【感想】親鸞と道元(新潮新書)

平岡聡 / 新潮新書
(4件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • 芥川直木

    芥川直木

    家が曹洞宗なので、開祖道元のことを知りたくて読みました。はなしが横道それますが、読後永平寺にも行ってみたくなりました。

    投稿日:2023.10.26

  • Go Extreme

    Go Extreme

    序章 生涯と思想
    親鸞の生涯/『教行信証』にみる親鸞の思想/如来より賜りたる信心/道元の生涯/身心脱落:仏道修行の出発点/只管打坐/正伝の仏法:正統性の強調
    第一章 機と法
    「法」の意味/「機」の意味/否定的な人間観/最低最悪の自己と無我/末法観の相違/法を機に近づける/機を法に近づける
    第二章 出家と在家
    仏教における出家と在家/「非僧非俗」の意味するところ/出家至上主義/仲間(同朋)とともに/出家者と在家者の高い壁/仏教における戒律の位置づけ/無戒の親鸞/持戒の道元/菩薩としての親鸞と道元
    第三章 師匠と弟子
    仏教における師資相承(血脈・法脈)/法然と親鸞/如浄と道元/親鸞と唯円/道元と懐奘/「自力の念仏に陥ってはならない」──『歎異抄』より/「善悪は縁にしたがっておこる」──道元の人間観
    第四章 救いと悟り
    如来蔵(仏性)思想とは何か/本覚思想と仏教の世俗化/此岸と彼岸の距離感/真実の信心とは/救いの先取り/「修行と悟りは一体である」──修証一等/行持:修行の継続性/絶えざる修行
    第五章 特殊と普遍
    末法観の変遷:道綽から法然へ/親鸞の末法観/真実の教えとしての浄土教/ブッダ出世の本懐とは/存在と時間/而今:永遠の今/而今の山水:時間と空間/特殊から普遍へ/親鸞と道元における普遍化の背景
    第六章 改読と転釈
    聖典解釈の歴史/親鸞の改読:阿弥陀仏の絶対肯定/親鸞の改読:人間存在の絶対否定/親鸞の転釈/道元の改読/道元の転釈/改読と転釈の根拠:宗教経験の重要性
    終章 自力と他力──宗教の本質を問う
    ブッダの仏教は自力の教えか/宗教とは何か/道元仏教の他力性/吾我の否定と無我/自力と他力
    おわりに
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    投稿日:2022.05.16

  • DJ Charlie

    DJ Charlie

    「寺」というモノが多々在る。それらは各宗派の流れを汲んでいるのだが、数在る宗派の寺の中、親鸞を祖とする浄土真宗が最も多く、次いで道元を祖とする曹洞宗が多いのだそうだ。その親鸞が、そして道元が説こうとしたことに着目して「日本の仏教が目指した境地?」を考えてみようとしているのが本書であると思う。
    『親鸞と道元』という題名だが、「対照的な両者」を内包する日本の仏教を考えるということで筆者が着想を得て、そして登場したという題であるようだ。
    「救い」を求め、「念仏」を専らとし、「布教」に力を注ぐこととなったのが親鸞の浄土真宗だ。
    「悟り」を求め、「座禅」を専らとし、「求道」を説き続けることとなったのが道元の曹洞宗だ。
    「念仏」と「座禅」とということではは、「他力」で救いをもとめるのか、「自力」で悟りに至ろうとするのかというような、「対極的」な在り方のように思える。「本当に??」というような疑問や、「何故、こういう一見して“対極”なモノがとりあえず“同じ仏教”に内包?」というようなことが本書の出発点だと思った。
    或いは「筆者御自身の深い考察の経過」を直接的に反映したような叙述なのかもしれない本書である。進んだ方角が違う仏教の担い手達であったが、実は或る時点で回り逢っているのかもしれない。そんなことが示唆されている。
    正直「宗教」とでも聞けば「何やら変??」と思わないでもない。所謂“カルト”の存在が在って、その妙な影響で、そういう程度に考えてしまうような面は在ると思う。が、或る時期に何処かの方が唱えた哲学のような問題意識が何世代にも亘って受継がれ、何世代目かの傑出した誰かが導いた「解答案」が更に後代へ引き継がれるというのが「宗教」というモノの実相なのかもしれない。
    「念仏」と「座禅」ということになれば、「他力」と「自力」という「対極?」に視えるのかもしれない。が、これも“仏教”と呼ばれるモノが現れ、色々な人達が各々に考えて「至った解答案」の幾つかの例である訳だ。
    なかなかに興味深く、そして愉しく読了した一冊で、広く御薦めしたい。
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    投稿日:2022.03.31

