【感想】細野晴臣と彼らの時代

門間雄介 / 文春e-book
(13件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • MY

    MY

    名前良く存じ上げていたが、この本でこの方についての全貌がわかった。才能の人物であり、その才能更に他の才能とのシナジーを生む。決して現状に満足する事なく常に新境地を切り開く。「風を集めて」は私も大好きな曲。真摯なる本物の音楽には国境などない。まさにそれがグローバル。続きを読む

    投稿日:2024.03.27

  • makota2026

    makota2026

    細野さんの歴史、労作。YMOの二人が先に亡くなったのは、言葉にできない悲しみ、なんだろうな。
    はっぴいえんど→ティンパンアレイ→トロピカル3部作→YMO、ここからずっと好き。これからも。長生きしてほしい。
    坂本龍一との、ラブアンドヘイト、最後は理解して、幸せ。
    ギャグ好き。忘れる強み。次に行く人。
    似てる、と勝手に親近感。
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    投稿日:2024.02.22

  • kohamatk

    kohamatk

    あとがきでも書かれている通り、細野を題材にした本はすでにいくつかあるが、生涯を通した活動歴をまとめたものとしては渾身の内容。特に、各バンドの結成に至るまでの経緯を興味深く読んだ。それだけに、大滝への取材ができなかったことを残念に思う。

    細野晴臣は1947年に東京白金台で生まれた。中学2年の時に始めてバンドを組み、高校時代には複数のバンドを結成した。立教大学では、ドクターズに誘われてベーシストとして加わった。1968年には大滝、松本、高橋と立て続けに出会うことになる。

    大滝詠一は1948年に岩手県江差郡で生まれた。ビートルズの影響を受けて高校2年でバンドを組み、ドラムを担当した。大学受験に失敗して上京し、友人の先輩に紹介された中田佳彦から細野を紹介され、毎週日曜日に3人でお茶飲み会を称してレコードを聴いて曲を分析したり、自作の曲を発表したりするようになった。

    松本隆は1949年に生まれ、南青山で育った。高校時代にバーンズを組み、ドラムを叩いていた。大学に進学する頃にベースが抜けたため、新しいベーシストとして細野を引き入れた。

    鈴木茂は1951年に生まれ、世田谷区で育った。中学2年の時に兄が買ってきたエレキギターを弾き始め、近所の友人たちとバンドを組んだ。林立夫は1951年に生まれ、港区で育った。兄の影響を受けて12歳でドラムを叩き始めた。2人は高校生の時に、別々のバンドのメンバーとして、ドクターズが主催したイベントPEEPに参加し、その審査員だった細野に見出された。1968年夏からは、鈴木、林と3人でグループを組み、様々なボーカリストを迎えてダンスパーティに出演するようになった。

    細野は、1968年の大晦日に開催されたセッション・パーティに参加した時、小坂のバンドに勧誘された。小坂忠は1948年に生まれ、高校時代に組んだバンドではボーカルとギターを担当した。大学1年の時に、ミュージカラー・レコードが開催したオーディションに参加して合格し、ザ・フローラルとしてレコードデビューした。しかし、バンドの方向性をめぐってベースとドラムが抜けたため、新しいメンバーを探すためにセッション・パーティにやってきた。細野はアルバムのレコーディングができることに魅力を感じて誘いに応じ、松本を誘った。バンド名はエイプリル・フールとして、大部分をオリジナルの英語詞の曲でレコーディングした。その後はディスコを中心に活動したが、八丈島入浴事件が決定打となって、1969年10月に解散した。

    細野と松本がバッファロー・スプリング・フィールドを理想としたバンドを構想していた時に、大滝から「バッファローがわかった」と電話があった。10月に3人で行った福島への旅行で、日本語の詞でオリジナル曲を作るという方向性を共有した。この旅を題材にして、後に「抱きしめたい」や「1969年のドラッグレース」を書いている。その後、演奏力をカバーするために鈴木を招いてヴァレンタイン・ブルーが結成され、1970年のレコーディング直前に「はっぴいえんど」に改名された。

    松任谷正隆は1951年に杉並区で生まれた。大学生だった1971年にコンテストに出場したところ、審査員だった加藤和彦にレコーディングに呼ばれた。その時に出会った林に誘われて小坂のバックバンド「フォージョーハーフ」に参加したが、小坂が目指す音楽とは隔たりを感じていた。「はっぴいえんど」の解散を無念に感じていた鈴木は、林と新しいバンドの構想を話し合い、細野と松任谷を招いて、1973年にキャラメル・ママを結成した。キャラメル・ママは、細野の「Hosono House」、吉田美奈子「扉の冬」、荒井由実「ひこうき雲」(細野は「OLIVE」まで、鈴木と林は1980年代半ばまで)、雪村いずみ「Super Generation」、小坂の「HORO」などで演奏や編曲を担った。後の1998年「ノイエ・ムジーク」の新曲2曲では4人が顔を合わせている。

    鈴木顕子は1955年に青森県で生まれた。青山学院高等部の頃からジャズ喫茶などで演奏した。1974年のザリバのレコーディングにキャラメル・ママが参加し、さらにキャラメル・ママと行ったセルフレコーディング曲は、後の「Japanese Girl」「いろはにこんぺいとう」などに収録された。顕子は「泰安洋行」の演奏にも参加した。

