【感想】ビフォーとアフターが一目でわかる 宗教が変えた世界史

祝田 秀全, 朝日新聞出版 / 朝日新聞出版
(6件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • bukurose

    bukurose

    ヨーロッパ、中東、インド、中国、日本と地域に分け、そこでキリスト教、仏教などが起こったり伝わったりして、社会がどのように変化したのか、という切り口が新しい。今までは各宗教ごとの説明が多かった。

    はじめにでは、「宗教の基礎知識」として紀元前から1500年くらいまでの主な宗教の変遷が帯状に示されている。これが見開きで見やすく、時間軸でざっと理解できるのがよい。

    また最初には「古代文明と宗教」として、キリストや仏教以前の、エジプトやシュメールなど各地の古代文明と宗教。
    終わりには「近現代の世界と宗教」として、イスラエルやアイルランド独立や、共産主義下では宗教が否定されたか、9.11テロ、ロシア正教会とプーチンなども説明。


    2023.8.30発行 図書館
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    投稿日:2024.02.25

  • ゆうこ

    ゆうこ

    本屋さんで見つけて面白そうだな、と思い図書館で借りました。
    「ブラフマンって、教科書のすみっこに書いてたなあ」とか、「黄巾の乱、紅巾の乱…中国の歴史、ややこいねん」と、高校の頃を懐かしみながら読みました。

    高校の世界史の十字軍ぐらいで、わけがわからなくなっていた私としては、地図をみたり、前のページに戻ったり、と、表紙が可愛い割にはさらっとは読めず、まるで教科書を読んでいるようなハードルの高い本でした。

    生活を良くしたいとか、世の中を良くしたいというのは、政治と宗教、入り口は違えども同じ願い。でもその思いが世の中を良くしたり、争いになったり、いい人も悪い人もいたり、と何千年も複雑に絡まっているんだなぁと思います。
    この本をきっかけに、宗教についてもっと知りたくなったし、色々な国についても知りたくなりました。
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    投稿日:2023.12.18

  • 桜色の世界(sakurairoworld)

    桜色の世界(sakurairoworld)

    宗教を中心とした地理と歴史
    教科書風だが大変理解しやすい
    教科書だと歴史的に重要な部分は掘り下げて記載されるが、こちらは満遍なく記載されていると感じる
    フルカラーで図・表・イラストがとても良い

    投稿日:2023.12.03

  • へいこ

    へいこ

    大方の日本人にとっては宗教の違いによる対立というものが今ひとつピンと来ないわけですが、その興隆や対立によって世界の歴史がどのように流れてきたのかが分かりやすくまとめられています。フルカラーでイラストや写真も多く、そもそもなぜ宗教が生まれたのかという基礎の基礎から始まるので、漠然としか知らなかったことも色々クリアになりました。扱う範囲が"世界"なのでざっくり感は否めませんが、基本的な教養としてはこれくらいで良いのかも…ただ、誤字や脱字が散見されたのが残念です。続きを読む

    投稿日:2023.11.29

  • arno

    arno

    世界史の復習と、日本では殆ど教えられない宗教との関連性についての参考書みたいな本です。
    視点は面白いです。
    「教養としての宗教と世界史」みたいなタイトルにしたら、10倍売れてると思います。

    投稿日:2023.10.09

  • Go Extreme

    Go Extreme

    ビフォーとアフターが一目でわかる 宗教が変えた世界史

    なぜ宗教が生まれたのか
    人類は古くから「神」を信仰し、 やがて宗教が起こります。宗教は生活において欠かせないものでした
    紀元前7000年頃、農耕が始まり、人々が定住生活を築くと、同じ「神」を集団で信仰するようになります。これが「宗教」になっていったと思われます。
    宗教の役割は大きく分けて三つあると言えます。
    一つは人々に救いをもたらすこと。
    二つめは説明をもたらすこと。
    三つめは秩序をもたらすこと。

    宗教の変遷
    宗教は紀元前から存在しました。それぞれが影響し合って展開、 時には既存の教えを批判するために分派していきました

    多神教と一神教
    宗教の多くは「神」などの信仰対象を持ちます。ここでは、 宗教を信仰対象ごとに分ける際の四つの区分を紹介します
    一つ目は「アニミズム(精霊信仰)」
    二つ目は「多神教」
    三つ目は「一神教」
    四つ目は「神や霊への信仰を持たない宗教」

    三大一神教の違い
    ユダヤ・キリスト・イスラ— 厶教の三大一神教は、同じ唯一神を償仰する宗教です。しかし大きな違いがあります
    世界で最も信者数が多い宗教はキリスト教、2位はイスラーム教です。このーーつの宗教はユダヤ教をルーツとしており、すべて同じ唯一神を信仰しています(三大一神教) 。
    イエスを救世主とみなすキリスト教
    『コーラン』を守るイスラーム教

    世界の宗教分布
    宗教には、 世界中に信者がいる「世界宗教」と、 限定的な地域に根ざす「民族宗教」があります

    政教分離と政教一致
    政治と宗教を分け隔てることを政教分離、政治と宗教が密接に関わる状態を政教いっちと言います。
    現在、欧米では政教分離がスタンダードですが、中東では政治とイスラーム教が深く関わる政教一致の国も多いです。

    第1章 古代文明と宗教
    紀元前3000〜前2500年頃には世界各地に文明が起こり、宗教の原型となる「神」への信仰が始まりました。
    古代文明と「神」への信仰はどんな関わりを持っていたのか、宗教はどのようにできていったのか、見ていきましょう。

    エジプト神話の神々から統治を任された神の子、ファラオ
    古代エジプトで深く根づいてきた神々への深い信仰心を利用し、 神の化身としてファラオたちは「神聖王権」を行った
    王朝はその後も王を神として崇拝させ、王の出身地に合わせて結びつける神を変更しました。王イコール神が代わっても信仰の対象となるように、異なる神同上を合体させることで、民衆の理解を得ることもありました。第4王朝の時代には、太陽神ラーの息子が王となる神話を王朝の歴史として取り込み、王はラ—の息子と自称することで、民衆の支持を保ちます。
    古代エジプト王朝は、エジプトに深く根付く神々への篤い信仰心を利用した「神聖王権」によって、約3000年もの間、繁栄し続けるのです。

    シュメ—ル人による最古の神話が聖書に影響を与えた
    メソポタミアでは支配民族が次々に交代していくが、神話は各民族の影響を受けて変容し、 各地へ波及していった
    最終的にはアッシリア人がメソポタミアとエジプトを含む中東の主要地域を統一し、多数の民族を束ねました。これが世界初の帝国、アッシリア帝国です。しかし支配民族が代わっても、人々の信仰心に支えられた神権政治は続けられ、宗教儀礼も行われました。メソポタミアの神々も、各民族の影響を受けて変容しながら各地へ波及していきます。