  • コナン.O.

    コナン.O.

    平岡聡(1960年~)氏は、佛教大学文学部卒、同大学大学院文学研究科博士課程満期退学、博士(文学)、京都文教大学学長を経て、京都文教大学教授。
    本書は、書名の通り、浄土真宗宗祖の親鸞と曹洞宗宗祖の道元を比較しつつ論じたものである。
    日本の仏教には、平安時代に誕生した天台宗と真言宗に加え、鎌倉時代に起源を持つ、浄土系の浄土宗、浄土真宗、時宗、禅系の臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、そして日蓮宗と、多彩な宗派があるが、その中でも寺院数が多いのは、浄土真宗の約2万2千と曹洞宗の1万5千で、群を抜いている。また、それぞれの宗祖である親鸞と道元には、明治以降の著名な文化人が評価した(親鸞は倉田百三、吉川英治、亀井勝一郎、三木清など/道元は和辻哲郎、田辺元など)という共通した特徴があり、それらも手伝って、両宗祖は鎌倉仏教の祖師の中でも特に人気があるという。
    一方で、一般に(私も含め)、「親鸞仏教は他力、道元仏教は自力」と思われていることをはじめ、数々の対照的な点があり、本書では、それらを以下のような章立てで比較しつつ、最終的に、仏教としての共通点を探っていく。
    序章:生涯と思想 第1章:機と法 第2章:出家と在家 第3章:師匠と弟子 第4章:救いと悟り 第5章:特殊と普遍 第6章:改読と転釈 終章:自力と他力~宗教の本質を問う
    私は、仏教に対して特別の知識や関心があるわけではないものの、この二人については知っておきたいと思い、しばらく前に、梅原猛の『親鸞の告白』、栗田勇の『道元の読み方』等を読んだが、正直なところ消化不良に終わっており、今般書店で、二人を比較しつつ論じた本書を目にして購入した。
    通読してみて、やはり「教え」について書かれた部分(第4章など)は難しく感じられたものの、二人を比べることで、双方の思想が浮き彫りになり、これまでよりは理解が進んだように思う。
    本書から、親鸞仏教と道元仏教のエッセンスを引用するなら、以下のようなものである。
    「大乗仏教は万人の成仏を認める平等思想に立つ。では、この成仏をいかに実現するか。親鸞は絶対他力の立場から、阿弥陀仏にたいする信を強調し、その信も自力で獲得するのではなく、「如来より賜りたる信心」に成仏の根拠をみいだした。一方、道元は「衆生は本来、仏なり」から出発し、衆生は本来、仏であるからこそ無我に立脚して修行(只管打座)しなければならず、その修行を継続(行持)するところに真理の現成(成仏)をみた。つまり、親鸞仏教が「他力を基盤にした他力」なら、道元仏教は「他力を基盤にした自力」だ。道元仏教には修行の継続という点で「自力的要素」はたしかに存在するが、その場合の自力も「吾我の自力」ではなく「無我の自力」(それはもはや「自力」とは呼ばないのかもしれないが)ということになる。だから親鸞と道元の仏教を、従来のように「他力vs自力」と紋切型で特徴づけるのは、厳密には正しくない。」
    鎌倉仏教の中で双璧の人気を誇る祖師、親鸞と道元を比較しつつ、仏教の本質を探った良書といえる。
    (2022年3月了)
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    投稿日:2022.03.01

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