【感想】スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道

山本直輝 / 集英社新書
(3件のレビュー)

総合評価:

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  • 遠い国なのに、不思議なほど近い感性

    NARUTOなどのジャンプ漫画に見られる師と弟子の関係性や道の極め方がスーフィズムと似ていてムスリムに人気らしい。「神秘主義」と訳されるとおどろおどろしく感じるけれど、人道支援NGO活動を行い社会に生きて奉仕するように「教条的な伝統芸」ではない面が多くある。武道や茶道に似た「型」の重視、人間の弱さと向き合う姿、ある教団では最高位奉仕職が料理長、など多くのエピソードが興味深かった。続きを読む

    投稿日:2024.01.24

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    この内容が新書で読めるのはありがたい。
    スーフィズムを「神秘」と訳出したことによって生じた誤解も多かれ少なかれあると思われる。
    この本に基づけば、イスラーム神秘主義の考え方は、結果よりも過程を大事にする日本の○○道と共通する部分があり、馴染みやすいものであった。

    イランのレストランで、ウエイターの担当業務がかなり細分化されていることと神秘主義は何かしら関係があるのかなとも思った。
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    投稿日:2023.09.27

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    スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道 (集英社新書)

    序章 イスラーム神秘主義とは何か?

    日本にとってイスラーム文化はまだまだ遠い存在であるが、ムスリムは実は日本をマンガという媒体を通して非常に親しみを持って見ているのである。では、トルコ人が日本のマンガとの共通点を見出した「スーフィズム」とはどのようなイスラームの精神文化なのだろう?

    イスラームにおいて基本の六信五行(六信「アッラー、天使、啓典、預言者、来世、予定」の信仰箇条、五行は「信仰告白、礼拝、喜捨、断職(斎戒)、巡礼」の義務行為)に加えて悟りを得るための特別な修行や思索を重ねる人たちを「スーフィー」と呼び、彼らの哲学や修行の総称を「タサウウフ(スーフィーになること) 」と言う。

    イスラームの共同休は現在大まかに言って「スンナ派」と「シーア派」に分かれているが、スーフィズムは両打どちらにも存在し(シーア派ではエルファーンと呼ばれる) 、哲学や倫理・道徳、修行論など、さまざまな角度から人間の内而に迫るイスラームの精神的営みである

    哲学や倫理, 道徳、修行論、政治など、さまざまな要素を含むスーフィズムだが、その中心的ストーリーは、「人は弱く、問違いを犯す存在である。しかし修行者は師の助けを通じて己の精神的完成をひたすら目指す中で、人間を見捨てず絶えず導こうとしているアッラーの愛に気づく」ということである。スーフィズムのキーワードは人間と師、「神(アッラー)」である

    このようなスーフィズムの修行は「スルーク:実践」と呼ばれ、特定の実践法を採用する組織化した修行集団は「タリー力 」と呼ばれる。タリー力とはアラビア語で「道」を意味し、剣道や柔道、武士道や茶道などの「道」とほぼ同じ用法である。
    タリー力の修行は個人や集団での祈禱や呼吸法、学問書の講読など、さまざまな方法があるが、共通するのは師から弟子に伝えられる伝統文化であることだ。

    先生なくしてス—フィズムはあり得ない。師と弟弟子は生涯を通じて教え学び、スーフィズムの知識の継承を行う。スーフィズムでは、理想とされるスーフィーは「自らを完成へと至らせるだけでなく、周りの者も完成へと導く者」とされる。ただ徳が高いだけでは十分ではない。スーフィーは、自らだけでなく、他者を導くことによって初めて本物のスーフィーになれるのだ。

    スーフィズムではアッラーと人間の感情を通じた精神的関係性、心のつながりに特に注目する。スーフィズムの詩や神秘思想、修行論ではアッラーの人格神としての側面も同じくらい、あるいはそれ以上に追求されている。

    スーフィズムではこのような「神の愛」を味わうことを究極目的とし、 スーフィーの思想家たちはその境地を哲学や音楽、詩などさまざまな形で表現してきた。
    「心からアッラーを求めていれば、その名を唱えさえすれば罪は赦され救われる」という思想
    は、南無阿弥陀仏、「阿弥陀仏の本願」思想に親しんでいる日本人にとっても決して理解が難しいものではないだろう。

