッチ』のことを共有するおばあちゃんへの想いも見え隠れします。介護サービスを受け部屋から寝たきりのおばあちゃん。

     『おばあちゃんは、たぶんきっと、そう遠くないうちに死んでしまって、そして、いなくなってしまうだろう』。

    そんな現実を見据えてもしまう麦。

     『眠っているおばあちゃんと、これから死んでいってしまうおばあちゃん。このふたつは、おなじおばあちゃんなんだろうか』。

    この視点は秀逸だと思います。小学校四年生の男の子の視点、まだ自分が何者かも当然意識することのない中に、また、『ミス・アイスサンドイッチ』のことが気になるというその感情の正体に気づけないもどかしさが描かれていく物語。そんな物語は予想以上に呆気なく終わりを告げます。「新潮」2013年11月号でこの短編だけ読んだ当時の読者はなんとももどかしい思いに包まれたであろうことが感じられます。

    そして、呆気なく終わった〈第一章〉に続くのが女の子・ヘガティー視点の〈第二章 苺ジャムから苺をひけば〉です。元々、『クラス替えをして早々の昼休みに、ばれないと思ったのか教室でおならをした』、それが『紅茶のにおいがする』というところから麦が名付けたヘガティーという失礼極まりない名前の女の子視点で描かれるこの短編。初出である「新潮」2015年9月号では前作から二年近くが経っています。その間に川上未映子さんにどういう思いの変化があったのかは分かりませんが物語は同じ小学生視点にも関わらず随分と読ませる物語に変容しています。麦視点の〈第一章〉はもしかすると人によっては途中でギブアップされる方がいるかもしれないほどにフワフワした掴みどころのない雰囲気感に包まれていました。それが、〈第二章〉に入って一気に読ませる物語へと変容します。この構成は内容こそ異なるとはいえ、同じく少年と少女視点の二部構成を取る加納朋子さん「いつかの岸辺に跳ねていく」を思い起こさせます。

    そんなこの作品の〈第二章〉に描かれていくのが、父親のパソコンに残されていた次の一文にヘガティーが触れた先に展開する物語です。

     『二〇〇三年四月、女児誕生。妻とはのちに死別。なお、前妻とのあいだにも一女をもうけている』。

    ヘガティーは三歳の時に母親と死別した先に父親と二人暮らしの今を生きてきました。そんなヘガティーが知った衝撃的な真実。

     『お父さんは、わたしが生まれるまえにもお母さんではない女の人と結婚していて、その女の人とのあいだにも子どもがいる』。

     『ということは、母親のちがうお姉ちゃんがわたしにいるということだ』。

    小学六年生という思春期の芽生えの時期に与えられた情報としては衝撃すぎるその内容はヘガティーの心を大きく揺れ動かしていきます。小学生時代というものは、自分が何者かを意識し出す時代でもあると思います。自分は本当に父親と母親の子供なんだろうか?私も小学生当時そんな思いに苛まれたことがありました。この〈第二章〉の主人公・ヘガティーが受けた『お姉ちゃんがわたしにいる』という衝撃は相当なものだと思います。一人っ子としての人生が突き崩されるかもしれないその事実。物語は、さまざまな思いに駆られていくヘガティーの揺れ動く心の内を鮮やかに描き出していきます。〈第一章〉、〈第二章〉と続けて読んだ身には、物語が別物に変化したかに感じる極めてシリアスなその展開。これから読まれる方には、読むのを途中で投げ出したくなる〈第一章〉の先に、必ずや読み切って良かったと思う〈第二章〉が待っている、そのことを念頭に読み切っていただければと思います。思春期の萌芽を見る懐かしい感情、誰もが通ってきた繊細な思いに満ち溢れた時代を垣間見せてくれる物語がここには描かれていました。

     『どんなに世界が広くても、どんなにたくさんの人がいても、今、わたしがいるここは、ここにしかなくて、そしてそれが、ありとあらゆるところで、同時に起きているのだ』。

    思春期の萌芽を見る小学生のヘガティーと麦がそれぞれの章で主人公となるこの作品。そこには、” 互いのあこがれを支えあい、大人への扉をさがす”二人の小学生の日常が描かれていました。小学生視点で優しく描かれていく物語に次第に入り込んでしまうのを感じるこの作品。”寂しさを笑顔で支えあう小学生コンビ”の友情を熱く感じるこの作品。

    どこまでも柔らかく、やさしく紡がれていく物語。そう、じっくりゆっくり味わいたい、そんな物語でした。
    続きを読む

    投稿日:2024.02.12

  • なつこ

    なつこ

    終盤ヘガティーの話の展開はドキドキする。小学4年生と6年生の子どもたちの憧れに起因する物話。どんどん口語のやりとりが中心に移り変わっていくので、主人公達の隣に佇んで会話を聞いているような気持ちになった続きを読む

