【感想】壁とともに生きる わたしと「安部公房」

ヤマザキマリ / NHK出版新書
(15件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • えりんちょ

    えりんちょ

    ヤマザキマリさんに興味を持ち、「国境のない生き方」「仕事にしばられない生き方」を読みつつ安部公房の「砂の女」を読んだ。その後に読んだこの本は、安部公房が表現する自由の壁、世間の壁、革命の壁、生存の壁、他人の壁、国家の壁を解説してくれる。この本のおかげで安部公房文学の神髄に触れることができたから、ヤマザキさんの分析力たるや、凄いものを感じる。続きを読む

    投稿日:2024.03.11

  • Chanrisa

    Chanrisa

    このレビューはネタバレを含みます

    人間の負の側面、社会の負の側面に、きちんと目を向けられているのか。
    これを知っている人と、知らないでいる人とでは、思考や選択のベクトルが全く変わってくるのではないかと思う。
    ヤマザキさんの人間・社会を見る目は鋭いな、と思うがフィレンツェでの極貧期に安部公房に出会いどっぷりと浸かったことが、表層的なことだけでなくその裏にあることに思考を巡らせることに繋がったのではないかと思う。
    現実を生きる力をくれる文学が好きだ。
    私自身は青春期には安部公房には出会わなかったのだけれど、人間の弱さや社会の厳しさを突き付けてくる文学に出会い、自分を省みることができた。青春期の良き文学との出会いは大切だなと思った。

    レビューの続きを読む

    投稿日:2024.02.04

  • Kazunabe

    Kazunabe

    生きていく上での壁をテーマに、安部公房作品を通して、ヤマザキマリさんの経験を加味して、作品の解説本。パンデミックで生きづらさが表面化されてきて、この本読んで頭の中がすこし整理できた部分があった。安部公房作品読んでみたくなりました。続きを読む

    投稿日:2023.10.18

  • nico

    nico

    高校の時、友人からすすめられて積読してしまった『砂の女』
    世界的にも評価されているし、1度はしっかり読んどきたいと思い、購入して読んだ。

    読んでみてこの感覚私にもあると。
    田舎にいた高校時代、良くも悪くもみんな知り合い、悪いことや奇抜なことは出来ません的な思いを抱いていた。

    それが嫌で、大学から家を出て、今に至る。が、果たしてそれから逃れられたのか?は怪しい。

    仕事、人の親、自治会員、常識、世間体、色んな正しいと言われていることに囲まれている自分。

    読んだことはないが、ドストエフスキーも壁から逃れても、また壁があり、そこからのがれることは出来ないとな。
    なるほど。

    では、どうすれば?

    そんなことを深掘りした読んでみた。

    今の考えは、自分で考えることを手放さない、ということかな。

    人がいう正しいを、自分はどう思うか、表明しないまでも、考えようと、抗おうと思う。
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    投稿日:2023.10.06

  • とんと

    とんと

     イタリアで出会った『砂の女』から、
    安部さんにぞっこんになったマリさんの6つの「壁」をテーマとした思索本です。

     自由・世間・革命・生存・他人・国家を切り口に、
    不条理なこの社会をしたたかに生きる気づきをもらえます。

     安部公房の人生概観もできました。
    続きを読む

    投稿日:2023.08.28

  • ぱとり

    ぱとり

    『ただ、時々こういった人間社会を俯瞰で考察した寓話や小説を読んで、現実の正体を確認しておくことも必要だと思っている。政府やメディアの報道や宣伝を鵜呑みにしてしまうような脳にならないようにするためにも、こういう作品を読んで我々が生きる社会に対する猜疑心を機能させておいたほうが、よほど自分を救うことになる』―『第三章 「革命」の壁―『飢餓同盟』』

    日本放送協会の「100分de名著」で「砂の女」を取り上げていたのを見て、何故ヤマザキマリなのかと思ったけれど、この一冊を読んで得心した。ここには如何に彼女が安部公房を読み込んできたかが縷々綴られている。そしてその読みも確かなものだと思う。その読みは、研究者が作品を細分して顕微鏡で観察するような読みではないし、批評家が行うある意味俯瞰した立場からの洞察のようなものでもない。そんな風に作品を観察対象として少し離れた対象物として観るのではなく、ヤマザキマリは作品と共に生きてきたという読みを披露するのだ。それは切実で、そして現実的(実存的)な読みでもある。