    イスラームは「唯一神理解(タウヒード) 」という核は保ちながらも、アフリカやアラブ、トルコ、ペルシアからインド、マレー地域に伝播するにあたって、現地の文化と対話を重ねながらそれぞれの独自の色彩を獲得していったという。そして、歴史的にそのようなイスラームのさまざまな色彩を作り上げていったのは、スーフィーである。ならば日本人の我々もまた、伝統文化、ポップカルチャーなどさまざまな日本文化を「ものさし」として使いながら、イスラームを理解するような試みを始めてもいいのではないだろうか。

    第一章 学問としてのスーフィズム

    イスラー厶では使徒・预言者は人類に対して啓典をもって「知識を授けること」と「心を浄化すること」というふたつの役割を担って遣わされる。しかしイスラー厶では使徒・預言者は預言者ムハンマドが最後となり、以後人類に新しい使徒・預言者が遣わされることはないという。

    預言者ムハンマドが存命中は、預言者とは神と
    直接コミュニケ—ションの取れる人間であるため、啓典をもって人々に教えを授けることもできれば、心の浄化の作法を伝えることもできるが、預言者厶ハンマドの死後はそういった機会がなくなってしまうということである。さらにクルアーンも最後の啓典であることから、 何世紀も後の時代の人間やアラビア語を解さない地域に住む人たちは、その「知と浄化」の枚えをどうやって埋解すればいいのだろうか、 という問題も生じてくる。ここで、 預言者ムハンマドが找した次のようなハディースがある。
    学者は預言者の相続人である。

    つまり預言者なき時代は、イスラー厶の教えを理解し、継承する学問と実践の専門家である学者がイスラーム共同体(ウンマ) を担う責任を持つという意味である。そして、イスラー厶学者たちは、イスラー厶の教え(叔智・知識) を教える学間として神学と法学、心の浄化の作法・実践を教える学問をスーフィズムであるとした。この神学・法学・スーフィズムという三分野によって成り立つ伝統イスラー厶の構造である。

    伝統イスラー厶にとって、「神学・法学」と「スーフィズム」は人類が真理に至るための両
    輪のようなものであり、どちらかひとつでも欠けたら成り立たない。また「知識」と「浄化」はお互いがバランスをもって支え合うことが重要であり、 頭でっかちの神学者や机上の空論の法学者、教義や法を逸脱したスーフィーになることはイスラー厶の理念とは反する。

    スーフィズムという学問も、正統イスラーム学に紐み込まれて800年以上が経過しているが、クルアーンで説かれている浄化の道とは何なのか、そのあるべき実践の形とは何なのかについては今でも議論と試行錯誤が^ ねられている。さらに啓典のアラビア藉を理解できない一般人や別の言語、文化圏に属する人々に対してその浄化の道を伝える適切な方法は何かについても、ギリシア哲学の論理法を取り入れたり、その地域の芸術や武術を取り入れたり、アラビア語から現地語に翻訳し、詩や散文の形式で伝えたりと試行錯誤は続いている。

    スーフィーたちの世界観では、スーフィズムはアブラ八厶の祈りによってアッラーが人類に伝えた心の浄化の道である以上、それは一神教の歴史において最も確立された伝統に他ならないが、それを伝える手段には、時代や地域によってさまざまな創意が加えられてきたのである。

    スーフィズムは大きく分けてふたつの領域に分かれる。ひとつ目は イスラームの根本教義であるタウヒード(アッラーの唯, 絶対性) の真理を神秘哲学、存在論の観点から思索する哲学的スーフィズム(タサウウフ・イルミー) 、ふたつ目はタウヒードを信仰告白や礼拝、喜捨、断食、巡礼などムスリムとしての義務行為や作法、祈禱や瞑想、音楽や詩作、食歩など特別な崇拝行為から日常の作法など実践を通じて味わう実践的スーフィズム(タサウウフ・アマリー)である。

