【感想】訂正可能性の哲学

東浩紀 / ゲンロン
(22件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • rafmon

    rafmon

    私はSNSはやらないが、SNSには、白黒ハッキリさせるような論議を生む機能が内蔵されており、その意見の差が大きい程、人は反論の熱意が高まるようだ。それは宗教論争のように相手を屈服させ、自らの正義を知らしめようとする。その根底には論に仮託した承認欲求の維持、自意識を失いたくないという気概すら見える。

    その状態はヤバい。社会は、訂正し、実態にアジャストする機能を有していたはずではないか。また、完全な根拠で立論して最適解を弾く「人工知能民主主義」にはリアリティが無いが、実現するとしても、その無謬性ゆえに「訂正可能性」を欠くならば、あってはならない。こと哲学においても、過去の論考を引きながら訂正するのは、人文学における当然の作法である。あるべき筈の「訂正可能性」を訂正強度のミスリードにより敵味方に分断したり、片方の論説を過敏に扱い過ぎる、または自論を完璧に信仰し過ぎるのはいかがなものか。本著の論旨は、そうしたあるべき「訂正機能」を消失しないようにというメッセージを含むものだと読解した(あくまで個人の意見であり、書評)。

    観光客とは、友にも、敵にも分類できない第三の存在。家族とは、自ら選択して集められた集団ではなく、いつの間にかそこにあるもの。こうした二つのカテゴリーを駆使して、確定した立場や意見の危うさを看破する。そして、クリプキのクワス算を象徴的に援用する。

    ー 僕たちは、すべての問題に中途半端にしか関わることができない。これは決して冷笑主義の表明ではない。それはすべてのコミニケーションの条件。足し算の規則すら完璧に提示できず、ソクラテスの名前すら完璧に定義できない。そのような単純なことに対しても、原理的に他者からの訂正可能性にさらされている。

    人文学者、いや社会学でも私は疑問に感じるのだが、誰それがこう言ったという言辞を弄して、それは実験データでも無いのに、なぜ得意気に論説を複雑化してしまうのか。彼らは皆、自信がない。あるいは教養=記憶力が売りのナルシストなのかと。東浩紀は、訂正可能性をモチーフに、その答えを本著で与えてくれた。

    ー 人文学は過去のアイディアの組み合わせで思考を展開する。自然科学のように実験で仮説を検証するわけではない。社会科学のように統計調査を活用するわけでもない。プラトンはこういった、ヘーゲルはこういった、ハイデガーはこういったといった蓄積を活用し過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。ヴィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正するといった訂正の連鎖の実践である。この訂正こそが、人文学の持続性を保証する。

    ー 成田氏による無意識民主主義、人工知能民主主義については、実現不可能だと考える。例えば戦争のように情動が沸騰する事態に対応できない。無意識が常に公共の利益を指し示すわけでもない。訂正可能性の概念を導きの糸としているのは、一般意思とその暴走を抑制するものの、拮抗関係についてより明確に説明できると考えたからである。アルゴリズムの構築そのものも疑わしい。人工知能民主主義は、訂正可能性を消去するから問題なのだ。

    改善ではなく訂正。いや訂正にも「正しさ」を語感に含むので、少し齟齬があるようには思うが、社会構造上、当たり前にあったもの。必ずしも良い変化とは限らぬが、あるべきもの。それがインターネットやAIにより、消去されぬように。私はそういう読み方をしたのだ。後は訂正していけば良いではないか。
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    投稿日:2024.05.04

  • tkc

    tkc

    - 民主主義の本質=訂正し続けるということ
    - クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で出したクワス算の例
    - 人間の作り出した定義は曖昧で、絶対的に正しいとは言えない
    - 成田悠輔や落合陽一らは実は素朴なルソー主義者であり、そこには一般意志を訂正できる可能性はない(人工知能民主主義)
    - ルソーの一般意志=絶対的に正しいもの、自然にも重ねられる
    - 全体意思(個人の意思の集合)とは違うもの
    - 一般意志の「訂正」は不可能に思われる
    - ルソーの小説『新エロイーズ』を読み解き、「訂正可能性」を探る
    - サン=プルーとジュリの間の愛は自然
    - ヴォルマールはそれを人為的に上書きしてジュリとの「自然」な愛をつくりあげようする
    - 観光客的存在アイデンティティがはっきりしない存在が訂正可能性を生む
    - 家族も本質的には訂正可能性を内にはらんでいる
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    投稿日:2024.05.02

  • norytomo

    norytomo

    事後的に解釈やルールを変えられる、それが人間と言語の本質にある、だから社会の無意識的な理想、一般意志の実現を目指すAIによる統治は、人の本質を欠いていて理想にはなり得ない。分人は責任を負わないので異なるポジションを取るのではなく、全人的に訂正していこう、とも理解した。こじつけ感あるなと思うところもあるが、合意できる内容。議論する、難癖つける、相手を思いやる、そういう社会性で人の幸福は成り立ってる。何かに意味を見出すのはこれからも人がやりたいことなはず。続きを読む

    投稿日:2024.03.27

  • D-Rinn

    D-Rinn

    著者がおわりで述べている哲学とは、過去の哲学に対する再解釈であるという姿勢が体現された著作だったなと。 過去の文献の丁寧な読み込みと再定義から発する「訂正可能性」の意義。人間に対する親しみを込めた諦観が、著者の人間愛を醸し出す。

    ところで過去の作品から文体が変わったとのこと。ぜひ、『一般意志2.0』あたりから振り返りたいなと。もちろん今後の創作活動にも期待しておりますです。
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    投稿日:2024.03.24

  • イケダケンジ

    イケダケンジ

    クリプキのある種詭弁ともいえるような議論から「家族とは訂正可能性の共同体だ」(p88)と驚くべき議論に展開していく。そして、AI・ビッグデータのような技術で人間社会のリセット(いってみれば完全最適化)はできないと説き、「私」という固有性の感覚に直面しない思想は「欠陥」(p258)と切り捨てる。
    100%の民意や100%の正義、100%のテクノロジーはありえない。
    『ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ』(p343)
    アメリカ大統領選でトランプ氏の再選が現実味を帯びるなかで、そして日本でも、議論なき一方通行の政治・文化が展開されるなかで、ごく当たり前の、そして大変まっとうな主張だといえる。訂正することを認める。変わることに開かれる。そこからしか、我々は前に進めない。

    ちなみに、訂正する「家族」として、日本の天皇制をイメージしてみた。あたらずとも遠からずではなかろうか。つまり「男性」一辺倒じゃなくてもいいだろう、と著者の議論を使えばそういう結論が導かれる。訂正していいだろう、と。日本の少しでもまともなエリート、言論人ならば、本書を手引としてもらいたいものだ。
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    投稿日:2024.03.18

  • Gleam

    Gleam

    「動ポ」の頃の東さんのような文体と、まるで大学で講義を受けているかのような懇切丁寧な脚注。
    文系軽視の日本社会を「人文学への信頼の失墜」と自己批判しつつ、著作によって回復させようとする試み。
    当時は近しい考えを述べていた、と吐露しつつ徹底されている落合・成田(というか、人工知能民主主義への)批判。
    ルソー人物伝から繰り出される社会契約論の再解釈。
    常に誤り、訂正するのが民主主義であり、ひいては生きていくということであり、理解するのではなく変化させていくのが哲学の役割という明瞭な論旨。

    なんの事前情報もなく、ふと東さんの最近の仕事を一気に読みたいと思って手に取ったのですが、コロナ禍以降の取り組みの集大成で、大変労作でした。
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    投稿日:2024.03.13

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