【感想】日本料理の贅沢

神田裕行 / 講談社現代新書
(15件のレビュー)

総合評価:

平均 4.2
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  • 一流料理人はこんなに色々かんがえているのか

    ミシュラン三ツ星の店なんか縁がないのだが、これを読んだら行ってみたくなった。実家が料理屋をしていた徳島の子供時代や、パリに渡ったりもした修行時代のエピソードも交えつつ、前菜からはじまってデザートにいたるコースの章立てになっている。

    語りかけるような文体で、本職は当然料理人なのだしたぶん口述筆記で一気に書いたのかと思っていたら、あとがきによると執筆に3年かけたとのこと。手間隙をかけるのはやはり性分なのか。みごと、読んでいて腹の減ってくる仕上がりになっている。

    お客の飲みっぷりなどで即興的にメニューを組むそうな。

    子供のころ百合根が好きで(渋いよな)、親に頼み込んで百合根だけの茶碗蒸しを作ってもらったら美味しくなくて出汁の効果を知る。これは作ってあげる親も偉い。

    酸味が料理のキーだと。特に近年の傾向として(へー)。著者自身もスダチが好き。日本酒に比べて酸があるのがワインが好まれる理由ではないかと。日本酒ばかり飲んでいると酸がなくて飽きてくると。

    寿司も握ってしまうオールマイティさはパリ修行の賜物。

    素材の吟味とか、味の組み合わせとか、けっこうロジカルなのである。
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    投稿日:2016.10.09

ブクログレビュー

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  • acchan1100

    acchan1100

    このレビューはネタバレを含みます

    最近慮料理を始めたこともあり、前から家の本棚にあったこの本に興味を惹かれ読んでみた。最初は高級料理店の話なので世界が違うと思い込んでいたが料理の基本は一緒。懐石料理の品出しの順番に基本のポイントを料理人の目線から教わることで、ああ、巷のレシピサイトに比べなぜそうするのか、どこにこだわりを持つのかがよくわかる。思わず読んだその瞬間からちょっとキッチンに立って実行してみようとしそうになる。出汁の取り方や茶わん蒸しの黄金比など、役立つところが多々とあり興味深く読めた。
    ただ、使う材料がとても素人が扱おうって気になれないものも多く、その辺が高級料理店ならではで、妥協しまくる必要があるな笑
    また、自分は自分のペースで好きに作れるが、カウンター前に座ったお客さんの好み、ペース配分を見ながら次の料理を進めるその緊張感は家庭では体感できないのが残念。こちらはせっかく作ったものを一瞬で食われて終わってしまう儚さが身に染みる

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    投稿日:2024.03.13

  • yonogrit

    yonogrit

    501

    神田 裕行
    (かんだ ひろゆき)
    1963年徳島生まれ。大阪で日本料理の修業後、1986年パリに渡り、日本料理店の料理長に。91年帰国後、徳島の「青柳」へ。その後、東京・赤坂「basara」料理長に。2004年東京・元麻布にカウンター割烹の「日本料理 かんだ」をオープン。『ミシュランガイド東京』が刊行された2007年以降、13年連続で三つ星を獲得している。また、自身が発起人となり、2008年に料理人仲間と結成したNPO法人「FUUDO」では、食の未来を考える活動を続けている。

    http://www.nihonryori-kanda.com/restaurant/

    https://tabelog.com/tokyo/A1308/A130802/13270674/

    日本料理は、日本にしか咲かない花のようです。 高山にしか咲かない花があるように、清流にしか住めない魚があるように、日本の水と 土と空気の中でなければ枯れてしまうような、あるいは別の種類になってしまうような、 日本料理とは、そういう存在ではないかと思うのです。

    日本料理は、日本固有の食材と日本人の美意識を骨格としていると思います。食材の鮮度と品質がそのまま料理の本質に反映する料理です。良い素材を探し、その素材の最高においしいときに最小限の手を加えることによって完成する料理。素材を美しく華やかに彩るための調理ではなく、素材の素肌を磨いてきれいにするための調理とでもいいましょうか。