    哲学的スーフィズムは研ぎ澄まされた精神による集中力と論理的思索によって、絶対的ー者としてのアッラーの存在から、この世の多様な被造物がどのように顕現したのかを考察する学問である。

    一方、実践的スーフィズムは必ず師匠の監督と指導の許でさまざまな修行を禾ねることで心を磨き、この世を創造した絶対的ー者としてのアッラーの存在や愛を感じ取ることを目的とする。
    浄化の道としてのスーフィズムは、この哲学と実践という両輪によって支えられている。

    哲学的観点からは、スーフィズムとはこの世に存在しているように見える被造物は実はまやかしで、夏のリアリティを持っている貝実在であるアッラーの存在を認識するための見識を養う営みである。実践的親点からは、スーフィズムとは心眼を曇らせる心の欲望や雑念をコントロールする境地を身につけることを目的とする。

    実践を続ければ、見識が欲望に迷わされることは少なくなり、見識が磨かれれば、眼前にある世界と己の存在次元への理解が一段と深くなり、今、自分にとって必要な心の状態は何なのか、それを獲得するためにどのような修行が必要なのかについても理解できるようになっていく。

    第二章 師匠と弟子—スーフィズムの学びのネットワーク

    アッラーに至る修行の道は人間の数だけ存在する。ナジュムッディーン・クブラー

    スーフィズムでは、修行の段階によって人間を三つの段階に分け、イスラームの教えの理解の深度も各段階によって違うと考える。
    1 一般人:六信五行などイスラームの基本的な信仰や実践はしているが、スーフィズムの特別な修行をしていない一般般層。
    2 選良:より良い人間になりたいと、スーフィズムの修行を師匠の許で始めた人たち。
    3 選良中の選良:アッラーへの愛に目覚めることで苦しみから逃れ、さらに周りの人間の指導に励む人たち。

    トルコで影響力を誇るナクシュバンディー教団では免許を「知識の免許」と「修行の免許」に分けている。「知識の免許」とはアラビア語や論理学、ハディース学、クルアーン解釈学、神学、法学など伝統的なイスラーム諸学の習得を証明するものであり、「修行の免許」とは祈褚や精神集中、社会泰仕などさまざまな修行を経たことを証明するものである。

    一七からー八世紀中国のイスラー厶学者劉卻はこの3つの段階の人間にとってのイスラー厶をそれぞれ「礼のイスラ—厶」、「道のイスラー厶」、「真のイスラー厶」と呼んだ。

    原則的にスーフィ—教団の修行法はアッラーから伝えられた奥義であるため、その内容を改変したりせずにそのまま伝えることが求められるのだが、師匠とは異なる新たな悟りを得たと考えた弟子は、同じスーフィー教団の中で新たな流派を開いてその初代導師となることもある。しかし、何が正統なスーフィー教団の流派かを決める公的な機関は存在しないので、新しい流派が発展するか廃れるかは弟子がついてくるかどうかによる。つまり人気が出るかどうかである。

    スイルヒンディーによれば、 弟子の最後の礼儀とは「師匠に挑戦し、 乗り越え」、 自らのスーフィー道を作り上げることであるという。近现代のサラフィー迎動やムスリム同胞団をはじめとした近代イスラ— ム主義はもっぱらスーフィズムの伝統墨守、権威への追従姿勢を批判するが、ナクシュバンディー教団のスーフィズム論を見る限りはそのような批判は的外れであると言えよう。スーフィズムの修行とは、いつか自らを超えていく人間を育てていくための師匠と弟子の緊狼感に満ちた関係性によって成り立っているのだ。

    第三章
    西欧とスーフィー中東を越えるスーフィズムのネットワーク

    実はチャールズ三世は、このナーズィム師の影響を受けイスラームに改宗したという噂があるのだ。チャールズ三世がムスリムであるかどうかは別にしても、彼はイギリス王室の中ではかなりの「イスラーム好き」の王族として知られている

    イギリスのムスリムも移民二世、三世の時代となり、白人系改宗ムスリムの間からも世界的に発言力のあるイスラーム学者が登場するようになった。イギリスのムスリムたちの関心も「自分たちが受け入れられるかどうか」から「ヨーロッパに生まれ育ったムスリムとして独自のイスラーム文化を創造できるのか」といった間いに移行しつつある。