    自分もたいがい天邪鬼なので、ヤマザキマリが今の時代こそ多くの人が安部公房を読んだ方がいいと推してくる意図は共感できるような気もする。確かに安部公房の本は読者が勝手に想像するような物語を提供しない。そこに予定調和のようなものはないのだ。言ってみれば「その後のシンデレラ」のような話ばかり。現実なんてこんなものだ、と否が応でも見せつける。そのことの意味をこの作家の生い立ちや思想遍歴に照らし合わせて読み取ってみせるのは、著者独自の解釈という訳でもないが、作品の寓話性も含めて分かり易く解説している(つまりはそこに物語性を導入することに成功している)。しかし、既に著者も気付いているように、この作家の非予定調和には最終目的地がある訳ではない。「こうだ」と思ったものに辿り着いた瞬間からその場所が曖昧になる、「これこそが正義だ」と思った思想が社会に流布した瞬間からそれが悪夢となる、という構図をこの作家が繰り返し描いているのと同様に、作家自身が自分らしさというものを見出し得ない(作品から安部公房とはこういう人だと読み解いた途端に俺はそんなものではないと反証して見せるように自己否定を繰り返す)というホムンクルスの無限退行する構図に捉えられてしまっている以上、ヤマザキマリの読み取った安部公房もまた内部からじわじわと崩壊する定めにある。そんな風に作家を突き放してしまうと批評家的な読みに傾いてしまうけれど、作家自身が作品の内在する矛盾の構図の中に棲むからと言って作品が訴えかけることの意味や真実味が毀損される訳ではない、ということがヤマザキマリの主張なのだろう。それは確かにそうだと思う。

    著者に倣って自分自身の記憶を振り返って見ると、安部公房との出会いは十代前半の頃に読んだ「鉛の卵」。親の所有する本の中に収められていた一篇だ。それは日本放送協会が少年ドラマシリーズで「「タイムトラベラー(時をかける少女)」や「つぶやき岩の秘密」(何故かこの時の主題歌の一節が未だに脳内再生されることがある。歌は石川セリ)などを映像化していた頃で、無知な自分は、筒井康隆は小松左京(その頃「日本沈没」が大流行)と同様の空想科学小説家だと思っていたし、「つぶやき岩の秘密」の新田次郎も同じ分類の作家だと思っていたので、「R62号の発明」「鉛の卵」の作家安部公房も彼らと一緒くたに考えていた。ただ、安部公房の「鉛の卵」は、どこか星新一に似ているようで、それでいてもっとひんやりとした感じのする小説だと思ったというぼんやりとした記憶がある。それらの本や眉村卓の「ねらわれた学園」、光瀬龍の「夕ばえ作戦」などのジュブナイルSF小説と呼ばれる単行本を町の本屋を巡って買い求めた頃の話だが、その頃に読んだ安部公房の文庫本の幾つか(今思えば、少しばかり読むのが早過ぎたのかも知れない)の印象は「鉛の卵」程良くはなかった。それらの本は既に散逸してしまったけれど、何故か今でも「榎本武揚」(函に大江健三郎の推薦文あり)と「砂の女」(ヤマザキマリが言及しているように、函に武田泰淳と三島由紀夫の推薦文あり)は書棚にある。

    『そんなアナーキーなたくましさと、いっそ馬賊になってやろうとか、風呂場でサイダーを作って売るようなサバイバル能力も、私にとって安部公房という人物の魅力である。私は生きるスタイルに囚われない傍若無人で気骨のある人に強いシンパシーを覚える。(中略)私はたとえば村上春樹の小説のように、小洒落た固有名詞が頻繁に用いられ、みっともなさや情けなさですらスタイリッシュに回収されていくような文学が苦手だ。人間を特別視しているような文字の羅列に、浮薄で脆弱なものを感じてしまう』―『第一章 「自由」の『砂の女』』

    ヤマザキマリの言いたいことは理解できるようにも思うけれど、表現者(そしてそれは人間の逃れようとしても逃れられない業)として、著者が否定的に捉えている「承認欲求」あるいは「自己肯定感の希求」に根差しているものである点で、安部公房も村上春樹も同根で有るとも自分は思う。敢えて言うなら安部公房の作品の方がむしろどこか捻じれた自己肯定感のような粘度を感じさえするのは、自分だけだろうか。更に言うなら、自分は村上春樹の熱心な読者ではないが、この稀有な作家のやっていることもまた、人間の心の内に巣食う薄暗い感情(あるいは怪物)を暗い穴の底を覗き込むようにして暴いている行為であって、ヤマザキマリが描写する安部公房の仕事と似た動機をそこには感じる。また承認欲求という文脈で言うなら、ヤマザキマリが安部公房の読みを通してやっていることもまた、一つの「自己肯定感」を求めての行為であることもまた否定できないのではないかとも思う(それが全てではないにせよ。ただ、そういう読みをその行為から読み取れと安部公房なら暗に言いそうな行為である)。決して本書を否定しているつもりははないのだが、安部公房を読み解くことによってついついそんなことを考えてしまうことに思考が傾倒していくようになる。つまり、安部公房を読み解くとは、腐敗していく自分自身の五臓六腑を腑分けしていくような作業なのだ。

    本書は安部公房の伝記ではないし(伝記なら山口果林のことも書いて欲しいと思ったり)、作品論を語る本でもない(著者の作家に対する熱が強すぎるので作家を語っているのか作品を語っているのか判らなくなったり)けれど、この本を切っ掛けに安部公房を読む人や、自分の頭で考えることを志向する人を生み出す切っ掛けを与える力のある本であることは間違いない。
    続きを読む

    投稿日:2023.05.24

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