【感想】超AI時代の「頭の強さ」

齋藤孝 / ベストセラーズ
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  • fujiyamaegg

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    投稿日:2023.12.26

  • Go Extreme

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    超AI時代の「頭の強さ」

    将棋のような複雑なルールをもつゲームでコンピュータが人間に勝つのは、もう少し先ではないかと思われていたのは、つい最近のことです。でも、さすがに機械が人間と同じようにしゃべるには、まだ時間がかかるのではないか…。こういった未来予測はこれまでのところ、ことごとく裏切られているように見えます。

    第1章 チャットジーピーティーと対話する質問力とは

    答えが正しいかどうかよりも、「あたかも自然言語で人と対話しているかのように答えられる」ということのなかに、チャットジーピーティーのような生成AI のすごさが凝縮されていると思います。

    彼らが掲げた目標は、人類全体に利益をもたらす形で汎用人工知能を普及・発展させること。自然言語による生成人I がテクノロジーの歴史におけるターニングポイントになるであろうことを早くから見抜き、できる限りオ—プンに、しかも安全にそれを生み出したい、とも考えていました。

    生成AIは、膨大なデータから学習しながら、創造的かつ現実的な、まったく新しいアウトプットを生み出すための手法です。だからネット情報の検索というよりも、むしろ文章や画像、音楽などのアウトプットをつくり出す、いわば「クリエイティブな作業」を得意としている。これも重要なポイントのひとつです。

    こうした生成AIの特徴を捉え、本質的な意味で知性をもっているとはいえない、AIが何かを理解しているわけではない、などと指摘する人もいます。かれども学生たちを教えている私から見ると、即座にクリエイティブな課題にも対応し、ある程度はまともな文章を書けるこのような存在を、「知能ではない」ということは、もはやできません。

    もしチャットジーピーティーをひとりの人間として捉え、それと戦っているのだとすれば、私たちひとりひとりに勝ち目はありません。なぜなら、それは全人類が力を合わせてつくった「知の結集」でもあるからです。

    それが厳密な意味で知能と呼べるのか、人間の思考とはまったく違うものを錯覚しているだけではないのか、といった議褊はさておき、私たちはこれから「たぶん、自分より頭が良いと感じられる存在」と長くつき合っていくことになる。それは否定できない事実だと思います。

    質間に対する答えをさまざまな観点からチェックする、話の文脈に沿って答えを変えていくような口ジツクをもったAIは、すでに生まれつつあります。質間力の本質は結局のところ、対人間でも対AIでも同じではないでしょうか。

    第2章 AI時代に何が起ころうとしているのか?

    アメリカの発明家、実業家でもあり人工知能研究の権威として知られるレイ・カーツワイルは、二〇〇五年の著書『シンギュラリティは近い! 人類が生命を超越するときーのなかで、人間の能力がもつすごさを次のように要約しました。

    人間の知能に従来からある長所のひとつに、パターン認識なる恐るべき能力がある。超並列処理、自己組織化機能を備えた人間の脳は、捉えがたいが一定した特性をもつパタ—ンを認識するには理想的な構造物だ。人間はさらに、経験をもとに洞察を働かせ、原理を推測することで、新しい知識を学習する力をもっている。これには、言葉を用いて情報を収集することも含まれる。人間の知能の中でも重要なものに、頭の中で現実をモデル化し、そのモデルのさまざまな側面を変化させることで、「こうなったらどうなるだろう」という実験を頭の中で行なう能力がある。

    コンピュータに比べると、脳は処理速度が非常に遅いにもかかわらず、複雑な問題に対しても効率的な対応ができます。それを可能にしている大きな違いのひとつが、無数の二ューロンが情報を同時処理する「超並列処理」という設計のあり方です。
    脳のなかで行われる情報処理の速度はそれほど速くありませんが、すべてが個別に行われます。情報は同じ道を通る必要がないため、そもそも渋滞がほとんど起きない。

    もうひとつの大きな違いが、脳が新たなシナプスを形成することで、自分自身を変えていく自己組織化です。それは、いわば「脳が、脳自身を配線し直す」ことであり、人間は学びによって自分自身を変えていき、古い自分を乗り越えていくことができる。私は、この自己組織化こそが、人間にとって決定的な力であると思っています。