    しかし、英国とイスラー厶の歴史というと、私たちはもっぱら英国の秘民她政策や東インド会社、あるいはパレスチナをはじめとして、 中東に多くの政治的問題を残した三枚舌外交に代表される英国の「支配」と「裏切り」の歴史を思い浮かべるのではないだろうか。

    ルネ・ゲノンはー九世紀の啓蒙主義の物質主義的態度に反発し、現代西洋文明を本来の伝統的神神からの逸脱と捉え、西洋のギリシア哲学やキリスト教神秘主義、朿洋のイスラームや仏教、道教に通底する「精神的伝統の究極的一致」を唱えた人物である。この伝統主義学派と呼ばれるサークルは、伝統的宗教の教えの中には程度の差こそあれ、共通する普遍的な人理が存在することを信じている。そして彼らは、イスラームの伝統の中でも特にスーフィズムに対する深い憧憬で知られている。

    チャールズ三世隠れムスリム説の文化的背荒のひとつとして、実はこのような白人の改宗イスラーム教徒たちのスーフィー教団を軸とした知的系譜がある。彼らはイスラーム文明のアラブ、インド・ペルシア、トルコ、マレー・インドネシア、アフリカ文化に並ぶ、独自の「アングロ・イスラー厶」の知的伝統を、スーフィズムの師匠と弟子の系譜を軸として菜いてきたのである。

    第四章 スーフィズムの修行(1)ー心の型

    知識とは、真理を知ることだ。
    真理とは、汝自身を知ることだ。
    お前は汝自身について何も知らない。
    ならば学びに何の意味があろう。
    ユヌス・エムレ

    あらゆるものの内、汝自身より最も汝に近いものはない。
    汝が汝自身を知らないとすれば、
    他のものをどうして知ることができようか?
    ガザーリー『幸福の鍊金術』

    スーフィズムの修行論は大まかにいってふたつに分けられる。ひとつ目は、人間の心のはたらきを分析する「心( ラタ—イフ) 論」、ふたつ目は修行者の日常の作法や師匠との向き合い方、 祈褚や暝想法を規定する「修行者の作法(アーダーブ・ムリード) 論」である。そして心の分析と修行実践をつなぐジャンルとして、「神秘階梯(マカーマー卜) 論」と「心の旅と実践(サイル・ワ・スルーク)論」がある。

    しばしば、イスラームの概説書ではスーフィズムは「外而よりも内面を朮視する神秘主義」、「イスラームの形式化を批判する改革運動」と説明されるが、この表現は誤解を招く。
    なぜなら形よりも心を、 外面よりも内面を重んじるものとしてスーフィズムを捉えてしまうと、スーフィーたちがなぜ日常の作法や祈禮の方法などの修行のやり方を事細かく規定したのかが理解できないからだ。

    イスラーム研究者である中田考は、スーフィズムを次のように定義している。
    「形」に対して「心」を垂視する、といったものではなく、むしろ、それは、「心」をも「形」に対応させる、つまり特定の心の状態をもたらすための行法の形式を定める、という方向性を持つものであった。それが「修行者の作法」と呼ばれるものである。

    イスラームの戒律「シャリーア」には、恭本的に「心で何を考えているか」については戒律的な規定は存在しない。また人間が他人の心に踏み込むことは好ましくないと考えられており、カトリックの吿解制度などと比べると、イスラームは個々人の内面は極めてプライベートなものだと捉えている。

    修行者が預言者の慣行や過去のスーフィー修行者の日常倫理、祈禱法などを習い、熱心に自身の生活に取り入れようとするのは茶道の心と同じように「先人の所作をまね、それによって彼らの心をまねること」であり、「預言者、スーフィー修行者の型をたどることで、修行の基となるはたらきと心を自分自身の中に再現しようとする試みなのである。