    中国神話の影響を受けて「始皇帝」が生まれた
    中国では「三皇五帝」という神話の時代が語り継がれる。しん王の政もこれを崇め、 自らを「皇帝」と名乗った
    天から命令を受けた「天子」が世界を支配するという「中華思想」が発展していきます。周王朝においては、周王が天子といえます。
    中国の歴史において「皇帝」が天子として絶対的権力をもって政治を動かしていくのです。

    オリンピックはもともと神に捧げる神聖な儀式だった
    ギリシアでオリンポス12神が信仰されるようになると、神に奉納する神事として運動競技会が行われた
    オリンポスとはギリシア最高峰の山のことで、神話の中心神12柱が住まう聖域です。
    オリンピアのゼウス神殿では、最高神ゼウスに
    捧げるための大規模な運動競技会が4年に1度開かれ、腕に覚えのある者が栄誉のために戦いました。

    世界初の一神教は多神教国家エジプトで生まれた
    アメンホテプ4世の時代に起こった宗教改革は、 ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教といった一神教の起源となった
    19世紀の心理学者フロイトは、アメンホテプ4世とモーセの活躍時期が重なることから、アトン神はユダヤ教の唯一神ヤハウェと同じであると提唱しています。アトン一神教への改宗は、歴史的に最初の宗教改革であり、後代の宗教にも影響を与える出来事だったのです。

    インドには今もバラモン教の身分制度が残っている
    インドの古代宗赦であるバラモン教の身分制度から、差別的な「力—スト制度」が生まれた
    バラモン教では、神々への祭祀が最重要視され、祭祀を行うバラモン(司祭) の存在は、 神以上に尊重されました。
    このバラモンを頂点とする身分制度を「ヴァルナ制」と呼びます。ヴァルナ制はさらに職業ごとに細分化され、のちに「カ—スト制度」へと発展。この身分制度は当然ながら差別を生み、現在にいたるまでインド社会に暗い影を落としています。

    偉大な口 —マ帝国も、思想・文化はギリシアに支配されていた?
    ギリシア神話と口—マの神々の融合で口—マ神話が成立。皇帝は神話にもとづいて自らを神格化し、 権力を拡大させたギリシア神話と古代ロ— マ神話の融合は進んでいきました。アウグストウスは死後に神格化され、以降、皇帝は死去すると神に列せられるのが通例となります。
    五賢帝時代を経て繁栄を極めたローマでしたが、時代の変化でしだいに社会不安に陥ります。ディオクレティアヌス帝の時代になると、皇帝は権威回復のため、自らを「ユピテル( ゼウス) の子」と称して神格化し、市民に皇帝崇拝を義務づけます。しかしこの頃、国内ではキリスト教が浸透しつつあり、皇帝はキリスト教徒から大きな反感を招くことになってしまいます。

    なぜユダヤ人の聖地がイェルサレムになったのか?
    「約束の地」カナ—ンに移ったユダヤ人たちは、王国の分裂や侵略などで全世界へ離散していった
    第二次世界大戦後、国連の取り決めでイエルサレムのあるパレスチナにユダヤ人の国イスラエルの建国が認められたのです。
    ようやく祖国を手にしたユダヤ人ですが、すでに暮らしていたパレスチナ人との札櫟を生むことになってしまい、現在までたびたび武力衝突が起きています。

    メソアメリカの原住民たちは白人を神と勘違いした
    中南米では独自の古代文明が栄えていたが、大航海時代にコンキスタド—ルたちに次々と滅ぼされた
    インカ帝国が繁栄した頃、世界は大航海時代を迎えます。キリスト教の布教と領土拡大のため、スペインのコンキスタドール(征服者) コルテスがアメリカ大陸に上陸し、アステカ王国へ侵入。しかし当時のアステ力王は、抵抗するどころか彼らを丁重にもてなしました。

    古代文明の息吹を感じる都市・建築物の遺跡
    世界各地には古代文明の都市・建築物の遺跡が残っている。その中には神話・宗教に関わるものも多い

    第2章 ヨーロッパ
    紀元1世紀にイエスを救世主とみなすキリスト教が成立すると、後のヨーロッパ世界はキリスト教を中心とした歴史を歩んでいきます。
    その影響は政治・経済・文化すべてに及び、近代社会でも、人々の心情を支えるものとなりました。

    ロ—マ帝国はキリスト教徒をそれほど迫害していなかった
    ロ—マ帝国がキリスト教を公認、そして国教化したことにより、 ヨ—ロッバでキリスト教が信仰されるようになる
    後世の小説や映像作品の影響もあり、ローマは徹底的にキリスト教を迫害してきた印象をもたれます。確かに暴君と名高い皇帝ネロや、 ディオクレティアヌス帝による大迫害は有名です。しかしこうした弾圧はー時的なもので、水面下で信者は増えていました。
    テオドシウス帝の時代になると、キリスト教
    は口ーマ帝国の国教とされ、他の宗教の信仰が禁じられました。
    また、後に「ローマ帝国の復活」といわれるフランク王国は、アルプス山脈以北に広がったキリスト教と提携(コラボ) し、中世ヨーロッパ世界の基盤を築くことになります。

    「カトリツク」ができてヨ—ロッパ社会はどう変わったか
    クロ—ヴィスはアタナシウス派に改宗し、アリウス派のゲルマン人とアタナシウス派のロ—マ人の軋轢を解消した
    375年頃、ゲルマン人の移動がローマ帝国に向け
    られると、ついにはゲルマン人のオドアケルが皇帝を廃位させ、西ローマ帝国を滅亡させました。その後、ゲルマン人諸族は西ローマ領内に、東ゴート王国や西ゴート王国、 ヴァンダル王国、フランク王国などを建国しました。
    このゲルマン人たちは、 キリスト教アリウス派を信仰していました。
    フランク国王クロ—ヴィスは自らアタナシウス派に改宗することで、フランク王国とローマ人の融和を図ります。この政策が功を奏し、乱立して
    いたゲルマン人国家の中で、フランク王国はローマ北カトリツク教会の支持を得ることができ、安定した統治体制を築くことになります。

    キリスト教とイスラーム教の戦いで"西ローマ皇帝" が復活
    トウ—ル=ボワティエ間の戦いで勝利したフランク王国は勢一力を拡大、西ローマ帝国の復活につながった
    この頃ローマ教会は、ビザンツ帝国(ひがしローマ帝国)との関係を悪化させていました。ビザンツ帝国が聖像を使っての布教活動を禁止する「聖像禁止令」を出したためです。
    カールを西ローマ皇帝とすることで、ビザンツ帝国の影響から完全に離れ、宗教的に独立しようと考えたのです。こうして、フランク王国の下で中世西ヨーロッパ世界が成立しました。

    ヨ—ロッパ史の歩みも分裂させた教会の東西分裂
    「聖像禁止令」が発布されると、 ロ—マ赦会とコンスタンティノ—プル教会(ビザンツ皇帝)との対立が深まった
    ローマ教会は、ゲルマン人に、効率よくキリスト教を布教するため聖像(イエスや聖母をかたどった像)を使用しました。聖像崇拝はキリスト教とは、本来関係のないものと主張するコンスタンティノープル教会はローマ教会を批判します。
    そして11世紀、キリスト教世界はローマ教皇を頂点とする「ローマ=カトリツク教会」と、ビザンツ皇帝を頂点とする「ギリシア正教」に分裂。中世ヨーロッパ史もまた東西でまったく異なる歴史を歩んでいくことになったのです。