    そのシンギュラリティに到達すると何が起きるのか? カーツワイルによれば、それは「理想郷でも地獄でもないが、ビジネスモデルや、死をも含めた人間のライフサイクルといった、人生の意味を考える上でよりどころとしている概念が、このとき、すっかり変容してしまう」地点だといいます。

    AIというのは技術革新ですが、これは江戸時代の日本に黒船がやって来たという.歴史にとても似ていると思います。ほとんどの人はこれから何が起きるのだろうかといって慌てふためているばかりだけれども、その変化の本質を見極め、これから何をすべきかを考えている人は必ずいるのです。

    江戸時代にも、これを見て冷静に何が起きているのかをしっかりと考えることのできる人たちがいました。これからは海防の時代だと冷静に分析することのできた佐久間象山や勝海舟、あるいはその影響を受けた坂本龍馬などといった人たちは、起きつつある変化の本質を察知することができたわけです。

    黒船の性能や装備、来航の目的をしっかりと把握し、西洋の技術を植極的に取り入れなければとても太刀打ちができないことや、これからは海外との貿易が重要な時代になることをしっかりと理解していたのです。
    大きな波は来ているが、それを止めることができない。それなら、その波に乗っていくしかない。そんなふうに冷静な思考をすることが大切なのは、今も昔も変わりありません。

    まず準備しておくべきものは、何か特定の知識や技術というよりも、むしろ変化を怖がらない勇気や、新しいものを受け入れるメンタリティであったりするのではないでしょうか。

    これまで「頭脳労働」「知的労働」の担い手と考えられていたホワイトカラーが大きな影響を受けつつあり、それは「ホワイトカラーが産業革命にさらされる」などと表現されています。

    イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが書いた、『ホモ・デウス- テクノロジ—とサピエンスの未来』という本は、そのような恐るべき未来を描いた警告の書でした。とデータ処理の力を使い、いわば神のように君臨する一握りのエリ—卜回が大多数の「無用者階級」を支配する。

    AIによって仕事が奪われるのではないか、という不安を直接的にAIの脅威、あるいは私たち個人がもつべき能力と関連づけるべきではないと私は考えます。ここには本来、社会のシステムをどう設計するべきかという、より大きな問題があるのです。

    生きていくには働かなければならないというドグマとは、社会のために働き、お金を得ることができなければ生きていくことは許されない、という私たちの社会がもつ大前提を意味しています。
    いずれにせよ、「AIよりも能力が低く役に立たないのであれば給料は低くても仕方がない、仕事がないのも仕方がない」というような論理には反対していかなければならないと思います。

    伝統的な学力、あるいは一般に「頭の良さ」と呼ばれてきた能力は、言語が中心となっているものです。言葉で読んだり、聞いたりしたものを要約して、的確にもう一度、記憶から引き出すことができる。私たちが「勉強」と呼んできたものは、つまるところ「要約力」を鍛えることです。記憶し、もう一度、その要点を再生することができれば、大抵の教科はできるということになります。

    今の学生たちには、ただ文章にまとめるだけの一般的なレポートとは違うものをつくる能力がある。それは、手法的にも内容的にも決して慣れているとはいえない、初めての課題にもうまく対応し、レベルの高いものを仕上げられる力でしょう。そして何よりも、こういうものをつくることのできる表現力というのは、相手に何かを伝えなければというときに工夫をする「演出力」をともなったものだと感じました。

    第3章 変化の時代に求められる「頭の強さ」

    なぜそんなふうに、「公のために、私の利益を捨てる」ことができたのか? それをごく単純化していえば、武士たちのなかに、新しいものに立ち向かう勇気があったからだと思います。
    「そもそも武士とは何だったのか? 」というところに立ち戾れば、武士の資質として最も強く求められるのは勇気でした。
    たとえば切腹をする人の首を斬る介錯ができて、初めて一人前となる…。そういう教育を受けて育った人たちが命を懸けて行った改革が、明治維新だったわけです。
    私は、武士たちの行動の根源にあったのは勇気と行動力であったと感じずにはいられません