    イスラー厶中興の祖アブー・ハーミド・ガザーリーは 『宗教基礎学四十の教理』の中で、 人間の本性を次のように語っている。
    人間は、様々な性質が混ざり合ってできている。すなわち動物的性質、狙獣的性質、悪魔的性質、君主的性質である。動物的性質からは欲望、強欲、嬌りの感情が、猛獣的性質からは怒りや嫉妬、敵.总、憎しみの感情が、悪魔的性質からは策謀や針路の感情が、君主的性質からは傲慢や自己承認欲求、権力欲といった感情が生まれる。以上の四つの基本的性質は人間の奥深くに練りこまれているため、決して取り除くことなどできない。理性とシャリーアによって支えられた信仰の光によってのみ、この暗い感情から我々は救われることができるのだ。

    ナクシュバンディー教団の修行書『内観の法学(フィクフ・ハーティン)』では、人間の精神的成長の度合いによって魂は次の七段階に分かれると考える。
    第一段階 悪を命じる魂
    スーフィズムの修行を行っていない普通の人間の魂がこれにあたる。人間の本性である暗い感情や欲望に常に惑わされ、正しい道を見出せない状態である。

    第二段階 非難する魂
    スーフィズムの修行を始めたばかりの人間の魂である。修行を始めたことによって魂に光が宿り始めるが、いまだ過ちも犯してしまう。しかし過ちを犯すたびに後悔し、自分自身を責め、より良い人間になろうともがいている段階でもある。

    第三段階 神に導かれる魂
    後悔と反省を繰り返しながらも修行を続けていくと、 あるときを境にアッラーからの神秘的導きが心に現われるようになるという。この神秘的導きをイルハームという。この段階の魂はあらゆる逆境を耐え忍び、 神からの恵みに感謝するようになる。

    第四段階 穏やかな魂
    風がやんで海面が静かになった風のように、心から雑念や葛藤が取り除かれた状態を指す。この状態に至ると修行者は社会の中にいても心は常に折褚を通してアッラーとつながり、 穏やかな境地を保てるという。

    第五段階 満たされた魂
    神の御心を理解し、自らの運命を神に委ねた境地のことを指す。良いことであろうと悪いことであろうとすべてアッラーの計画であると受け入れ、今このときを満たされた心で受け人れ生きようとする心の状態である。

    第六段階 神が嘉する魂
    この状態では修行者の心からは我欲が完全に消え、神の手足となって神に帰依し、他者に尽くす。この状態の修行者は「神の行為の写し」と呼ばれる。

    第七段階 完全なる魂
    真理に達した完全な魂の状態を指す。この境地に達した修行者は「完全人間(インサーン・カーミル) 」、「神の御名の写し」と呼ばれる。スーフィズムでは人間の完全性とは自己の救済ではなく、人々を^ き(イルシャード) 、完全さに至らせる(タクミール) ことだという。

    第五章
    スーフィズムの修行(2)—心を練り上げる祈禱

    修行なしに正しき心を練り上げることなど不可能だ。アフマド・スイルヒンディー

    人間の志向性を決定する「魂(ナフス) 」を磨くことで自己を引き上げることができる。スーフィズムではこのような自己の発展を「精神昇華(タラッキー) 」と呼び、それは心の深層に潜っていくことによって可能であるという。この深層性を持つ人間の心をスーフィズムでは「ラタ—イフ」という。

    スーフィズムの修行淪では精妙で幽玄な眼に見えない心の深層を構成する精神器官を指す。同時にラティーファはアッラーが持つさまざまな名前のひとつであり、スーフィズムでは人間の微細な心のはたらきを制御し、精神を磨き上げると人間の心はアッラーの精妙さを映し出す鏡のようになると考えられている。

    ハルヴェティ—教団における魂の七段階と「七つの御名の祈禍法」

    第一段階 悪を命じる魂
    第二段階 非難する魂
    第三段階 神に導かれる魂
    第四段階 穏やかな魂
    第五段階 満たされた魂
    第六段階 神が嘉(よみ)する魂
    第七段階 完全なる魂

    第六章 心の境地(1)