    坂本龍一は1952年に中野区で生まれた。高校時代にジョン・ケージなどのミニマル・ミュージックを聴くようになり、東京芸大では民族音楽を学んだり、電子音楽の作曲法を分析した。新宿のバーでたまたま出会った友部正人のツアーに同行するようになり、そのステージを見たティン・パン・アレーのマネージャーに福生に連れていかれて、「ナイアガラ・トライアングルVol.1」や大貫妙子「Grey Skies」などのレコーディングに参加したり、ティン・パン・アレーと共演したりするようになった。

    高橋幸宏は1952年に生まれ、目黒区で育った。小学5年生の時にプレゼントされたドラムを熱心に練習し、高校生の時に同級生たちとブッダズ・ナルシーシーを組んだ。慶応大学に通う兄が主催するイベントに誘われて参加した時に、バーンズとして参加していた細野に声をかけられている。1972年に加藤和彦に誘われてサディスティック・ミカ・バンドに加入したが、その解散後に高中正義や後藤次利と結成したサディスティックスは、フュージョンの色味を増していったため、気が向かなくなっていた。

    細野は「イエロー・マジック・カーニバル」を新たなアレンジでレコーディングする構想を持ち、林と新しいバンド方向性を探ったが、最終的に林からは断られた。1977年、アルファ・ミュージックの発足を記念するレセプションで、細野はエキゾチック・サウンドとディスコ・ミュージックを掛け合わせて「イエロー・マジック・オーケストラ」をやると宣言した。細野は「はらいそ」のレコーディングに高橋と坂本を呼び、2人をバンドに勧誘した。

    1996年、松任谷由実が荒井由実時代の楽曲だけを演奏するライブを当時のメンバーと開催したのを機に、林が音楽活動を再開し、2000年には細野と鈴木とティン・パンを結成して、アルバム「ティン・パン」をリリースした。

    2001年には、細野が高橋のアルバムをプロデュースする提案から2人の作品に発展し、スケッチ・ショウとして「オーディオ・スポンジ」を発表した。このアルバムには、坂本も2曲を提供した。セカンドアルバム「ループホール」では、2曲で坂本と共作し、このレコーディングの後、YMOを再結成した。
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    投稿日:2022.09.09

  • kumakuma4

    kumakuma4

    細野氏がお元気なうちに出版して下さって良かったです。色々な作品の裏側が垣間見れてワクワクしました。まだまだ拝聴していない作品が沢山あるので楽しみです、もちろん新作も。

    投稿日:2021.09.21

  • poron330

    poron330

    実に面白いエピソード満載の本。
    細野さんが1968年に大瀧詠一と初めて会った時、7人の侍の剣豪オーディションみたいな感じになった話。松本隆はそれまでストラヴィンスキーやマーラーとかしか聞いていなかったのに、中二で英語教師がビートルズの抱きしめたいを聞かされ、世界がひっくり返った話。
    1950年代細野がクリスマスに知り合いの米兵の家庭に招かれ、見たこともないおもちゃで溢れるなか、ミニチュアクレーンで夢中に遊んでいた。帰りにクリスマスプレゼントだとそのクレーンをもらった。嫌がって泣きじゃくる子供に、米兵は日本人は貧しいのだからときつく子供に諭していた姿が細野の頭に焼き付いているという。小さい頃うちの近所にも米軍住宅があり、青々とした広大な芝生に真っ白な広い家とピカピカのアメ車があった。そういう時代を知っている世代のアメリカに対する思いは、現代の若い世代には全く理解できないだろう。
    西表島のバスでかかっていた「ハイサイおじさん」を久保田麻琴がすごい音楽を聴いたと那覇のレコード店でレコードを買い占め土産として細野らに配った。
    坂本龍一との出会い。坂本は小学生の時ビートルズのアルバムを全て買い、ドビュッシーと同じ響きをビートルズに見いだし興奮したという。さすが教授は特別な人だ。しかし高橋幸宏にファッションコーディネートをしてもらう。1976年横浜同發新館での中華街ライブではトロピカル細野で坂本も出演。
    デビュー時から好きだった越美晴、戸川純の他、シーナ、サンディ、小川美潮らLPを聞きまくっていた人達も次々と出てくる。忌野清志郎との活動、細野さんは声が渋いのでちゃんとした大人かと思っていたが、あの人は全くの子供。
    矢野顕子。細野さんの曲はデビュー前から歌っているが、全く飽きない。私は世界で一番細野さんの歌を歌っている歌手だ。
    高橋幸宏。16歳で知り合ってから、細野さん以上の日本の音楽家はいないと当時からずっと思ってます。
    ジャパニーズロックは細野さんがいなかったら寒々しいものになっていただろうなぁ。
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    投稿日:2021.08.16

  • youkeypp

    youkeypp

    このレビューはネタバレを含みます

     正しく「彼らの時代」。その部分が、この本の大きな魅力。
     日本の軽音楽史である。
     「風をあつめて」が、ワールドミュージックになっている時代なんて、80年代には思うべくもなかったな。

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    投稿日:2021.07.21

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