    弁舌の鋭さや行動のスピ—ドが強調されることの多い人物ですが、私は江藤の根本に「怒りのようなもの」があると感じています。「人智は空腹の中より生ずるものなり」との:言葉にもあるとおり、何かに耐えて我慢しながら、頭を全速力で回酝させているような印象を受けるのです。
    江藤は、「すぐには怒らない、三日くらい考えてから怒る」と自らの信条を語ったといいます。感情と理性を別のものとして分けていない。かといって感情の命ずるままに行動することをよしとしない。他人から見れば、少し分かりにくい独特のスタンスといえるでしょう。

    この人の人生や考え方、仕事のやり方を知れば知るほど、頭が良い人だったのだなあと思います。そして、その頭の良さはやはり、どちらかというと「頭が強い」と表現したくなる種類のものなのです。
    明治維新で活躍した人のなかには、こういう「頭が良い」というよりも、「頭が強い」という印象を与える人が多い気がします。
    この状況でこの決断ができるんだなあ、とそのスピードに驚いたりするような経営者に共通するのは、判断力や予測力といったものが「精神的タフネス」と不可分に合わさったような「頭の強さ」なのです。

    『道は開ける』という有名な本のなかで、デール・カーネギーは過去について悩むという行為について、面白い表現をしています。
    すでに終わったことについてクヨクヨと悩むのは、ちょうどオガクズを挽こうとしているだけなのです。オガクズを挽こうとするな。

    テレビのなかでプレーしている選手たちは一生懸命にやっている。しかも仮に試合で負けたとしても、それは私の課題ではなくて、監督や選手の課題です。サッカーのチ—ムに愛情があるのはいいけれど、テレビを見ていて怒りが込み上げてくるというのは、おかしい。
    そう思ったときから、すごく楽になった。まさに執着が落ちた瞬間でした。それから、自分でもびっくりするくらい心穏やかにサッカーの試合を楽しむことができるようになったのです。

    西洋では知性、感情・情緒と並んで意志を三つ目の要素とした。これら三つがバランスよくそろうことで卜—タルな人間性が完成すると考えたようです。今も、心理学などでは、この「知情意」という言葉が使われます。
    「知情意」であれ「智仁勇」であれ、この三つのバランスがとれた人間が望ましいというのが、東洋においても、西洋においても、おおよそ一致した見解であったといえるでしょう。

    ものごとの本質を素早くつかむ力をもち、「智仁勇」をあわせもつトータルな人間性をもっている。そして、言葉やヴィジュアルを使ったアウトプットによって他人を楽しませることができる人。AI時代に求められる「頭の強さ」の具体的な姿がようやく見えてきました。

    第4章 「頭の強さ」を手に入れる方法とは?

    スピード感のない人に対して、「頭が強い」と感じることはないでしょう。
    これもまた今に始まったことではありません。ベンジャミン・フランクリンの「クイム・イズ・マネー」以来、資本主義にとって中心となる課題はいつも時間だったからです。

    経営学者のピーター・ドラッカーも時間のマネジメントを非常に正視しており、『経営者の条件』といった著作のなかで時間管理についてのさまざまな言葉を残しています。以下にひとつ引用します。
    時間はあらゆることで必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である。あらゆる仕事が時間の中で行われ、 時間を費やす。しかしほとんどの人が、 この代替できない必要不可欠にして特異な資源を当たり前のように扱う。おそらく時間に対する愛情ある配慮ほど成果をあげている人を際立たせるものはない

    今の時代のように変化が激しいときには、状況を見極める能力と同時に、スポーツ選手のようなメンタルの強さが求められる。平常心を保ちたい、というときに頭の使い方だけを考えていても限界があります。こういう場合、呼吸法のような身体技法も大切です。息を軽く鼻から吸って、ゆっくり口から吐く。

    瞑想というものをシンプルに言い換えるならば、それは「今に集中する」ための鍛錬といえるでしょう。
    人間の意識というのは、どうしても過去にとらわれるものです。そして、これから起こることに対しては不安を抱かずにはいられません。後悔と、将来への不安。それが今に集中しようとする思考を邪魔します。