    日本は、四季のある国です。選ぶ素材は当然その四季のうつろいとともに変わります。

    四季のサイクルにそって日本人はものを食べてきました。それが「旬を食べる」ということだと思います。そして日本料理とは、この日本の四季折々の旬を味わうことにほかならないと思うのです。日本料理には独自の技術も様式も、哲学ももちろんありますが、それらは全て「旬」の食材の真味を引き出すためにこそあるのだと思えるのです。 おいしさの答えは自然の中にあります。不自然なものの中にはおいしさは見出せません。僕が”自然”というとき、この四季や天然、といった意味のほかに、調理科学的、あるいは自然の法則というような意味で使っているときもあります。 鍋の中やまな板の上で起こる料理の不思議も、科学の目で見れば自然だと思えることも多いのです。どうして鍋の形によって煮物のできる時間が変わるのか、どうしてふたをず らしただけでしっとりとしたキメの細かい茶碗蒸しができるのか、炭で焼くとなぜこんなに香ばしい焼き物ができるのか?二〇年以上も一日の大半を調理場で過どした中で得た、とても不思議な、でも、今となってはそれが自然なんだと思える料理の不思議についても書いてみたいと思うのです。

    僕は若い頃、シャガールやマチスなどの油絵が好きでした。そしてそれがきっかけとなってフランスへ渡りました。今は日本画が好きです。その中でも水墨画などの、シンプルな構造の絵にひかれます。特に好きな画家は長沢蘆雪(ながさわろせつ)です。長沢蘆雪は江戸時代半ば、 後半の画家で、淡い色彩と墨を使った画風に特徴があります。日本で輪郭を描いたりして、その輪郭のカーブだけで実体を表そうとします。ほっぺたのふくらみを、作り込まないで線一本で表現しようとする。それは空間を生かすと同時にやり直しが許されない作業です。対照的に、西洋の絵というの塗り重ねていく。とにかくぐんぐん塗り込んでいって、画面の中に白い部分は無いイメージです。油絵と水墨画の違いは、まさにフランス料理のフォンと日本料理の出汁の違いをイメージさせます。出汁というのは、そのほどんどが水です。99パーセントは水です。鰹節の旨味と香りと、昆布の旨味と香りとがすっと入っていっている。そ の塩や、ごく少量の醤油が入ります。フォン・ド・ヴォーは液体状ではありますが、実はほどんどが膠質(コロイド)とたんぱく質であって、液体ではなく、液状になった固体の集まりだと僕は思っています。その証拠に、冷めると煮こどりみたいに固まってしまいます。牛の骨を焼いて、タマネギも炒めて、人参も炒めて、ハーブを入れて、旨味を塗り重ね、それを煮詰めたものです。 それに対して、出汁は水という根元的な存在に淡い旨味と風味を入れていく。あくまでもほのかな味です。水墨画というのは、描いている部分も大切ですが、描いてない部分に余分なものがあってはならないのです。これも日本料理とまったく同じです。そして、出汁というのは、紙の上に、余白を考えながら水墨画の筆を走らせるようなものだと思い至ったのです。 余白の美。 これこそが日本人の美意識だと思います。必要以外のものは入れない。厚塗りをしない。必要なものを最小限に。

    日本という国の豊かな自然に裏打ちされた食材のすばらしさ、贅沢さなのです。

    絵画でもそうだし、音楽でもそうだし、全ての芸術性を帯びる職人仕事の背景と奥行きを作るのは、やっぱり知性、見識だと思います。 僕は、お椀は日本料理の華であり、象徴的なものであり、料理人の才覚を表すものだと 思っています。ですから椀ダネは、事実と知識と見識の集大成だと思うのです。料理人の感と、料理だけじゃなく、文化的、知的背景が、その味わいの奥行きを決るのです。見識というのは、いろんなものを見て、それを判断する力ですし、いろんな物事をつぶさに、どれだけ理解していくかという、食材に対する料理人の理解力だと思います。食材が持っている食感なのか、香りなのか、その両方が合わさった意味で 、それとも、硬さなのかとか、いろんなことがあるわけです。それを、食材をどこまで理解しているか。食材の長所と可能性を、どこまで料理人が深く考察しているか。それは、椀ダネに、強く表れます。だから、表面的にしか素材を理解していないと、表面的な世界になる。実は、その味わいの深さこそが力量なのです。 それは、味わう人は第六感で感じ取ることができると思います。絵の技術がない人でも、すばらしい絵を見たら感動することができます。 まったく絵のわからない人でも、すばらしい絵がそこにあれば、これはすごいと感じることができるのです。ゴッホの「ひまわり」が教科書の片隅に、小さなサイズであってもわからないけれども、本物を見ればわかるはずです。ものすごいオペラ歌手がいて、本当に魂が震えるような声を出したら、オペラなんて聴いたことのない人でも、びっくりして感動することができるということなのです。 それを自分もできるかというのは、全く別な話。誰しも、芸術家にはなれないとしても、芸術的要素のあるものを感じる力は、あると思います。もちろん個人差はあると思いますが。ワインが嫌いだっていう人に、ロマネ・コンティを飲ませたら、これはおいしいと言います。日本酒だって、日本酒の好きじゃない人もいるけれども、ものすごくおいし日本酒を飲んだら、これはおいしいって言うはずです。だから、やっぱり、 素晴らしい料理人の素養、見識の全てが出たお椀には、人を感動させる力があると思います。僕はまだまだ未熟ですが、日本料理って、本当に難しくてやりがいのある奥深いものだと、お椀に向き合うたびに思います。

