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ジョン・ロック, 加藤節 / 岩波文庫 (13件のレビュー)
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総合評価:
burafuma5732
読了した。
ロックの書物は、難解ではなかった。非常に含蓄があって、現代にも、通用するものである。政治学や、思想、現代のコンピューターさえも、影響があったかと、思われる。この、岩波文庫版は、お勧めである。
投稿日:2017.10.24
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prie-ez
このレビューはネタバレを含みます
『統治二論』とはその名のとおり、国家による統治に関する論考を2つ合わせたものである。前編は「統治について」と称し、聖書の内容から統治について論ずる。後編は「政治的統治について」と称し、現実世界における統治について論ずる。 以前の岩波文庫版ではこの後編のみが翻訳され、『市民政府論』として出版されていた。今回加藤節氏によって前後編ともに訳され、2010年に『統治二論』として出版された。 ここで一点注意が必要なのだが、岩波書店は新たに『統治二論』を出版する際に、(本来はルール違反であるが)旧訳の『市民政府論』のISBNを使い回してしまった。そのせいで、このAmazonでも両者が同じ商品として取り扱われている。 新品で購入するのであれば新訳の『統治二論』が届くだろうが、中古であれば旧訳の『市民政府論』が届いてしまう可能性があるので注意してほしい。 さて、肝心の中身であるが、さすがに古典だけあって内容は充実しており、1ページ読むごとに色々と考えさせられる。しかも加藤氏の翻訳も非常に読みやすい。 ロックは、高校の教科書などでは社会契約論を唱えた一人として、ホッブズの次に習う。 ホッブズは『リヴァイアサン』の第2部で絶対君主制を理想として掲げた。共和制においては各々の代議士が私利私欲に走ってしまい国が退廃してしまうが、君主は国全体のことを考えて行動するから国は繁栄する、というのがその理由である。君主が暴君と化してしまう可能性があるが、そのとき国民は君主に対して抵抗する権利を有しているかどうか、『リヴァイアサン』の中では明言されていない。 他方でロックは共和制を理想として掲げた。そして、政府が国民の信託に背いて行動した場合、国民はこれに対して抵抗する権利を有する、と述べている。この点は明らかにホッブズとは対照的であると言えよう。政治権力の起源を人々の合意、つまり社会契約に求めた彼の考えは、その後アメリカ独立宣言やフランス革命に影響を与えた。 高校の教科書でよく取り上げられる「社会契約論」や「抵抗権」以外にも興味深い箇所はいくつもあった。例えば、所有権に関する後編第5章ではロックの経済に対する鋭い洞察が見え隠れする。 ロックによれば、かつて人々は多くのものを個人で所有することはできなかった。土地の所有について言えば、人々は自らが耕せる分しか個人で所有しなかった。自らが耕せない分は荒蕪地として残り、すべての人が共有する土地のままとなった。その荒蕪地も、誰かが開墾すれば、それはその人の私有地となる。つまり、労働によって価値が加えられたもののみ、その人が所有する権利を有していた、というのである。 また、ものについて言えば、土を耕すことで手に入れた食物は個人の所有物である。しかし食物は、時間が経てば腐ってしまう。したがって、腐らないうちに消費できる程度しか食物を所有する権利がなかったのだという。消費できない分については、他の人々と共有しなければならない。 ところが、食物を金銀に置き換えると、財産を腐らせずに一生蓄えておくことができる。これが「貨幣の発明」である。貨幣の発明により人々は無制限に財を蓄えるようになり、その結果、貧富の差は広まっていった。世の中の土地もすべて(国であれ個人であれ)誰かが所有することとなった。 このようにロックは貨幣というものが果たした役割を鋭く指摘したのである。このような貨幣経済に対する彼の見方は、当時としては真新しいものであったのではないかと想像する。 以上はあくまで1つの章の内容(所有権について)を取り上げたにすぎず、他にもたくさん興味深いロックの洞察が別の章で書かれている。現代日本では後編ばかりが取り上げられるものの、実は前編も注意深く読み込んでいくと面白い。前編については聖書も引っ張り出し、両者を交互に読み込んでいくと、ロックの時代に共有されていた世界観に触れることができ、知識も深まった。