    呼吸を意識することで、今に集中するやり方を学ぶ。仏教でいえば、そうやって今に集中してしがらみを離れ、悟りを得ようとしたのでしょう。頭が働いているのはいいのだけれども、ムダなことにどんどん頭のエネルギーが使われ、疲弊してしまっている状態。瞑想はそれを防ぐ手段です。

    変化の激しい時代を乗り切るというのは、いわばサーフィンのようなものでしょう。次々と大きな波が押し寄せるけれども、ひとつとして同じ波は来ない。その波の一つひとつに対して、今を生きて、今に集中しなければ、乗りこなすことはできない。そういうメンタルとか心構えが、重要になってきています。

    本質をつかむ力というのは、ぼんやり考え続けているといっか得られるようなものではなく、アウトプットを想定しながらインプットをすることで鍛えられるものなのです。

    哲学者のルネ・デカルトも『方法序説』のなかで、独自のル— ルをつくって箇条書きの大切さ、そして優先順位のつけ方を説いています。
    面白いのは、問題をよりょく解くためにデカルトがまず「必要なだけの小部分に分ける」ことを推奨している点です。問題を小分けにするということが大切です。次に、いよいよ優先順位をつけていくわけですが、このときも「最も単純で最も認識しやすいものから始める」のがデカルト流です。

    「昔は知っていたんだけれど、忘れてしまったなあ」と思うことがあります。けれども、こういうのは知識として体得されていない情報にすぎないと思ったほうがいい。知識というのは、やがて身体に染み込んでしまうようなもので、何かの折にそれがつい出てしまうというもの です。

    かつてグーグルで最高情報責任者として活躍したダグラス・C・メリルが書いた『グーグル時代の情報整理術』という本も、まさにこうしたテ—マを扱った本です。
    日々、膨大な量の情報が押し寄せてくるからこそ、情報のえり分けがゴミを取り除く最初の一歩となる。その際、すべての情報には目的があるということを忘れるべきではない、と著者は指摘しています。つまり、目的意識をもって情報に注意深く接することで、情報の整理はぐっと楽になるというのです。

    時間を短く区切って優先順位をつける。誰に向け、そして、どうアウトプットするのかという目的意識をもつことが、本質をつかむ力につながります。
    誰がその要約を読むのか、それを使って何をするのか、自分の経験とどの部分でつながっているのか。そういった目的をしっかり設定しておくことが大切です。

    その場でなんとなく問題設定をし、みんなで話し合いをして解決したような気になる。
    一時間その場でおしゃべりをしても、何の意味もない話し合いになってしまうというのは決して珍しいことではありません。
    話し合ったり、発表したりしていればアクティブラ— ニングだと思ってしまうと、本当の意味で能動的なことは何も行われていない、非常に浅薄な授業になってしまう可能性が高いのです。

    従来の暗記中心の入学試験で入ってきた学生と、個性や発想力を重視した新しい入学試験で入ってきた学生。平均を比べてみると、いわゆる学力だけでなく、クリエイティビティ(創造力) についても前者が優れているようだというのです。
    これは、逆説的な話にも聞こえますが、クリエイティブな能力というものの本質を考える上では、とても重要なポイントだと思います。
    受験勉強というものを通して頭というものを使い慣れ、集中力も鍛えてきた人は、クリエイティブな課題をいきなり出されても、しっかり対応できる。

    だから、日本でこれまで培われてきた、記憶の確かさや生共而目さが靴われるという考え方を捨ててしまい、クリエイティブでイノベ—テイブな人材を育てる、というガ向に極端に針が振れすぎてしまうと、その都度、ただ遊んでいるような授業ばかりになってしまうのではないかと私も心配しているところなのです。

    AIの研究でも知られるアメリカの科学者、マーヴィン・ミンスキーはその著書『心の社会』のなかで、心というものの独特な捉え方を提唱しています。それは、「一つひとつは心をもたない小さなエージェントたちが集まってできた社会」というべきもので、このエージェントというのは、それぞれに違う役師をもったこびとのような小さな者たちであると考えられます。
    ミンスキーによれば、一つひとつは心をもたないこびとのような者たちが共同で作業を行うなかで全体として心のようなものが生まれているというのです。