    人間と神の間には千の境地がある。 聖音ヒドルの格言 
     
    千の境地とは神の許へと向かう旅人が立ち寄る宿処である。旅人はひとつまたひとつと宿処を歩き登っていく。
    アブドウッラー・アンサーリー

    修行を行う中で、人間はさまざまな「雑念(ハワーティル)」に直面することとなる。この雑念は放っておくと心をどんどん曇らせていき、 神の真理から違ざけてしまう。修行者は自身の心に生まれるさまさまな感情を理解し、 心を正しい方向に向かわせることで、 このような雑念を克服できると考える。雑念に動かされない不動の境地のことを「階梯(マカーム)」といい、さまざまな境地を我得する修行者の心理的変移を、「神秘階梯(マカーマート)」と呼ぶ。

    悔悟はあらゆる修行を始めるための「心の出発点」となる境地である。スーフィズムにおいて最も重要なキーワードであるといってよい。タウバはアラビア語で「向きを変える」という意味で、「過ちを犯している状態から償いの道へと向き直る」ことを指す。スーフィズムでは人間は弱い存在であり、罪を犯すことを人間の本質のひとつと考えている。もちろん罪を犯さないに越したことはないが、大切なのは過ちを犯したときに自らの弱い本性を見据えること、そして誤ってしまった過去を悔い、そこからどう立ち直るかを考えることであるという。

    スーフィズムが説く人間の理想像として「完全人間(インサーン・カーミル) 」という考えがあるが、これは罪を犯さない完全無欠の人間という意味ではない。過ちから決別するのではなく抱えて生きていくような、罪と「向き合う(タウバ) 」覚悟を持った人間のことを指すのである。悔悟の境地は心の出発点にしてあらゆる境地の土台となるものであり、修行者は常に悔悟の境地を心に秘めながら、日々を生き修行に勤しむことが求められる。

    第七章 心の境地(2)

    神のしもべとは自由であることだ。
    自由とはいかなる被造物にも支配されず、あらゆる権力の恤から解放されることである。
    ビルギヴィー

    スーフィーによれば、人間の心は自分や他人が作り出した実体を持たない、リアリティのない虚構や幻想に囚われているという。
    「悔悟(タウバ)」によって自らの弱さや業を受け入れ、世界と真摯に向き合う「諦念(タワックル)」の境地を会得し始めた修行者は、次に心を縛る幻想を取り除く境地の獲得を目指す。

    人間の心を支配しようとする「実体を持たない虚構」をアフマド・スイルヒンディーは「心の中と地上に巣くう神と」と呼び、それを打ち破ることが修行の本饮であると説いた。実際に人間社会は「社会制度」や「お金」、「国境」など多くの決まり爭によって成り立っている。お金は記号でしかなくそれ自体に価値はないし、国境沿いに行ってもそこにあるのは地面や海である。虚構によって人間は生かされもするし、生きる場所を奪われもする。

    自由とは欲望のれいぞくからの解放である。
    クシャイリー

    スーフィー修行には「死の想念」という境地がある。死の想念とは、この世の儚さやうつろいやすさを悟り、執着心を消し去った境地のことである。スーフィーによれば、死の想念の境地は「畏れ(ハウフ)」、「節欲(ズフド) 」、「忍耐(サブル) 」の境地を磨くことにより達成される。

    スーフィーは「我欲の滅殺」を生物学的死よりも重要な「死」として考える。生物学的死は人間にとって不可避であることから、稳やかな心で受け入れることが求められるのに対し、我欲を消し去ることは修行によってのみ可能であることから「選び取る死」と呼ばれる。死の想念は、現世の傍さと虚構に気づくことで「選び取る死」を志すための覚悟を養う。

    周囲の眼や自我が生み出す雑念、過去や未来など現世の尺度に縛られず、今この瞬間に自分が為すべきことのみに集中する境地に達した自由な精神の持ち主を、 スーフィズ厶では「時の子」と呼ぷ。

    第八章修行者の心構え
    —ナクシュバンディー教団「十ーの言葉」

    ナクシュバンディー教団では、今まで紹介した心の作法や祈禱法、「神秘階梯( マカーマート) 」などスーフィズムの修行の基本的な見取り図を11の言葉にまとめた心得箇条がある。

