司馬遼太郎畢生の大長編!西郷隆盛と大久保利通。ともに薩摩藩の下級藩士の家に生まれ、幼い時分から机を並べ、水魚の交わりを結んだ二人は、長じて明治維新の立役者となった。しかし維新とともに出発した新政府は内外に深刻な問題を抱え、絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治六年、長い間くすぶり続けていた不満が爆発。西郷は自ら主唱した“征韓論”をめぐって大久保と鋭く対立する。それはやがて国の存亡を賭けた抗争にまで沸騰してゆく――。西郷と大久保、この二人の傑人を中心軸に、幕末維新から西南戦争までの激動を不世出の作家が・・・
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薩軍は各地を転戦の末、鹿児島へ戻った。城山に立て籠る兵は三百余人。包囲する七万の政府軍は九月二十四日払暁、総攻撃を開始する。午前七時すぎ、西郷隆盛は二発の小銃弾を体に受ける。一度倒れ、起き上がった西郷は、薩軍幹部・別府晋介をかえりみて言った。「晋ドン――」。そしてその翌年、大久保利通もまた――。激動の時代、ここに終熄。『翔ぶが如く』完結巻。
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熊本めざして進軍する政府軍を、薩軍は田原坂で迎えた。ここで十数日間の激しい攻防戦が続く。薩軍は強かった。すさまじい士気に圧倒され、政府軍は惨敗を重ねた。しかし陸続と大軍を繰り出す政府軍に対し、篠原国幹以下多くの兵を失った薩軍は、銃弾の不足にも悩まされる。薩軍はついに田原坂から後退した――。
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明治十年二月十七日、薩軍は鹿児島を出発、熊本城めざして進軍を開始する。それは西郷隆盛にとって妻子との永別の日となった。迎える熊本鎮台司令長官・谷干城は籠城を決意、援軍到着を待った。戦闘開始。「熊本城など青竹一本でたたき割る」勢いの薩軍に、綿密な作戦など存在しなかった。圧倒的な士気で城を攻めたてた。
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熊本、萩における士族の蜂起をただちに鎮圧した政府は、鹿児島への警戒を怠らなかった。ことに大警視・川路利良の鹿児島私学校に対する牽制はすさまじい。川路の命を受けた密偵が西郷の暗殺を図っているという風聞が私学校に伝わった。明治十年二月六日、私学校本局では対政府挙兵の決議がなされた。大久保利通の衝撃は大きかった――。
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台湾撤兵以後、全国的に慢性化する士族の反乱気分を、政府は抑えかねていた。鹿児島私学校の潰滅を狙う政府は、その一環として、兵部大輔を辞め萩に帰った前原一誠を頭目とする長州人集団を潰そうとする。大警視・川路利良が放った密偵は萩で前原を牽制。しかし、士族の蜂起は熊本のほうが早かった。明治九年、神風連ノ乱。
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征台の気運が高まる明治七年、大久保利通は政府内の反対を押し切り清国へ渡る。実権を握る李鴻章を故意に無視して北京へ入った大久保は、五十日に及ぶ滞在の末、ついに平和的解決の糸口をつかむ。一方、西郷従道率いる三千人の征台部隊は清との戦闘開始を待ち望んでいた。大久保の処置は兵士たちの失望と不満を生む。
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西郷に続いて官を辞した、もとの司法卿・江藤新平が、明治七年、突如佐賀で叛旗をひるがえした。この乱に素早く対処した大久保は、首謀者の江藤を梟首に処すという苛酷な措置で決着をつける。これは、政府に背をむけて隠然たる勢力を養い、独立国の様相を呈し始めている薩摩への、警告、あるいは挑戦であったのだろうか。
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「西郷と大久保の議論は、感情に馳せてややもすれば道理の外に出で、一座、呆然として喙(くちばし)を容るるに由なき光景であった」(板垣退助)。明治六年十月の廟議は、征韓論をめぐって激しく火花を散らした。そして――西郷は敗れた。故国へ帰る彼を慕い、薩摩系の士官たちは陸続として東京を去ってゆく。内戦への不安は、いまや現実となった。
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西郷隆盛と大久保利通。ともに新政府の領袖となったふたりは、いまや年来の友誼を捨て、征韓論をめぐり鋭く対立している。西郷=征韓論派、大久保=反征韓論派の激突は、政府を崩壊させ、国内を大混乱におとしいれた。事態の収拾を誤れば、この国は一気に滅びるであろう・・・・・・。
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司馬遼太郎畢生の大長編!西郷隆盛と大久保利通。ともに薩摩藩の下級藩士の家に生まれ、幼い時分から机を並べ、水魚の交わりを結んだ二人は、長じて明治維新の立役者となった。しかし維新とともに出発した新政府は内外に深刻な問題を抱え、絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治六年、長い間くすぶり続けていた不満が爆発。西郷は自ら主唱した“征韓論”をめぐって大久保と鋭く対立する。それはやがて国の存亡を賭けた抗争にまで沸騰してゆく――。西郷と大久保、この二人の傑人を中心軸に、幕末維新から西南戦争までの激動を不世出の作家が全十巻で縦横に活写する。
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