    迫害されてきたユダヤ人が富豪になったのはなぜか
    キリスト教に迫害されて職業選択の自由がない中で、ユダヤ人は生きる道を模索、特に金融業で頭角を現した
    11世紀末に十字軍運動の時代を迎えると、キリスト教への期待とその思いは、ヨーロツパ社会に広がりま
    した。この間ヨーロッパではユダヤ人に対する敵対心や憎悪の念が強まりました。不動産取得が認められないユダヤ人の中には、 タンス貯金ではなく金貸しとなる者も現れました。その代表がロスチャイルド家です。
    現代では金融界だけでなく、文化や学問、 芸術分野でもユダヤ民族から優れた人材が生まれています。歴史上、差別や迫害で職業選択の自由がない中、他者に奪われることのない「教育」や「教養」を重視し、生きる知恵を身につけたからとも考えられています。

    教皇と皇帝の立場が逆転 カノッサの屈辱の全貌とは
    カノッサの屈辱は教皇権が皇帝権を超えたことを象徴する出来事だった。勢いのついた教皇は十字軍を提唱した
    カノッサの屈辱で教皇に屈した皇帝ハインリヒ4 世でしたが、 破門を許されたのち力を盛り返し、 逆にグレゴリウス7 世をローマから追放します。
    とはいえ、カノッサの屈辱での皇帝破門という行為はキリスト教徒に対し十分なインパクトがあったのも事実で、以降のロ—マ教皇も皇帝を従わせるため破門宣告を繰り返し行うようになります。
    神聖ローマ帝国では内紛が起こり、王室は混乱していました。皇帝は「聖職者の任命権を放棄する」としたヴォルムス協約を教会と結び、ここに叙任権闘争は決着。教皇の権威は高まりを見せるようになりました。

    「十字軍」がきっかけで「12世紀ルネサンス」が起こった
    十字軍の遠征によって、東方貿易が活発に。ヨ—ロツパ世界は経済的にも文化的にも大きな発展を得ることとなった
    7回にわたる十字軍運動によって、その物資輸送を支援したヴェネツィア、ジェノヴァなどのイタ
    リア諸都市が繁栄。イスラーム商人との貿易を盛んに行うようになりました。これを「東方貿易」といいます。
    東方交易を通じて、 イスラーム科学や、 古代ギリシャやローマの哲学・芸術などが流入。西ヨーロッパの人々に大きな刺激を与えました。
    ラテン語(ヨーロッパの公用語) に翻訳されたギリシアの古典やローマ文化が紹介されたことで、神学・法学・医学の研究が広がりました。教会の付属学校から大学も創立され、パリ大学(神学)やボローニャ大学(法学) 、サレルノ大学(医学) が注目されました。
    この一連の文化の復興は「12世紀ルネサンス」とよばれ、 中世ヨーロッパ文化発展の要となりました。

    十字軍運動が巨大なゴシック建築を生み出した
    十字軍運動は失敗に終わるが、商業や都市の発達から巨大なゴシック建築がつくられるようになった
    十字軍の輸送を機に商業が発達しました。商人は清貧主義の思想を持つキリスト教に対して贖罪の
    思いを感じていました。その罪滅ぼしと、自己の権戚、都市を支配する権力の象徴という意味も込められ、巨大な教会堂を求めるようになりました。こうして生まれたのが、ゴシック様式と呼ばれる巨大な建築物です。

    ルタ—の問題提起が長い宗教戦争を起こした
    ルタ—の宗教改革をきっかけに諸侯の独立性が高まり、しだいに神聖口—マ皇帝の勢力はドイツ内では弱体化を見た
    ルタ— の起こした改革を認めなかった神聖ローマ皇帝カール5世に対し、ルタ—支持者は激しく抵抗(プロテスト) 。これを由来に新たなキリスト教派は「プロテスタント」と呼ばれるようになりました。
    諸侯の中にはルタ— に賛同する者も出ました。その一人、ザクセン侯はルタ—を保護し『聖書』のドイツ語訳を支援します。おかげでドイツの人々も『聖書』を読めるようになりました。そうした中で農民や没落した騎士たちの不満が高まり、一揆が各地で起こりました(ドイツ農民戦争)。
    これ以降、宗教的対立が続き、16世紀半ばにルタ—派諸侯とカトリック勢力との間で内戦が起こります。両者はアウクスブルクの和議で和解。カトリックか、ルター派をとるかは各諸侯に委ね
    られ、それぞれの宗教支配権が認められたのです。このため神聖ローマ皇帝の各諸侯への影響力や帝国の統一性は弱まることになりました。

    王の離婚騒動で生まれたイギリス国教会
    イギリスはカトリックを離脱しイギリス国教会を成立。後に名誉革命で国教会を柱とする立憲君主制が確立した
    反絶対王政派の国会議員、クロムウェルは国教会と結託した絶対王政の打倒を訴え、「鉄騎隊」を率いて清教徒革命を起こします。王党派を打倒して時の国王チャールズ1 世を公開処刑すると、イギリス史上初の共和政を成立させました。
    しかしクロムウェルは民衆の期待に反して独裁政治を行ったため、人々は再び王政を支持します。王政復古が叶うものの、カトリックの復活を求めたジェー厶ズ2世は議会と対立。議会は国王のカトリック政策を警戒して、オランダから議会の優位を約束してくれる国王を招いて、「権利の章典」で国王の権利を制限します。名誉革命と呼ばれるこの出来事をきっかけに、議会政治とイギリス国教会を柱とする立憲君主政治が確立しました。

    カルヴァンの教義が資本主義の精神につながった
    カルヴァンが提唱した「予定説」は、商工業者の経済活動を後押しし、 資本主義の精神を育んだ
    従来のカトリック教義では、利益の追求は卑践であるとして否定的だったため、カルヴァンが商業、特に利子の獲得も認めたことは富裕な商工業者層の精神的支柱になったのです。市民層が心置きなく経済活動にまい進すると私財は蓄積され、 資本となっていきます。
    こうしてジュネーブのほかオランダやイギリスなどプロテスタント派の国で金融業が興隆しました。17世紀、ヨー ロッパは凶作や疫病に襲われ、「17世紀の危機」と呼ばれる状況に陥ります。そんな中、オランダは国際交易を展開し成功。イギリスも17世紀後半にピューリタン革命が起こり、以降、世界各地に植民地を展開していきます。