    千利休がなぜ酒じゃなくてお茶を極めたのか。やっぱりお茶は不滅なのです。アルコー ルは時代とともにどんどん衰退すると思います。お酒が飲めることは心地よいことだけれど、逆に戒めでもあるのです。ですから、お酒はこれからどんどん発泡酒とか、ノンアルコールビールとかに替わっていくでしょう。うちでもノンアルコールで楽しい飲み物をどんどん研究していとうと思っています。

    作家だって、いろいろな人間を観察しているはずですが、意外と近くにいる人を観察して、登場人物を作っているのかもしれません。テレビドラマの脚本家だってそうだと思います。そういう人たちは、地球上にあるととをいろいろ観察しながきています。常に蓄電しています。そして、なにかを作り上げるときの、 その組み合わせ方がうまいかどうかが、その人の力量だと思います。

    僕の好きな絵に、江戸時代初期に活躍した画家、俵屋宗達の作品「風神雷神図屏風」があります。非常に有名な絵ですが、ほかに江戸時代中期の尾形光琳も同じ「風神雷神図屏」を描いています。とてもよく似ていますが、微妙に違います。どこが違うかと言えば、俵屋宗達のほうが、少し画面が切れて全体図が入っていないのです。 僕は前者の絵のほうが好きです。全体が見えていないからこそ、全体を大きく想像させると思うからです。そのほうが広がりや奥行きを感じ、より贅沢なのではないでしょうか。僕は、ずつとそういう日本料理を目指しています。今目の前で皿に載っている小さな料理が出てくるまでには、数えきれないほどの小さな積み重ねがあるのです。それは、やってもやらなくても変わらないや、と経験のない人なら思うぐらいの小さなことですが、山ほどあるのです。そして、このたくさんの小さなこだわりこそが、料理に奥行きを持たせるのです。小さなこだわりを一つも逃さず積み重ねる作業は、実は大きな信念なくしてはできません。そしてそれは口に出せば安っぽい陶酔にしかなりません。料理を飾る額縁はそれを作る料理人の心構えと真摯な姿勢ではないでしょうか。

    そういう素材のことを知れば知るほど、最小限の調理で、最高の結果を出して、お客様にお出ししたいのです。僕が目指す料理は、「上質のシンプル」です。 これこそが今の最高の贅沢なのだと思います。上質のシンプルとそが結果的には一流なのです。これを作り上げるためには、素材自体がすばらしいことが一番大切です。どんなに服のデザインがよくても、生地が悪かったら話にならないように、上質のシンプルのた めには上質な素材が必須です。これを最もレベルの高いものにするためには、自然を熟知しなくてはだめなのです。

    フランス料理、中国料理ももちろんすばらしいし、大好きですけれど、それはどちらか というと人間の英知を味わっているという感じがすごくそこにあるのです。それは工夫で あり、努力であり、文化としてすばらしいものだと思うのです。しかし、日本料理のすば らしさは、それよりももっと自然のもの、自然のありがたさをよりダイレクトに味わえる ととにあるのではないかと思うのです。 日本料理は素材の料理なので、いい素材を探すことに始まり、最終的にはいい素材にほ んの一振りの塩を加えることで、味を完成することができるのです。もちろん、その味わ けんさん いに奥行きを持たせるために、経験と研鑽が必要です。でも、本当にいい素材には、素材 自体の中に確固たる世界があるので、あまり手を加える必要がないのです。 昔から言われていますが、日本料理は仕事をし過ぎないことが大切です。せっかくいい 素材が手に入っても、こねくり回して本質を壊してしまっては意味がありません。

