【感想】眠れないほどおもしろい信長公記

板野博行 / 王様文庫
(1件のレビュー)

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  • yasz

    yasz

    年度末の大掃除で部屋の隅っこから発掘された本です、記録によれば昨年(2023)のん5月末に読み終えたことになっています。最近では歴史研究も進んで、私が高校などで習った時とは異なる事実が明らかになってきています。定期的にこのような本を読んで、本来の信長像を自分なりに書き直してみたいと思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・守護代とは、在京が義務付けられていた守護に代わって、現地の支配にあたる役職(p24)

    ・戦国時代に花開いた「衆道」とは、主君と小姓(武将のそばに仕えた者)の間での男色の契りの事、肉体的関係よりも精神的な結びつきが重視された、小姓を持たねば一人前の武士とは言えないとまで考えられていた。信長の小姓であった利家は長槍を持って「傾きもの」と呼ばれたド派手な異様な格好をして信長と歩いていたのでから目立った(p26)

    ・斎藤道三は義龍に家督を譲るがl、裏では実子に家督を相続させるために画作していた、それを察知した義龍は異母弟二人を殺害した、斎藤道三と義龍は戦いとなったが、多くは義龍についてしまい(17,000 vs 2000)道三は敗れた(p41)

    ・信行が信長の領地を奪ったことで戦いが始まった、柴田勝家・林美作守の合計1700が出兵、信長は700に満たなかった、この「稲生の戦い」は、信長の生涯でも九死に一生を得た危険な戦いであった(p46)この後に、守護代織田家が本城とした清洲城に那古野城から移った(p47)

    ・織田方に寝返っていた、松平広忠(家康の父)の舅である戸田泰光は、竹千代(家康)を、永楽銭3000貫(現在の貨幣価値で約3億円)で織田信秀に売った(p50)その後に、織田家と今川家で人質交換(織田信弘と竹千代)が行われた(p51)

    ・桶狭間の戦いで元康(家康)は岡崎城に戻ってみると、それまで陣取っていた今川勢が退散していたので、岡崎入城に踏み切った、ここに十数年間に及ぶ元康の人質生活は終わった(p67)

    ・信長は義龍亡き後に家督を継いでいた龍興の前に何度も敗れていた、本拠地を清洲から美濃に近い小牧山城に移して、対斎藤戦に向けて望んだ。木下藤吉郎が墨俣に一夜城を作ったことで、織田軍は勝利し、ついに未農場を手に入れた(p71)

    ・足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、その報奨として、近江の大津・草津、摂津(大阪北中部、兵庫南東部)の堺を直轄地とする許可を得た(p80)本圀寺の変の折、堺の商人達が信長と足利義昭を裏切って三好三人衆を援助したことを知って怒った信長は、矢銭と呼ばれる臨時軍事用金を2万貫要求した、当時1貫あれば300キロのお米が購入できたので、現在のお金にすると、20億円となる(p81)

    ・1573年に15代将軍足利義昭が京から追放されたことで、室町幕府は事実上滅亡した、足利尊氏が創始してから約240年間弱の命脈だった。1467年に始まった応仁の乱以降、弱体していたが、トドメを指したのは信長である(p100)

    ・一向宗とは、正式には浄土真宗のこと、一向(ひたすら)に南無阿弥陀仏を唱え続けたことから一向宗と呼ばれるようになった、鎌倉時代の初期の親鸞が、師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、荒に弟子たちによって教団として発展した(p119)

    ・中せは3つの権門(公家=朝廷、寺家=寺社、武家)が補完しあって並び立っていた権門体制の時代であった、信長が天下と考えていたのは、5期内(山城、大和、河内、和泉、摂津)の可能性が高い(p133)

    ・足利義昭は毛利氏の庇護のもと幕府の再興を図り、備後の鞆(福山市)に亡命政権とも言える幕府を開いた、本能寺の変の後も「関白秀吉・将軍義昭」という期間が2年以上も続いた。京を追われて14年後の1587年、義昭は京に帰還し秀吉とともに参内して、将軍職を朝廷に帰し、名実共に室町幕府は滅亡した(p102)

    ・中せは3つの権門(公家=朝廷、寺家=寺社、武家)が補完しあって並び立っていた権門体制の時代であった、信長が天下と考えていたのは、5期内(山城、大和、河内、和泉、摂津)の可能性が高い(p133)よう

    ・信長は、寺社に対して武力で勝つのではなく、寺家の経済的な基盤を失わせていく手段をとった、領内の関所を全て廃止した、本音では公家や寺家、土着領主など旧勢力の財政基盤となっていた、従って関所廃止により、旧勢力は大きな打撃を受けた(p158)

    ・内陸国の震源の国は国内では塩や魚介類が自給できないので、同盟を結んでいた今川氏の領国である駿河から調達していた、ところが信玄が「甲相駿三国同盟」を一方的に破って今川氏の領国へ進出したので、これに怒った氏真が塩を送ることを禁止した、これを知った謙信が塩を送った、これが「敵に塩を送る」という伝説(p175)

    2023年5月30日読了
    2024年4月9日作成
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    投稿日:2024.04.10

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