    プロテスタントの暴動がオランダ独立をうながした
    スペイン領ネ—デルラントはカトリックの強制に反発。分裂後、 独立したオランダは17世紀の覇権国家となる
    フェリペ2 世のカトリック信仰の強要を機に、1568年ネ—デルラント独立戦争が開始。北部の7州は結束を固め(ユトレヒト同盟) 、1581年ネーデルラント連邦共和国(オランダ) の独立を宣言します。
    この間にオランダは、史上初の株式会社となつた東インド会社を設立し、 海上貿易に打って出ます。インドや東南アジアではスペイン勢力圏の拠点都市を次々と占領。独立戦争はオランダの商業勢力圏の獲得戦争となっていき、そして1609年にスペインとの休戦条約で事実上独立を勝ち取りました。

    宗教戦争が各地で起きてヨ—ロッパで何が変わった?
    ヨーロッパ各地で宗教戦争が勃発すると.君主の主権が強まり、 領地内で国を運営していく「主権国家」が成立した
    の宗教戦争のきっかけは、カトリック派の君主による、 プロテスタントの弾圧でした。そんな中で、「宗教問題よりも国家の統一を優先せねばならない」と考える君主も現れます。
    その代表例がフランスのアンリ4 世です。彼はユグノーでしたが、泥沼化した宗教対立を収めるべく、自らカトリックに改宗し、信教の自由を認めた「ナントの勅令」を出します。そうしてユグノー戦争を終わらせました。さらに三十年戦争の講和条約「ウエストファリア条約」では、カルヴァン派を含め、新教派とカトリックは同等とされました。
    また各国では長期化する戦争で勝ち残るため常備軍を設置。これを養うための税制が整えられるなど、君主を頂点に、領地内で国を運営していくシステムが築かれていきます。このようなシステムを持つ国を「主権国家」と言います。そして、「主権国家同士は対等の関係である」という原則もできました。

    ジャガイモは宣教師が世界に広めた
    カトリックの宣教師が世界中に布赦を行うと同時に、 交易で様々な作物がヨ—ロッバにもたらされた
    交易で様々な作物がもたらされ、ヨ―ロッパの食卓に生活革命が起こりました。ドイツのジャガイモ料理や、イタリアのトマト料理がよく知られます。

    王権神授説を唱えた結果、王は国民に倒されたきっかけとなる
    王権神授説は絶対王政の根拠となるが、市民と国王の対立は激化。市民革命のきっかけとなる。
    この絶対王政により今度は市民(国民) と国王が対立。やがて市民の声を反映する形で新たな国家体制の実現を目指す市民革命が起こります。
    最初に市民革命が始まったのはイギリスです。国王が市民にイギリス国教会への信仰を強制し、清教徒革命が勃発。最終的に、市民は議会の権限を王権よりも優位にすることを条件にオランダから新しい王を招きます。この名洋革命によって、主権が王から議会に移り、憲法が定められ立憲体制が確立したのです。
    18世紀末、イギリスの支配からアメリカが独立した独立革命では、「人はみな自由で平等である」と書かれた独立宣言が起草されました。
    王を頂点とする身分制アンシャン=レジーム(旧制度) が強固だったフランスでは生活苦から第三身分(市民階層) の不満が爆発し、フランス革命が勃発。最終的に王が処刑され、王政は廃止となります。
    これらの市民革命は、人間の自由や平等を前提に国民が主権を持つ「近代国家」を生み出しました。

    宗教改革でキリスト教的価値観が衰退し科学革命へ
    キリスト教から神学が発展した結果、 神がつくった世界の法則を解き明かそうと科学革命が起きたそもそもヨーロッパ では、 古代ギリシアの時代には科学が大いに発展していました。しかしその後キリスト教が広まりキリスト教的価値観が定着。世界の仕組みは「神がつくった」で説明がっくようになり、 本来世界の仕組みを解き明かす学問である科学の重要性が低下したのです。
    それが近世に入ると、ルネサンスで科学が発展し、望遠鏡を用いた天文学などの実験が行われるようになります。また宗教改革によって信仰と科学的探究心を分けて考える学者たちも登場。実験にもとづいて判明した学説が「聖書」の記述と異なった場合、敬虔なキリスト教徒でもそれを受容するようになったのです。

    クリミア戦争の大義名分に使われたギリシア正教
    「ロ—マ帝国の継承者」を自任している口シアは、ギリシア正赦の保護を口実にクリミア戦争を引き起こした
    18世紀後半のロシア皇帝エカチェリーナ2世は、オスマン帝国の支配下にあったクリミア半島に侵攻します。ロシア正教会は、ギリシア正教を継承した宗派です。ロシアは、この立場を利用して、オスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護権を手にします。
    後に続く ロシア皇帝たちもクリミアを拠点に不凍港獲得を目指して南下政策を取ります。しかし、ロシアの地中海進出を許さないイギリス・フランスがオスマン帝国側に立ち、クリミア戦争に発展しました。

    キリスト教絵画に見るヨーロッパ美術の変遷
    キリスト教成立期より描かれ始めたキリスト教絵画。技法の発展により、その作風も大きく変化していった

    第3章 中東
    7世紀頃、メツカでムハンマドがイスラーム教を創始しました。以来、 中東ではイスラーム勢力が台頭し、その範囲はイベリア半烏、アフリカ、インド、東南アジアにまで広がりました。
    3章では、そんなイスラーム勢力の歴史を追っていきます。

    「聖戦(ジハード) 」で拡大したイスラーム教の版図
    ムハンマドにより創始されたイスラーム教は各地で戦いを繰り広げ、その版図を世界に広げていった
    ムハンマドの死後、イスラーム教徒は各地で聖戦という名の侵略戦争を繰り広げます。束方ではササン朝ペルシアを滅亡に追い込み、西方ではビザンツ帝国(ひがしローマ帝国) 領のシリアやエジプトを奪って危機に追いやりました。そして、5代目カリフ(イスラーム教の指導者) ムアーウィヤがウマイヤ朝を打ち立てます。
    征服された地では、「啓典の民(イスラーム教で、ユダヤ教徒やキリスト教徒のことを指す) 」は地租( ハラ—ジュ) と人頭税(ジズヤ) を納めれば、生命・財産・信仰が保護されました。イスラーム教が版図を広げた一因には、その寛容さがありました。

    ムハンマドの後継者争いが今も続くイスラーム教の分裂に発展
    後継者争いで宗派が分かれたイスラーム教。宗派の違いによる対立は、 今でも中東情勢に多大な影響を与えている
    スンナ派とシーア派の対立は現在も続いています。その最たる例がイランとサウジアラビアの対立です。
    イランとサウジアラビアはペルシア湾を挟んだ大国ですが、イランはシーア派、サウジアラビアはスンナ派国家です。

    「イスラーム教徒は平等」がアッバース朝の繁栄を導いた
    アラブ人以外でもイスラーム教徒であれば優遇したアッバース朝は、 イスラーム教への改宗者を増加させ巨大帝国となる
    ウマイヤ朝はアラブ帝国、アッバース朝はイスラーム帝国と呼ぶことがあります。イスラーム教徒全てを平等に扱ったアツバ—ス朝はイスラーム教による多民族統治を実現した王朝となったのです。
    アツバ—ス朝のイスラーム教徒優遇により各地で改宗者が増加し、 帝国は巨大化していきました。首都バグダードは最盛期に150万人もの人口を誇ったといわれます。