    第一の心得 「呼吸における知覚」
    第二の心得「足元への視線 」
    第三の心得 「自国での旅」
    第四の心得 「集団の中での隠遁」
    第五の心得 「回想 」
    第六の心得 「回帰」
    第七の心得「注意」
    第八の心得 「追憶」
    第九の心得 「時の知覚」
    第十の心得 「数の知覚」
    第十一の心得 「心の知覚」

    第九章 五功の心—神・自然・人をつなぐ修行

    五功とは修道なり
    人と天が合わさるための道を追究することだ
    りゆうち

    日本では一般に「五行」としてまとめられるイスラームの五つの義務行為(信仰告白・礼拝・斎戒・喜捨・巡礼) は何のためにあるのか?
    スーフィーたちは、 修行者として生きてきた経験や修行中に得た近感を断りにイスラ—ムの宗教哭股の代味を説いてきた。スーフィズムではこのような経験を伴った知識のことをマアリファ、神から与えられた直感のことをイルハームと呼ぶ。マアリファやイルハームを用いてイスラームの六信五行を解釈するジャンルを、「イスラームの柱の奧義」と呼ぶ。

    信仰告白ー何のために生きるのか
    清め—人間の業を見つめる
    イスラームのすべては心身の浄化により成り立つ。
    礼拝ー森羅万象の祈り
    斎戒ー運命を受け入れ耐え忍ぶ
    喜捨ー自己犠牲の精神
    巡礼ー真理を求める旅へ

    自らの起源を知り、森羅・万象とのかかわりの中で自らの役割を学び、 神のもとへ還るために心身を鍛え上げる過程をスーフィズムでは「存在の円環(ダーイラ・アル=ウジュード) 」という。

    第十章 心を味わうー修行者の食卓

    我ら典理の道を歩む修行者、王の食卓にて食す。
    神よ、 この碗と食卓を永久のものとし給え。
    メヴレヴィー教団の格言

    メヴレヴィー教団では食事に際して以下のような基本作法が決められていた。
    1 食事は塩を摂ることから始まり、 塩を摂って終える。
    2 食事は一日二回。
    3 水は奇数回に分けて飲む( 三回、 五回、 七回など) 。
    4 水を飲むときは極力他人に見せないように飲む。
    5 ひとつの皿で食事を弟子たちと分け合いながら食べる。
    6 満腹になる前に食事を止める。
    7 パンや肉をナイフで切らない。

    ムスリム諸国の中でも特に嚴しい世俗主義を採用しているトルコだが、実はスーフィズムの粘神は社会のあらゆるところで残っている。例えば、
    「パン掛け」という文化がある。これはパン屋でパンを買うときに余分にパンを買い、墜に掛けられた専用の袋にパンを入れておくことで貧しい人が自由に食ベられるようにするというものである

    第十一章 武の心—スーフィーとマーシャル・アーツ

    強者とは、その力で人々を打ち負かす者ではなく、憤怒の中にあっても自制心を失わない者である。
    預言者ムハンマドの言葉

    中国イスラーム古典では、イスラームとは「天と人が合一するための法を探す修通の追求」であると説かれている。「内外の統一」である六合を身につけるために、明師を探し技術と人格を磨く武術は、まさに中国イスラーム思想の実践を担ってきたと言えるだろう。またこれらの武術はどれも「回族が編み出し、漢文化として受容され伝統として受け継がれてきた」ものであり、中国イスラーム文化が漢文明に大きな影響を与えてきたことを示す好例である。

    第十三章 人の心—絶望と希望

    人間の中には天使、ジン(精霊) 、獣、鳥に至るまで、大宇宙(マクロコスモス)におけるあらゆるものが存在する。
    大地や諸天、あるいは神の玉座でさえも抱えることのできない多くのものを、人間の心は抱えることができるのである。
    タシユキョプリザーデ

    現代社会に生きる我々は、見えるものがリアルで、見えないものはリアリティがないという世界観で生きている。それに対して近代以前の世界観では、本当のものはむしろ天上(あるいは地下) の見えない世界に存在していて、 一瞬前と今で変わっていくような我々の生きているこの見える世界は、 あくまでも仮象の現実でしかないスーフィズムもまさにこのような世界観に立脚している。