    文明化というのは、マナーがよくなるプロセスである。これは、ノルベルト・エリアスというドイツの社会学者が『文明化の過程』のなかで言っていることです。

    デール・カーネギーの『話し方入門』という本には、「笑いの神に愛されていない人は、無理しないほうがいい」というアドバイスが載っていて、それこそ身も蓋もない話ではありますが、これぞユーモアに関する最も有効なアドバイスなのかもしれません。

    第5章 本を読む能力と「頭の良さ」の関係

    読書によって私たちは、著者と登場人物の両方から、精神の深いところに影響を受けることになる。歴史のなかの登場人物や著者がもっている「頭の強さ」「心の強さ」を、あたかも自分のものとして経験するのです。それはまるで著者や登埸人物の思考や感情の軌跡を、そのままなぞるようなものだといえるでしょう。

    私たちは、ただ物語を読んでその展開を楽しんでいるだけではありません。本を読んでいるあいだ、彼らがどんなふうに頭を使っているのかを経験し、あたかも彼らと「同じように考えている」のです。

    メアリアン・ウルフ『プルーストとイカ— 読書は脳をどのように変えるのか? 』によれば、人間が今とおなじような意味で読書という能力を獲得したのは古代ギリシア時代にまでさかのぼるといいます。

    人類が文字を読むことを発明したのは、たかだか数千年前なのである。ところが、この発明によって、 私たちの脳の構造そのものが組み直されて、考え方に広がりが生まれ、それが人類の知能の進化を一変させた。私たちの祖先が読み方を発明できた理由はただひとつ、 人類の脳が、既存の脳内の構造物間に新しい接続を生み出すという、驚くべき能力を備えているからだ。

    私はAIが今、何を学んでいるのかを論じながら、「脳が、脳自身を配線し直す」ことに似た「自己組織化」が重要だと述べました。読書は、私たちが生まれながらにもっている能力ではありません。人間の知能を飛躍的に進化させる契機となった、まったく新しいテクノロジ—だったのです。

    読書をすることで語彙も圧倒的に増え、複雑な論理や細かいニュアンスを含んだ表現が可能になる。私たちは頭のなかで、この読書によって学んだ言葉を使いながら、思考しているのです。
    『プルーストとイカ』の著者にならって作家ジョゼフ・エプスタインの言葉を引用するならば、「私たちを作り上げてい旳のは、私たちが読んだものなのだから」ということになります。

    読書によって私たちが得られるのは、情報や知識ばかりではありません。読書によって、私たちは思考することそれ自体を学びます。読書を通して、他者の心の世界をたどるという経験をもつことで、私たちは精妙な文化をつくり上げてきたのです。

    宗教でいえば、これは仏教やキリスト教に帰依することに近い体験といえるでしょう。
    仏陀の言っていることがすべて、イエスの言葉がすべてと感じられるような、自分が何かとてつもなく大きなものに圧倒されるような、強烈な体験です。そういう経験が何を生むかといえば、「人格の安定」です。

    教養というのは、知識が豊富であるとか、頭が良いとかいう話を超えて、自分の世界に広がりがある、自分が豊かさ、幸福感に包まれているという状態なのだと思います。
    教養があって自分のなかに豊かな森をもつことができる人というのは、すごくバランスがいい。そういう人は、たとえば身近な他者、会社の同僚に嫌なことを言われたとしても大して響かない。なぜなら、その同僚は自分にとって重要人物ではないからです。教談のある人にとって、重要人物はいつも自分の内面にいる。

    好奇心は、前提となる知識がなければ湧き上がってこないものです。読みたい本がない、というのは、いわば種がまだまかれていない状態。知的好寄心の種は、知るということのなかにあって、知っているから次を知りたい。だから、好奇心の量は指数関数的に増えるものであって、始めはゼロに近いのが普通なのです。

    プラトンなどの著作で知られる古代ギリシアの偉大な思想家、ソクラテスは1冊の書物も書き残さなかった人物として知られています。そして口承文化から文字文化への移行期にあってソクラテスは、読書という新しい習慣が若者たちにとって危険なものになり得るのではないかと危惧していたのです。