    唐とイスラーム帝国の戦いから製紙技術が世界に広まった
    中央アジアの支配をめぐってアツバ—ス朝が唐と対立。タラス河群の戦いで唐を打ち負かすと、 唐から製紙技術が伝わった
    タラス河畔の戦いでアッバース朝は唐の軍兵を多数捕處にしたといいます。その中には製紙技術者が含まれており、彼らによってイスラーム世界に紙がもたらされました。最初はサマルカンドに製紙工場が建てられました。
    紙はやがてバグダードなどイスラーム世界の各都市に普及し、12世紀にはアフリカ大陸のモロッコにも伝わりました。
    紙はイスラーム世界から、 さらにヨーロッパへもたらされました。12世紀半ばにモロッコからイベリア半島へ伝播したのがヨー ロッパへの伝播ルートの一つ。もう一つはシチリア島を経て、イタリアへ伝わったルートです。
    15世紀にドイツやイギリスで活版印刷が発明されて紙が生産されるようになるまでは、イタリ
    アがヨーロッパの紙生産を担い、ヨーロッパ文化の成熟を支えていました。

    イスラーム帝国はアフリカに進出しギリシアの文化を吸収した
    アフリカでも影響力を持ったイスラ—教は、 アフリカに浸透していたギリシアの文化などを取り入れていった
    イスラーム勢力が支配した地中海沿岸の征服地では、古代オリエントやギリシア・ロ—マの諸文明に起源を持つ学問が脈々と受け継がれていました。イランにあったササン朝ペルシアの学問の中心地ジュンディーシャープールでは、ビザンツ帝国(ひがしローマ帝国) から追放された学者たちが様々な研究活動を続けていました。その後この地がアッバース朝の支配下に入ると、カリフ首都バグダ—ドに「知恵の館」を設立し学問研究の伝統を継承していきます。
    征服地の北アフリカには、カイロ以前のエジプトの中心都市アレクサンドリアがありました。同地はアレクサンドロス大王が建設したギリシア風の都市で、数学者アルキメデスら古代ギリシアの名だたる学者が活躍した街です。そうした風土にあって、イスラームの学者たちは古典の学問を吸収していきました。十字軍運動の時代には、シチリア島やイベリア半島で、ギリシア語文献やアラビア語の科学書などがラテン語に翻訳され、ヨーロッパに紹介されます。

    イスラーム商人の活躍でアラビア語が英語に影響を与えた
    イスラーム商人の活躍で、 イスラーム文明はギリシアなどの他文明と融合した。11世紀において最高レベルの文明となった
    当時イスラーム世界が最高水準を誇ったのは、数学や天文学です。背景には十進法やゼロの概念など、インドから吸収した数学の知識がありました。これらにギリシアの幾何学、アラビア数字が融合して代数学が発展していきました。化学の分野でもイスラーム世界が果たした役割は大きなものでした。

    ポルトガルがオスマン帝国に対抗して、大航海時代が始まった
    15世紀にオスマン帝国が地中海の覇権を握る。対抗したポルトガルが喜望峰をまわってインド洋への航路を開いた
    オスマン帝国が地中海を支配したことで困ったのは、インド進出を目指していたヨーロッパ諸国です。そんな中で活発に航路を開拓したのがポルトガルでした。
    12世紀、スペインやポルトガルは「レコンキスタ(国土回復運動) 」を起こし、イスラーム勢力をイベリア半島から追い出すことに成功。しかしイベリア半島の多くはスペイン領となりました。そこで、ポルトガルはインド洋への航路を開拓し、貿易の利益を得ようとしたのです。しかし、地中海から紅海を通るルートはオスマン帝国の領土内。そこで、ポルトガル船はアフリカ大陸の西側を回り、喜望峰を通ってインド洋へ抜ける航路を切り開きました。こうしてヨーロッパ諸国のアジア進出が可能になり、 大航海時代を迎えました。

    世界中に建てられた美しきイスラーム建築
    イスラーム教圏ではド—厶やア—チ、 幾何学的な文様を特徴とする美しいイスラーム建築がつくられた

    第4章 インド
    インドでは紀元前13世紀頃にバラモン教が誕生。その後、仏教・ジャイナ教・ヒンドゥ一教など多くの宗教・思想が発展します。
    11世紀にはイスラーム勢力によるインド遠征が始まり、インドは宗教的に多様性あふれる地域になっていきます。

    仏教の誕生は、アジア各国の国家形成に大きく影響
    バラモン教への批判から仏陀が仏教を開く。仏教はアジア各地に伝播し、仏教を利用して国をまとめる国家が誕生
    アジアの諸地域ではそれまで土着の宗教が信じられていました。菩薩信仰から発展した大乗仏教は、東アジア圏に広まると、 鎮護国家思想と結びついて、政治と深く関わることになりました。
    中国では5世紀頃、北魏の皇帝が「皇帝即如来」を説きました。これは、皇帝を仏教の救世主である如来と同一視する考え方。つまり皇帝は、仏教を利用して自身を頂点とする中央集権化を目指したのです。
    東南アジアでは、都の近くに大型寺院を建設するなど、各国王が仏教を進んで保護しました。これも仏教を通じて王権を維持するためと考えられます。
    このように仏教は、アジア圏における国家形成の重要なカギとしての役割を担い、多くの仏教国を生み出したのです。

    マウリヤ朝のアショ—力王は仏教を保護して国を統治した
    マウリヤ朝のアショ—力王は仏教を保護。しかし、バラモン層からの反発などからアショ—力王の死後マウリヤ朝は滅亡
    ブッダの入入からおよそ150から200年後、アショーカ王が仏教をほふぉしたのは、血縁部族のまとまりを国家の基礎としていをこと変革しようとしたためです。仏教の教えに社会集団や国家のまとまりを期待したのです
    しかし、それでも特権階級であったバラモン(バラモン教の司祭) 層からの反発は免れませんでした。

    ヒンドゥー教の発展で、仏教徒がインドから消えた
    バラモン教は民間信仰と結びつき、 ヒンドゥー教に。ヒンドゥー教の明快な教えが支持を集め、 仏教は衰退していく
    4世紀、グプタ朝の時代に入ると、仏教に代わりヒンドゥー教がインド社会に広がりました。民
    衆の社会生活としっかり結ばれたヒンドゥー教の思想は、身分制度「カースト」として根強く残り続けることになります。
    王権とも結びついたバラモンたちは、仏教への攻撃を強めていきました。また、5 世紀の西ローマ帝国の滅亡により交易が途絶えてインド経済が衰退したため、仏教の支持基盤である商人たちは仏教僧やその活動を支え続けることができなくなりました。弱体化していった仏教はインドから追い出され、おもな活動場所をインドの外部に移したのでした。