    スーフィー聖者のなかでもさまざまな修行を乗り越え、「心の支配者(スルタ—ン)」となった者を「インサーン・カーミル」と呼ぶ。スーフィズムの修行論はすベてこの「インサーン・カーミル」の境地に到達するための術を学ぶ常みであり、スーフィズ厶の哲学はすべてこの「インサーン・カーミル」から見た世界とはいかなるものなのかを説いているのだ。

    スーフィズムにおいてインサーン・カーミルは、神秘哲学では世界の秩序を守る超越的存在者として描かれ、政治哲学では、国を統治する支配者の理想形として提示され、 倫理学では預言者ムハンマドの徳を体現する個々人の理想形として説かれるなど、ジャンルによってその描かれ方は異なる。しかし「統合、包括、調和」を体現するという点で共通している。

    己の役割を受け入れている代替人は、「自分にしかできない何か」を探すこともなければ「自分探し」の旅に出ることもないし、 周りから認めてもらいたいという欲求もない。

    つまるところ、恵まれている人間とは、自分よりもさらに恵まれた人間が天、イスラームでは神によって選ばれ、さらにいずれ己を超えていく可能性を受け入れられる心の力を持っている人である。反対に、己の人生が己のためだけに完結しているような人は、むしろ己の不足に囚われていく。

    スーフィズムの古典の金字塔として現在でも注釈が書かれ続けているイブン・アタ—イッラーの『箴言』は次の言葉で始まる。
    過ちを犯してしまったときに自分はもう救われない、と希望を失ってしまうのであれば、それは自らの力を過信している証拠だ。

    成功すれば救われる、失敗すれば崩せられる、善を行えば称賛される、悪に陥れば批判される、修行を果たせば幸せになれる、失敗したら不幸になる、このような自分の頭の中で作った範囲の因果の世界で生きていると、スーフィーは修行の本分からやがて離れて行ってしまう。
    スーフィーの修行者はアッラーの真理、すなわち神の完全性を理解するために努力するのであって、より良い人間となること自体は最終目的ではない

    過ちを犯してしまう人間という生き物の業を見つめ、「人間ってそもそもそんな立派なものじゃないのでは? 」と人々に問うているのだ。

    この世の被造物が何を望もうがどんな過ちを犯そうが、結局何が救済で何が罰か、誰に其理を授け誰に授けないか、誰を称賛し、誰を非難するかを決めるのは創造主アッラーただ独りである。究極的には、失敗した自分自身を責める権利すらも人間にはなく、この世で起きたことのすべての意味はアッラーだけが知っている。

    ならば、スーフィズムの修行にとって重要なのは、「真理を理解する」ことではなく、「真理を得たいと芯し、修行という旅を生涯にわたって続けていく」その過程そのものに価値を見出すことである。

    ベクタシーの「笑い」は決して無責任な逃げではなく、もしかしたら地獄の罰が待ち構えるような過ちを正ねた人生にあっても、絶望を笑い飛ばし、希望を失わず「道中を楽しむ」心のしなやかさを持って何度でも人生をやり直せ、という叱咤激励なのである。

    「スーフィズムとは何か? 」
    イスラーム文明の中で何百年も議論されてきたテーマに対し、本書は明快な答えは出せていない。それは哲学でもあるし、瞑想でもあるし、 詩を書くことでもあるし、料理をつくることでもあるし、音楽を演奏することでもある。あるスーフィーは修行の大切さを説いたかと思えば、別のスーフィーはそんなことしなくても神への愛さえあれば十分だという。

    スーフィズムは、むしろ本書で紹介された修行はおろか、何もできなかった、あるいは失敗しか積み重ねていない絶望にあって、それでもアッラーによって生かされている「いま」を受け止めて、自分の人生の中に何か少しでも正しさがあって欲しいと望む人に向けられている。
    自分の中から引っ張り出せる美しさや豊かさなど何もないから、誰かのために道を究めるのだ。
    そのような営みを、何か特定の要素に還元して分かりやすく定義するのは野暮だろう。
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    投稿日:2023.09.27

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