    投稿日:2023.10.04

  • ますく555

    ますく555

    このレビューはネタバレを含みます

    「あこがれ」が小さな冒険につながっていくふたつのお話。第一章は小学四年生の麦くんのお話で、第二章は六年生になった麦くんの親友の女の子、ヘガティーが主人公のお話です。

    このさき、ネタバレありです。というより、今回はネタバレばかりです。読んだことのない方には「てんでなんのことやら」かもしれませんが、あしからず。



    海外文学ぽい感じを試したのかなあと最初は思った第一章。ストーリーからの感想などの、本来メインともいうべき感想からは離れたようなことを言うことになります。

    主人公・麦彦のおばあちゃんの人となりが感じられるところがよかったです。人間の老化は避けられません。でも、まだ十分に動けていた過去というものは消えることはなく、たとえば主人公の少年の記憶の中には、おばあちゃんがしっかり歩いていたり話していたりしたときの様子が残っている。老いて介護が必要になったおばあちゃんが今のおばあちゃんなのだから、そのおばあちゃんという人間は老いて動けなくなった人だというふうに理解され、接せられようになっている。でも、そこばかり見ていると、なんら無味乾燥な見方しかしていなくて、実はなにもわかっていないと言えるものだったりもする。その人が生きてきた経過、内容、過程。音楽だって、最後の10秒だけ聞いてもわからないのといっしょで、人間だって、たとえば最後の1年だけ見ていてもその人という存在はわからないのだと思う。本書でおばあちゃんについて書かれているところは短いです。それなのに、しっかり「人」を理解するためにとらえておくポイントがわかって書かれているから、おばあちゃんが出てくると、なんだか胸が温かくなるのだと思う。

    これは、主人公があこがれる若い女性・ミス・アイスサンドイッチが最後に主人公と喋るところもそう。そこでミス・アイスサンドイッチにやっと平熱とでもいえる温度が宿って、それまでの距離感からくる「他人的な理解」から、しっかりその人の人生を肯定した「隣人的な理解」へと印象が変わり、そのうえで人物が描かれているように感じられた。ミス・アイスサンドイッチにもまぎれもなく血が通っていて、考えて感じてその都度選択をして生きていて、自分の人生を歩いているさまがある。おばあちゃんと同じようにミス・アイスサンドイッチも、短い会話シーンだけでもう立体的かつ愛すべき人間として描かれていて、それは作者の優れた筆力のほかに人間観から大きくきているだろうことなので、そういった豊かさのこもっているところがいいなあ、と僕は思いました。

    海外文学的な乾いた文体で表面的に文章が流れていく感覚が強めのスタイルに挑戦しての本作なのではと思えたのだけれど、おばあちゃんとミス・アイスサンドイッチ、この二人に人間の良心が反応するものが息づいていて、それは本作では子ども視点で書かれているものゆえに、ちらりといった程度でのそういった人間性の登場になったのでしょうが(なぜかというと、大人が大人になっていく過程や大人として生きていくなかで培われるものだろうからです)、作者の才能の本流はその、ちらりのほうだよな、と僕には感じられました。

    第二章。
    四年生から六年生になり、そして男子から女子へ主人公も変わって、言葉で世界をとらえる解像度が上がっているし、考えることの深みも増しています。ひょんなところから、主人公・ヘガティーに異母姉がいることがわかり、ヘガティーの心理が変わっていく。お父さんに対する心理についてはもうそうですが、そのお姉さんの姿を一目ながめてみたい、と思うようになる。そして、会うことが出来て、姉の家に招かれたところの様子からがとくに引きこまれました。姉は、自分の実父のことなんかどうでもよいと考えているし、妹がいることにも何とも思わないと率直に述べるのですが、この姉とその母に対するヘガティーとの距離感、場違いな感じにはたまらないものがあります。他人同士の気づかいよりも近く、そして肉親の距離感にしては嫌悪感みたいなものがある息苦しい空気が醸し出されます。こういう居づらい感じってときにあるよなあ、と僕も思い出しながら読んでいました。そして、この家を出てからが圧巻のスピーディーな流れに巻き込まれることになります。剥き出しの自分のままぶつかっていくように生きているところの描写、といえばいいでしょうか。著者はそういった生々しく激しいところを活写する力が相当ある方だと思います。そして、そういった力で畳みかけられて、圧倒されるようになって、書かれている言葉を、がぶがぶあっぷあっぷと飲み干すような読書体験になるのでした。この最後の数十ページで、『あこがれ』という作品の高みがぐっと持ち上がった感じがします。

    というような、「作品紹介」ではなく、「個人的雑感」といったレビューになりました。執筆終わりでへろへろになっているときはこんなものでしょう……。とはいっても、今回三作品目となった川上未映子さん。もうこの方は、作家としての力はすごいものだ、手に取るときに躊躇することはないぞ、という思いが確たるものとなりました。相性もあるのでしょうが、そういった作品に出合えたこと、この世界に存在することを知り得たことは、自分にとってものすごく幸せなことなんじゃないだろうか、というような、ちょっと噛みしめるような喜びがあるのでした。

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    投稿日:2023.09.18

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