    夕—ジ=マハル廟はヒンドゥー教?それともイスラーム教?
    インドにイスラーム勢力によるムガル帝国
    が成立。イスラーム教とヒンドゥー教が融合した新しい文化が生まれる
    支配層が信仰するイスラーム教は、一神教であり、偶像崇拝を認めません。それに対し、インドで圧倒的多数の信者をもつヒンドゥー教は多神教であり、多くの偶像がつくられていました。そのためヒンドゥー教徒は、人頭税(ジズヤ) を払うことで信仰の自由を保障されていました。
    この人頭税を廃止したのが、ムガル帝国の3代皇帝アクバルです。彼はさらにヒンドゥー教徒を積極的に登用し、自らもヒンドゥー教徒の女性と結婚することで、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒間の緊張を解くことに努めました。
    異教徒への融和政策は、一長期にわたる平和な時代をもたらしました。その結果、ヒンドゥー文化とイスラーム文化が融合したインド=イスラーム文化が誕生。
    ヒンドゥー様式を取り入れたイスラーム建築として名高いタ—ジ=マハル廟がそうです。5 代皇帝シャー=ジャハーンが亡き王妃のために建造したもので、二つの文化が融合した代表的な建築です。

    ムガル皇帝のヒンドゥー教弾圧がインドの植民地化を進めた
    ムガル帝国のイスラーム優遇政策でインドの分裂が進行。これに乗じてイギリスが進出し、 インドを植民地化する

    インド独立の父ガンディー—が望んだ「ひとつのインド」とは?
    イギリスの分割支配に対し、 ガンディ—は宗赦の垣根を越えた独立運動を提唱。しかし、 宗枚対立は収まらなかった

    仏教に取り入れられたインド神話の神々
    バラモン教やヒンドゥ—教で祀られているインドの神々は、仏教にも取り入れられ、日本でも信仰された
    第二次世界大戦後、戦争で疲弊したイギリスはインドの統治権を手放すことを決定。インドはついに独立を果たしますが、宗教の対立は根深いものでした。ガンディーの願いもむなしく、ヒンドゥ—教徒が多いインドと、イスラーム国家のパキスタンに分かれての独立となったのです。
    両教徒の融和を訴えたガンディーは、ヒンドゥー教過激派の青年によって暗殺されてしまいます。

    第5章 中国
    中国では、儒教・道教・仏教の三教が共存しています。
    なかでも儒教は、上下関係を重んじることから
    積極的に政治に取り入れられました。一方、道教,仏教は民衆の結束力を強め、王朝への反乱を起こすことがありました。

    孔子の教えが定着し儒教の帝国となった中国
    春秋時代に儒教が発展。儒教の思想が武帝に受け入れられ、 以降中国では.皇帝を頂点とする体制が続く
    儒教に転機が訪れたのは前2 世紀頃、前漢の7代皇帝・武帝の治世でした。
    武帝は、漢の版図を広めるべく異民族の土地へ侵攻を考えます。これを人々に納得させるために、儒教の「中華思想」を利用したのです。中華思想とは、最も徳の高い天子(皇帝) が、天から中華(天下の影響が及ぶ範囲) を任されるという考え方。そして、中華の外にいる異民族は「外夷」とされ、中華、ひいては天子に帰属すべきものとされたのです。
    こうして中国は、儒教の「天命思想」を背景に、 皇帝を頂点とした政治組織を、1912年のしんの滅亡まで続けていくことになります。

    天下を統一したしんの始皇帝、晩年は神仙思想に狂わされた
    死の恐怖にさいなまれた始皇帝は、不老不死を目指す神仙思想に傾倒したいその後、しんはわずか15年で滅亡した

    初の道教教団・太平道が『三国志』の英雄を生み出した
    道教の教団化が始まり「太平道」が成立。太平道が起こした反乱・こうきんの乱鎮圧。のちの『三国志』の英地たちが活躍

    仏教の伝来で中国は300 年ぶりに統一された
    仏教が伝来し、 南北朝時代に広まる、熱心な仏教徒であった楊堅が、仏教徒の貴族たちを取り込み、隋を建国する
    中国を280年に統一したしん(西晋) が滅ぶと、大陸の北側は北方・西方の諸民族の王朝が、南側はしんの流れを汲む王朝が続く、南北朝時代に入ります。
    先に述べた中国と西域の仏教交流が発展していくのが南北朝時代でした。為政者には国を仏教の力で治める「鎮護国家思想」が、庶民には仏教を信じれば幸福が訪れる「現世利益」の思想が受け入れられたからです。とくに北朝の北魏では大規模な石窟手院がつくられ、経典の漢訳も進みました。
    楊堅は南初の陳を攻め、589年に中国を統一し、ずいを建国したのです。こののち楊堅は北周に滅ぼされた北斉の仏教徒を盆用します。北周では仏教が弾圧されていましたが、楊堅自身は仏教徒で、仏教の力で政権の安定化を図ったのです。

    巨大帝国・元の皇帝が傾倒したチベット仏教とは何か?
    チベットに独特の教えを持つチベット仏教が誕生。モンゴル帝国の皇帝たちもチベッ卜仏教を受容した
    モンゴル帝国はチベット仏教を信奉し、チベットは宗教によって地位を確立することができたのです。
    フビライの死後も、げんの皇帝はチベット仏教を信仰し、 手厚く保護。寺院の造営などによる浪費が原因で、宮廷の経済が回らなくなり、 インフレが起こりますこれが一因で宗教反乱・こうきんの乱が起こり、げんは中国大陸の領土を失い、衰退していくのでした。

    朱子学の成立が東アジアにあらたな秩序をもたらした
    儒教を体系化し「礼」を整理した朱子学が登場。上下関係を重んじた朱子学は、朝鮮王朝や江戸幕府で受容される
    日本に朱子学が入ってきたのは鎌倉時代ですが、実際に大きな発展が見られたのは江戸時代のこと。将軍を中心にした幕府運営を目指した江戸幕府が朱子学を採用し、朱子学は武士が学ぶべき教養になりました。

    何度も革命を起こした仏仏教教団・白蓮教とは?
    中国で独自の宗教救団・白蓮教が結成され、たびたび反乱を起こす。みんの成立の大きなきっかけとなる
    この反乱で中核をなしたのは、白蓮教徒と食い詰めた農民たちでした。彼らは赤い布を身につけたため「こうきんの乱」と呼ばれるようになります。