    今は、もうちょっと楽になりました。 楽というのは、言い方としては微妙ですが、素材を見て、これを素直においしいと思え ることをすればいいだけだということがわかったのです。別にそれは難しいことでなくて もいい。三〇歳代の自分には、なにか難しいととをして認められようという気持ちがあっ ですが、今は、必要であれば、何もしないという選択も堂々とできるのが なんじゃないかな、と思えるようになってきました。

    和食ではなく、日本料理が作りたいのです。 和食の"和"は"倭"と同じく"日本"を意味する言葉ですが、今となっては諸外国の文化を柔軟に取り入れることのできる我が国の文化を象徴する言葉だと思っています。 本人の柔軟な気質を活かした和の文化としての和食ではなく、もっと日本的というか、 研ぎすまされた、一種禁欲的ですらあるような日本料理の世界を目指したいのです。 それは今の日本の家庭にはない、料理店に行かなければ食べられないものです。日本料理はもはや家庭から姿を消そうとしているように思うのです。それは時代の中での淘汰なのかもしれません。でも忘れてはならない大切な文化なのです。 日本料理を支える、陶芸、漆芸はもちろん、数寄屋を代表とする日本建築。大げさでな それらの文化を守るためにも、日本料理独自の世界観を大事にしないといま うのです。日本人でよかった、とつくづく思います。日本人で、日本料理店を営む父と母の子に生まれ、日本料理を生業とすることを、とても幸せだと思います。
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    投稿日:2023.09.14

  • bookkeeper2012

    bookkeeper2012

    ミシュラン三ツ星の店なんか縁がないのだが、これを読んだら行ってみたくなった。実家が料理屋をしていた徳島の子供時代や、パリに渡ったりもした修行時代のエピソードも交えつつ、前菜からはじまってデザートにいたるコースの章立てになっている。

    語りかけるような文体で、本職は当然料理人なのだしたぶん口述筆記で一気に書いたのかと思っていたら、あとがきによると執筆に3年かけたとのこと。手間隙をかけるのはやはり性分なのか。みごと、読んでいて腹の減ってくる仕上がりになっている。

    お客の飲みっぷりなどで即興的にメニューを組むそうな。

    子供のころ百合根が好きで(渋いよな)、親に頼み込んで百合根だけの茶碗蒸しを作ってもらったら美味しくなくて出汁の効果を知る。これは作ってあげる親も偉い。

    酸味が料理のキーだと。特に近年の傾向として(へー)。著者自身もスダチが好き。日本酒に比べて酸があるのがワインが好まれる理由ではないかと。日本酒ばかり飲んでいると酸がなくて飽きてくると。

    寿司も握ってしまうオールマイティさはパリ修行の賜物。

    素材の吟味とか、味の組み合わせとか、けっこうロジカルなのである。
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    投稿日:2018.11.05

  • actiolic

    actiolic

    春は芽吹いたもの、夏はなりもの、秋は熟れて落ちるもの、冬は土のなかで育ったもの、と季節に合わせたものが旬のもの。魚は泳ぐ深さと身のしまりを意識して適した料理がある、背が青い魚は空からの敵に保護色をまとったもので、浅いところを泳ぐから身が水圧でしめられておらず、柔らかい…ご馳走とは、馬を走らせて手にいれた、新鮮なものですよというところからきており、日本におけるご馳走とは、新鮮さを示すものだった。等、非常に勉強になった。続きを読む

    投稿日:2018.07.02

  • myjstyle

    myjstyle

    歳とともに和食が恋しくなり、旬のものを求めて、海のものを食べに旅行することもあります。でも、これは筆者のいう日本料理ではありませんね。あとがきに書かれたように家庭では食べられない“文化としての日本料理”を知りました。そして、日本料理を支える、器や数奇屋、所作など日本料理の世界観を守りたいと思いました。少し、お店選びを変えてみます。続きを読む

    投稿日:2018.02.26

  • azusa

    azusa

    丁寧でまっすぐに向き合う姿勢が、本から伝わってきます。料理に対しての熱意と向上心も素晴らしく、一度は神田で食べてみたくなります。
    家庭でも出来るコツも少しかかれてありました。
    手元にいつまでも置いておきたいです。続きを読む

    投稿日:2016.10.30

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