投稿日:2023.11.17
djuax
自然状態は平和であるが、たまに徳のない人間がいるため、人々がお互いの安全のために結び付き、国家を作る。その後、統治する者と統治される者の関係を決める。統治する者は人民の福祉を促進することを約束し、統治…される者は服従を約束する。統治する者(主権者)は絶対ではなく、法によって拘束される。ザムエル・プーフェンドルフPufendorf『自然法と万民法』1672 神はアダムに一切の事物を支配する権限を与えた。アダムの権限はその子孫である各国の君主に代々受け継がれてきた。だから人間は生まれつき自由ではなく、人間はアダムの子孫である国王に服従すべきである。王はアダムに与えられた現世の支配権を継承しているため、王の権力は絶対である。ロバート・フィルマーFilmer『パトリアーカ』1680 ※名誉革命(1688)。権利章典で王権は制限されうると規定。絶対王政が改めて否定される。 自然状態は完全に無秩序ではなく、人間として守るべき最低限のルール(自然法)がある。他人の生命や財産を侵害してはならない。また富は労働で無限に増やすことができるため、パイの奪い合いにはならない。人間はせっせと働き、富を増やして平和に暮らすことができる。ただ一部の怠け者が働かずに、他人の財産を奪う。争いを仲裁する権力・奪われた者を救済する権力が必要。より確かな平和を得るため、国家を作ることになった。▼人間として守るべき最低限のルール(自然法)は神により与えられる。人間はこれに従うことを義務付けられる。神の存在を否定する者はこの最低限のルールを否定する者であるから、国家はこれに介入できる。▼人民が契約によって国を作ったが、それは権力を王に預けただけ。王は人民を守るために存在している。人民の同意なしに私有財産に課税できない。▼人民を守るために国家を作ったのだから、国家が人民を守らない場合は武器をとって抵抗または打倒してもよい。人間はこの世界を良くしていく義務と権利がある。政府の解体で権力が再び政治社会の多数者に戻る。自然状態に戻るわけではない。ただ、革命はあくまで最後の手段。革命権があると、国家の側も横暴を控える。ジョン・ロックLocke『統治二論』1689続きを読む
投稿日:2023.04.06
bluebean
前半がまるまるフィルマーの王権神授説を批判することにあてられています。明らかに論理的に破綻しているフィルマーの説を論破するわけですが、彼の根本の前提を否定してはい終わり、というわけにはいかないらしく、…仮にそれが正しかったとしたら、と仮定を置いてその後の議論も全て論駁していくというスタイルです。とても長くて読みにくかったです。そうでもして徹底的に批判しておかないといけないほど、一般的にフィルマーの説が信じられていたということなのかもしれません。 後半はいよいよロックの社会契約説が展開され、面白くなります。論の展開は明確でわかりやすく、現代の視点で読んでもおおむね納得できる気がします。 ホッブズとは違い人間が基本的には理性によって自然法を守る、という性善説よりの前提に立っていて共感できました。ただ、自然法の根拠がキリスト教の神にあるとするところが個人的に腑には落ちませんが。 所有権の根拠を労働力の付加においているところが面白いです。もしロックが現代のようにほぼ全ての土地に労働が投下され、所有権があるような状況でどう言うのかが興味あります。 終盤、統治が必要な理由の説明にあたって急に性悪説よりの論調に切り替わるところに多少違和感があった一方で、罪人も必要以上に罰せず実害がない限り保全するべきだという考えがあまりに現代的で驚きました。 日本人に生まれて以来漫然と今の統治体制を受け入れてきていましたが、その法律や制度にどんな意味があるのか、改めて考えさせられるきっかけになりました。続きを読む
投稿日:2022.11.19
nt