    新興宗教が起こした太平天国の乱が清朝の命運を決定した
    キリスト教系の靳興宗救・はいじょうていかいが起こした反乱に、 しんは苦慮。なんとか銅圧するも、 しんの衰退が進きっかけに洪秀全は財産の共有などの目標を掲げて民衆の心を掴み、信者はさらに増加。太平天国の勢力は江南地方を圧倒し、南京を「天京」と名づけて都としました。
    反乱を抑えられないしんは、やむなく列強の援助を得て、民兵組織を率いて乱を鎮圧。1864年に洪秀全が病死したこともあり、太平天国は壊滅します。
    約13年間も続いたこの内乱でしんは自国の弱体化を自覚し、四洋の軍爭、工業技術を取り入れる洋務運動を進めます。しかし1894年の日清戦争で、同じ時期に近代化を果たした日本に敗北。この敗戦で清は高額の賠償金を科され、さらに列強による中国分割(領土の割譲) が進み、清はますます衰退していきます。
    その後も清国内では、近代的な政治システムを取り入れたい革命派と保守派の対立、外国人排除をもくろむ宗教結社, 義和団の反乱と、その鎮圧を名目に軍事介入を行う列強諸国、満州族と漢民族の札櫟などで低迷。孫文ら革命家による辛亥革命へとつながっていき、しんは滅亡を見ることになります。

    日本美術の題材となつた中国の三教の人物・神
    中国で発展した三教が日本に伝来すると、 中国の仙人や神、 高僧が日本絵画の題材となった

    第6章 日本
    日本には古代より「八百万の神」への信仰がありました。
    そこに538年、 朝鮮半島から仏教が伝来。以降、土着の神への信仰と、仏教が混ざり合った独特の信仰形態が発展していきました。

    一筋縄ではいかなかった日本での仏教布教
    6世紀に日本に仏救が伝来。仏教を信仰するかどうかで豪族が争い、勝利した蘇我氏が政権をにぎった
    蘇我氏ともののべ史、2つの豪族による対立、すうぶつ論争が起きた。なぜもののべ氏が仏教を拒否したかというと、彼が日本古来の神への祭祀を司る一族であったためです。両者とも譲らず、この戦いは泥沼化していきました。
    排仏派を倒したすうぶつ派により、仏教を中心に据えた政治体制を整え始めます。こうして仏教は日本史を語る上で欠かせないものになったのです

    神話から始まる歴史書『古事記』と『日本書紀』が編纂された理由とは
    日本神話をまとめた『古事記』『日本書紀』が縮篡される。これらは天皇や日本の権威づけのためにつくられた
    天武天皇は、朝廷の力を強めるために様々な制度を考えつきます。古事記は散逸していた伝承をまとめたもので、国内向けに天皇と神々の結びつきを強調したものです。これにより人々は天皇が君主たる理由を知ることとなります。
    一方で『日本書紀』は近隣国家に日本を文明国家として認めてもらうためにつくられたもの。中国の歴史書を参考に、漢文で書かれた日本の「正史」でした。「天皇が神から日本の支配を任されている」と伝えることで、日本における天皇主権の正統性を主張したのです。
    こうして日本は、天皇を頂点とする中央集権国家となり、 また遣唐使を通じて秘極的な外交政策を始めるのでした。

    東大寺の大仏は本当に平和をもたらしたのか
    聖武天虫は鎮護国家政策を進めた。これが僧侶の増長を招き、 寺院勢力を排除した平安京へ遷都することに
    道鏡の皇位かんだつは未然に防がれたものの、権力を持つ僧侶は朝廷の脅威となりました。
    これを解決すべく立ち上がったのが桓武天皇です。彼は天皇を中心にした体制を取り戻そうと、仏教勢力が強い平城京から離れ、新たな都への遷都を考えます。
    まずながおか京へ移りますが、大洪水や疫病で頓挫。その後平安京へ遷都し、京都は政治や文化の中心として千年の都となりました。
    これまで遷都が行われる際は寺院も新しい都に移築されました。しかし奈良の寺院は桓武天皇の命令により、平安京への移築を許されませんでした。聖武天皇が祈りを込めてつくった東大寺も奈良に残され、今に至ることになります。

    武士が政界に進出した理由は神仏を恐れないから東大寺や延暦寺の僧兵のごうず対策として上皇が武士を重用。次第に武士の権咸が高まっていき、 政界進出を招く
    僧兵の強訴に困り果てた白河法皇は、それまで地方の反乱鎮圧にあたっていた武士を都や朝廷のボディ—ガ—ドにすることを思いつきます。皇族や貴族には信仰心が染み込んでいますが、武士にはそんなものはありません。こうして採用されたのが「北面の武士」と呼ばれる警備部隊で、その中にはのちに戦を繰り広げる平氏や源氏の一族もいました。
    北面の武士の効果は絶大。やがて武上はごうぞや内乱を鎮圧した功績で官位を授けられるようになり、活動の幅をどんどん広げていきます。
    そんな中、白河法皇のひ孫にあたる後白河法皇の治世に、法皇の側近同士の対立が戦に発展しました(平治の乱) 。この時、武士の出世頭であった平氏と源氏が分かれて戦い、平氏方が勝利。結果、平氏のリーダーであった平清盛は、戦の功績から太政大臣に就任し、娘を天皇家に嫁がせるなど、 貴族・天皇家をしのぐ絶大な権力を握ります。これ以来、武士が歷史を動かしていくのでした。

    カトリック宣教師の来航で日本の銀が世界に流出した
    日本にキリスト教が伝来。宣教師と同船していた商人たちとの貿易が始まり、日木の銀が世界へ流出する
    南蛮貿易の始まりです。これにより様そな西洋の技術や科学が日本に伝わることとなります
    この時、 通貨として使われたのが国際社会のスタンダードだった銀。大航海時代まっただ中のボルトガルやスペインなどは、日本から得た銀を中国大陸のみんに運んで生糸など様々なものと交換、それをほかのアジア諸国や本国に送って利益を得る中継貿易を展開したのです。こうして日本で採れる豊富な銀は積極的に海外に輸出され、一説には世界の3 分の1の銀を日本産が占めたといいます。

    キリスト教禁教令は江戸幕府に平和をもたらした
    キリスト教は日本に定着。しかし豊臣秀吉が禁教を始め、江戸幕府も継続。大きな内乱が収まり平和がもたらされた
    最初に出された禁教令は、我臣秀吉のバテレン追放令。これはキリスト教の布教を禁じ、宣教師の国外追放を命じたもので、信仰を禁じたものではありません
    でした。しかしスペイン船サン=フェリペ号が漂着すると、 スペインのライバル・ポルトガルが「スペインは日本征服をたくらんでいる」と秀吉に耳打ち。怒った秀吉は宣教師や日本人キリスト教徒(キリシタン)合計26人を処刑しました。
    その後、徳川家康が開いた江戸幕府も、秀吉に続き禁教令を発布し、キリスト教の信仰を禁じます。そうした中で1637年、長崎で島原の乱が起こります。
    そこで幕府は乱のあと、禁教令を強化。海外貿易を制限し、海外渡航も禁止するなどの鎖国政策に乗り出します。その結果、大きな内乱は消え、江戸の平和は260年続くことになりました。