    音声をともなった言葉で師匠から弟子へ伝えられる言葉には、 書き言葉とは違う独特の意味内容や重さ、そしてある種の柔軟性があります。ソクラテスは、書物に書かれた言葉のなかに真実があると若者が誤解してしまうことを恐れ、伝統的な知の伝え方にあくまでもこだわっていたのです。

    私たちはこうしたソクラテスの考え方ですら、プラトンが残した記録によって知り、追体験することができる。このことの意味は大きいと思います。そして、問いかけ続けることでソクラテスが至った「無知の知」という教えも、今は書き残された言葉として伝わっています。

    『プルーストとイカ』より以下引用します。
    プラトンは気付いていたが、ソクラテスの真の敵はけっして、文字を書き留めることではなかった。むしろ、ソクラテスは、私たちが言語の多様な能力を岭味せず、持てる知力を尽くして使いこなそうとしていないことに対して戦いを挑んだのだ。

    私たちは、もてる知力を尽くしているでしょうか?
    今の私たちが考えるべきなのはAIそのものの是非ではなく、むしろ自分がそれとどう向き合い、どう使うかなのでしょう。
    そして、その問いかけは、まさに自分がどう生きていくかということにつながっていくのです。

    第6章 AIによる産業革命を生き抜くために

    はっきりしているのは「想像すらできないような変化」が始まっていて、私たちは近い将来に選択を迫られるだろうということです。

    哲学者のフリードリヒ・ニーチェは「ツァラトウストラはかく語りき」のなかで 人間の精神がたどっていくステップとして「三段の変化」があると語っています。
    「精神が駱駝となり、駱駝から獅子となり、獅子から幼子になること」
    つまり、始めは義務を負う駱駝から始まり、やがてノーと言える獅子となり、最後は自由に遊び創造する幼子となる。

    ニーチェがここで言いたいのは、「願望から出発せよ」というようなことです。何をしたいのかを自分に問い、義務に対してノーと言い、自由を獲得せよ。それだけ、人間というのは長いあいだ義務を負いながら生きてきたともいえるでしょう。

    自分で選び取る時代が来たと思ったら、今度は自分が選ばれないという皮肉な現実も明らかになってきました。考えてみれば当たり前ですが、結婚しない自由を選択する人が増えれば、選ばれる確率も下がっていきます。

    現実にはそういうさまざまな妥協点が大事で、妥協こそが人生という側面がある。自分は何がしたいのか、というのはもちろん大切です。けれども、同時に「何ができるのか」や「何をすべきなのか」といったことのなかで最良のバランスを見つけ、これが私のベストだというものを選択していく。決めてしまえば、あとは選んだ条件とともに全力で生きていくことができる。

    身体論的にいえば、エネルギーをうまく出すためのアプロ ーチは二通りあります。
    ひとつは、集中力そのものを鍛えること。それには、まず呼吸法です。「丹田呼吸法」を広めた藤田霊斎という人は「上虚下実」という言葉を使うのですが、頭をリラックスさせ、上半身はゆっくり脱力して下半身を充実させる。おへその上は虚にして、下は実にする。

    一方で、自分がエネルギ—をうまく出せる分野や場所、ポイントのようなものを見つけていく方法もあるでしょう。「そこ」にうまくはまった人というのは、誰もが驚くような力を発揮することがある。頭が良いとか能力が高いというより、馬力がある人だなという印象を受けることも多いのです。

    私たちの生きる世界は不条理なものであって、そもそも自分が選んだわけでもないのにこの人生というものに投げ出されてしまっている。「親ガチャ」などという言葉が流行りましたが、私たちは生まれてくる親や家庭を含め、環境を選ぶことができません。有無を言わせず、この世界に放り出されるわけです。

    それをマルティン・ハイデッガーは「被投性」と呼びました。そうだとしても、なお私たちは選ぶことができる。そういう認識が、実存主義の基本にあると思います。これを「投企」と呼んだりしますが、これは選択それ自体に積極的な意味を見いだしていくことです。

    こうしたカの源泉となるのは、自分の能力は他人よりも優れているといった自信とは、違うレベルにあるものです。むしろ、根本のところで自分が生きている価値を実感し、肯定する力なのです。