アメリカ独立宣言の理論的基礎となったとされる本書(1690)については、同じ岩波文庫で『市民政府論』としてかなり若い頃に読んだのだが、これは原著の後編に当たる。 ということで、前編を読んだのは初めてだ…が、ロバート・フィルマーとかいう人の、王権神授説の流れを汲む著作に対する執拗な批判がもっぱら展開される。フィルマーの『パトリアーカ』はもちろん読んだことないが、本書を読む限り、かなり恣意的に聖書を曲解し、父権と王権を同一線上に置くなどと言うヤワなことが書いてあるらしい。ロックの批判はじゅうぶんに論理的である上に、ところどころユーモアさえ交えて、面白い。 さて後編はロック自身による統治論が展開される。これは「社会契約説」の嚆矢となったものなのだろうか。彼は、なんびとも政治統治体と「合意」によって結合するのだと説く。 人は生まれついての「自然状態」の自由をむざむざ放棄して、権力的統治のもとに入るわけだから、そこには「同意」がなければならない。 生まれついた統治体が不服であれば、これに同意せず、別の統治体を探すか、もしくは自ら新たな統治体を作れば良い(そう簡単に言うけれども、現代においてはそれはかなり難しい)。 そのかわり、統治体の権力は、共同体の成員の「合意」(それは多数決により決まる)に沿って行使されなければならない。従ってロックは絶対王制のような体制を否定している。それは合意に基づかない、単に暴力的な、服従の強制である。 統治体が構成される目的は、諸個人の固有権(プロパティ)の保全にある。権力(政府)側がこれを逸脱することは許されない。もし本来の目的を離れて権力が人々を強制するならば、住民は「抵抗」することが許される。この辺は、事実上主権在民の原理を示しており、ロックはそうと明言はしないものの、民主主義の基礎となるような考え方である。 ロックはまた、立法府を最高権力としながら、行政府との分立を提言している。当時としてはかなり先進的な考え方と言えるだろう。 ただし難点は、「多数決」がすべてを決めてしまい、それに全員が服従しなければならないため、マイノリティの立場がこれだけでは保障されない点である。 さらに、たとえば一国が他国に侵略戦争をしかけたとき、敗者の国民は「抵抗しなかった場合は」服従を強制されないが、抵抗し、「交戦状態」となった上で敗北した場合は、略奪されて良い、という、なんともドライな、西洋植民地主義のエゴのような考え方も示している。 さてこのような契約説の「同意」なるものは果たして本当に存在するのだろうか? 若い頃これを読んだときと同様の疑問が残る。だがたぶんそれは、「権利」という用語と同様、自然界に実在するわけではないが、理論体系構築のためにあえて定義された概念なのだろう。 それでも疑問が残るのは、現代の複雑きわまりない多義的な社会にあって、「国家」の意向にそうそう「同意」などできはしないということだ。 さて、ルソーの契約説はロックと対比してどのような様態を示すのか。次はルソーに取りかかる。続きを読む
投稿日:2015.09.21
nominalrune
美しい世界観。小気味のよさ。 神がいる人にとって、世界はこんなにも明るいものなのだな、と感じる。 神、身体と理性とを与へ給へり。 肉体労働、価値物うみいだす。 理性、自然法を教ふ。 政、法によりて身…体と財物とを保護す。続きを読む
投稿日:2014.04.07
hjunji
彼の特徴は、 労働をもとにした所有権、 自己保存の目的を徹底した抵抗権の主張にある。 前者はどういう発想から来たのかいまいちわからないが、 後者について言えば、人民の抵抗権はホッブズが渋っていたよう…に、平安を希求する目的が初発にあるにもかかわらず、統治に不満があれば騒乱となりうるため、容易に認めるべきではない、とこれまで見られてきたように思われる。 ロックは、そのことについて自覚的であるために、革命権を認めたところで、頻繁に革命が起るわけではないことを力説する。 ロックのその弁に説得力があるかどうかは別にして、 社会統治の方法やその都度の判断に関して、別の可能性を常に残しておくことは必要である、ということは拭いえない。 ホッブズはその点では、制度に任せて強権的、絶対的君主制に固定せざるをえなかった。 より柔軟であるのはロックであり、その革命の方法はここでは示されないが、 政治に対して人民がどのように関与できるのか、という問いの萌芽はここにしっかりとあるように思う。 最後に1つ、デカルト以降、神に依拠しない形で人間社会を構築しようとする風潮が顕著になってくる。 これは、人が社会を切盛りしようとする態度に他ならない。 (もちろん、ヘーゲルまで「神」を根底的に据えているが)続きを読む
投稿日:2012.05.06
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