    葬式を仏式で行う風潮は仏江戸幕府がつくった
    キリスト教禁教のため江戸幕府は寺うけ制度を開始。庶民と寺院の結束が強まり、 葬式を寺院が行うようになった
    戸籍を作成する、隠れキリシタンをあぶり出す、そんな目的で始まった寺うけ制度ですが、この制度で市民と寺院の関係が変化します。まず寺院は布施が集まることで安定した経営ができるようになりました。
    江戸時代より前、仏式の葬儀は貴族や皇族など、限られた人々だけのものでした。しかし寺院が戸籍を管理するため、 寺院は自分の檀家の出生・死去を把握するようになります。その流れで僧侶が呼ばれてお経を唱えるという、今と同じ葬儀のスタイルができあがったのです。

    日本古来の思想を研究する「国学」が幕末の動乱をもたらした
    古代日本人の考え方を研究する「国学」が発展。日木は天皇の国だとする歴史観が現れ、幕末のスロ—ガンとなる
    水戸藩では国学と朱子学をミックスさせた水戸学が発展。やがて水戸学は「日本は本来天皇の国である」という歴史観を唱えました。この歴史観から「尊王論(天皇を敬うべき) 」という考えが誕生します。
    さらに1853年、黒船が来航し外国人が日本に出入りするようになると、「攘夷論(外国人を打ち払うべき) 」が起こり、先の雅王論と合体して「尊王攘夷思想」へ発展します。しかし外国には敵わず人々は攘夷を諦めます。一方「尊王」の方は、外国や攘夷派への対応が後手に回った幕府を倒し、新しい国をつくろうという倒幕運動のスローガンとして、盛り上がりを見せていきました。そして1867年、15代将軍・徳川よしのぶは朝廷に政権を返還し、江戸幕府は滅亡。天皇を頂点とした明治新政府が立ち上げられ、武士の時代は幕を下ろしたのです。

    明治政府の「神仏分離令」が文化財保護の動きを生み出した
    政府は神道を国教化すべく、神道と仏救の分離令を発布、廃仏我釈につながり、 寺宝を保護する法律が整備された
    この神仏分離令には大きな弊害がありました。法令を聞いた民衆が寺院に押しかけて仏像や寺院を破壊する「廃仏毀釈」が起きたのです。この運動は、これまで寺院より下に見られていた神社の神官が始めたもので、檀家制度で強制的に寺院に布施を要求されていた民衆が同調したことで大規模なものとなりました。破壊だけでなく、寺院の宝物が海外に転売されることもありました。こうして全国的に寺院、仏像などが破損され、企業な文化財が多く消失したのです。
    フェノロサは政府に文化財保護を訴え、弟子の岡倉天心を連れて自ら文化財調査に乗り出しました。彼の熱意に明治政府も動き始め、「古社寺保存法」を制定し、貴重な文化財や建造物を国宝に指定。それ以降、仏像や寺院は美術品として守られることになりました。

    死後、神として祀られた日本史の人物たち
    日本には怨霊となった人物や、偉業を成し遂げた英雄を神として祀る文化があり、多くの人物が神となった

    第7章 近・現代の世界と宗教
    現代日本では宗教を深く信仰する人は少数派かもしれません。
    しかし世界では宗教を信じる人の方が多数派で、それゆえに激化している宗教的な対立が今も根深く残っています。
    いまだ解決に至っていない近・現代の社会問題を、宗教の視点から探ってみましょう。

    ナチ党ドイツの迫害にユダヤ人たちはどう対応したのか?
    大迫害を受けたユダヤ人たちの中には、アメリカに亡命し、 芸術家や思想やなどとして活昆する者も現れた
    ヒトラーは、ドイツ人をユダヤ人から守るためと称して大衆を扇動し、ユダヤ人への暴力を加速。多くのユダヤ人が強制収容所に送り込まれ、600万人もの命が奪われました。

    ユダヤ人のイスラエル国建国が4度の中東戦争を招いた
    ユダヤ人の悲願、 イスラエル国の建国は、先住のアラブ人との対立を引き起こし、4度にわたる中東戦争に発展した
    国連はパレスチナを分割する案を決定し、1948年にイスラエル国が建国されますが、反対するアラブ連盟諸国はただちにイスラエル領に侵攻。第一次中束戦争(パレスチナ戦争) が勃発します。戦争に勝利したイスラエルは、国連のパレスチナ分割案よりも広い領域を占領し、独立を確保しました。
    両者の対立はその後も長く続き、アメリカなどの列強がイスラエルを支援したことで激化。戦後4 度にわたり中東戦争が行われました。これに対し、エジプトの大統領サダトはアメリカ・イスラエルとの和解するために、1979年のエジプト=イスラエル平和条約を結び、アラブ諸国で初めてイスラエルを承認します。
    しかしサダトはアラブ諸国の反発を受け、ついに暗殺されてしまいました。

    アイルランド独立の背景にあった国教会とカトリックの宗教戦争
    イギリスからの独立を目指したアイルランドだが、北アイルランドと南部のアイルランド共和国に分断される

    なぜ社会主義・共産主義者は宗教を否定したのか?
    マルクス主義を理想とした国家は、 宗教は革命を阻害すると見なして宗救を非難、 激しい宗救弾圧を行った
    最高指導者の座についたスタ—リンはマルクス主義から反宗教政策をとり、 ロシア正教会を弾圧。
    マルクスは、 宗教は厳しい現実を慰める鎮静剤的な役割を果たし、 人々が現実の不幸を改革するために決起することを防ぐと考え、 宗教を批判するスタンスをとりました。ところが、社会主義・共産主義国家ではマルクスの宗教批判が宗教否定論のように理解され、信教の自由が実際には保障されなかったのです。

    ウィグルやチベットで中国政府が繰り返す宗教弾圧
    中国政府はウィグルやチベットに対して宗教弾圧を行い、民族浄化や思想赦育を強行している

    若者のキリスト教離れが反抗の象徴「ロツク」を生み出した
    キリスト救世界に反抗したカウンタ—=カルチャーが若者の間で流行。ロックミュージックはその象徴となった
    古い価値観を吹き飛ばすような文化の爆発は、 同時にアメリカの保守層に危機感をもたらし、キリスト教原理主義へとつながっていくのでした。

    なぜイランは厳格なイスラ—厶教国となったのか?
    シ—ア派の宗救指導者ホメイニによってイラン=イスラ—厶共和国が成立。イランとアメリカの確執が深まった

    9.11テロがきっかけでアメリカは「世界の警察官」をやめた?
    9.11テロへの雑復でアメリカはイラク戦争を起こすも、 戦争で疲弊し「世界の警察官」を返上する

    ロシア正教会がプーチン大統領を支援した理由とは?ポイント
    ロシア正教会から独立したウクライナ正救会。その背景にはロシア正教会とブ—チン大統領の強い結びつきがあった。
    2018年12月にウクライナ正教会はロシア正教会からの独立を宣言したのです。
    独立の背景には、2014年に起きたロシア軍によるクリミア侵攻がありました。ウクライナで親ロシアの大統領が追放されると、ロシアのプーチン大統領はロシア系住民の保護を名目にクリミア半島へ軍事侵攻。ロシア正教会のトップである総主教キリル1世もこの侵攻を支持したことで、両教会の溝が深まったのです。
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    投稿日:2023.09.13

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