    すでに変化は起きつつあるのだと私は感じています。
    たとえば音楽の分野でいうと、現代はヴァルター・ベンヤミンがいうところの複製文化が行きき着くところまで行ってしまった時代です。インターネットを通して、あらゆる音楽がタダ同然で聴けてしまう。

    学ぶという行為もこれからの人間にとっては、ある種のスポーツやゲーム、趣味に近いものになっていくのではないでしょうか。
    登山のようなものから、芸術のようなものまで、一見なくても困らないものが人間にとって一番豊かで楽しく感じられるということは、否定しがたい事実です。そして、こういう「遊び」は、真剣にやればやるほど面白いし、奥が深い。変に合理的に考えてしまうと息が詰まってしまい、楽しくなくなってしまう。

    目的のない勉強。勉強のための勉強。そこに、福沢諭吉が説いた真の学びがあると思います。そして、この「果てしない思考」を面白がることができる能力、「限界のない何か」を楽しみ、新しい知識に出合いたいと思える能力のなかに、人間の頭悩がもつすごみを感じずにはいられません。

    人間の精神がたどっていくステップとして「三段の変化」があると言った二—チェは、『ツァラトゥストラはかく語りき』のなかで、自分を乗り越えていくことを而白いと思う人間こそが「超人」であるというようなことを語っています。
    今の自分には満足しない、乗り越えるべき強い敵のようなものが現れたときに勇気をもち、むしろ好んで向かっていくようなメンタリティをもった人間として描いている。何か大きな存在に頼るのではなく、孤独であっても、遠くにいるライバルや友達を意識しながら生き続けているような人間。今の時代、さまざまな領域に「超人」がいると私は思います。

    頭を鍛えるということは、知識を得ることでもあり、思考のスピードを上げることでもあり、同時にメンタルや身体的なタフさともつながっている。それが新しい時代の「頭の強さ」ではないだろうか。それがこの本で言いたかったことです。

    『いつも余裕で結果を出す人の複線思考術』のなかで、私は人間の思片が自己と他者、主観と客観、部分と全体、直感と論理のように相反するもののあいだを行き来するものだと指摘しました。

    二五〇〇年も前に書かれた古典を愛し、それを訳すことに大きな意義を見いだすような人間でもありますが、同時にAIという新しい波に対しても興味をもち、それがどんなふうに変わっていき、どう人類に役立つのだろうかとワクワクしながら見ているのです。
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    投稿日:2023.09.17

  • rafmon

    rafmon

    初めてChatGPTがテーマに取り上げられた本を読むことになった。しかし、斎藤孝氏は、あまり使いこなせてなさそうだ。本著は、いよいよAI時代が到来するが、反射的に忌避感を感じるのではなく、上手く共存していこうと主張する。

    その語り口で用いるキーワードが「頭の強さ」だ。頭が弱いとは言うが、頭が強いというのは一般的にあまり言わない。対義語であるならば、先ずは弱い方の意味を考えてみるが、これは、頭が悪いを言い換えただけで、大きな違いはない。少なくとも、日常会話では、然程意味のある違いはなさそうだ。だから、強さについても「頭の良さ」と本質的には大きな差は無いのでは。

    しかし、著者は「頭の強さ」に対して様々な例題を示して解説する。単に「良さ」ではない。記憶力や計算力などの頭の良さは、もはやAIには及ばない。「強さ」とは精神的タフネスと不可分、本質を見抜く力。ん??である。更に極め付けは、ChatGPTに「頭の強さ」の定義を質問するのだが、回答が的を射ない。

    この本が残念なのは、そんなどうでも良い、頭の良さ、強さの言葉の定義の解説に躍起になり、殆ど思考が前に進まないダラダラした意味無しテイストである事だ。それこそ、定義など言語生成AIに任せるか、人間関係の相対感覚で規定すれば良いでは無いか。
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    投稿日:2023.08.25

  • mikkun

    mikkun

    現代における思考法がまとめられた一冊。時代の変化とともに思考の整理をすることも必要だとは感じるものの、全体的にはやや表層的というか簡潔すぎるというか若干物足りなさを感じた。

    投稿日:2023.07.24

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