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菊地浩之 / 角川選書 (2件のレビュー)
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nonnon04
本能寺の変でずっと不思議に思っていたのは、明智の兵士たちはなぜ主君織田信長を襲うことを躊躇わなかったのだろうかということ。一つの答えとして、明智の家臣団は他の柴田や羽柴らの軍団と比べて異質なのは、信長…と長くつながりのある尾張衆が皆無であり信長の目付の存在もなく、信長へのクーデターを成功させるには恵まれた軍団構成だったこと、 また明智軍団の中で斎藤利三が格別の存在であり本能寺の変決行の意思決定に大きく関与しているようにみえることも不思議だったが、明智の軍団が他の軍団と異質なのこととして重臣の構成があり、多くが光秀が抜擢して明智姓を与えたものであるがただ一人斎藤利三のみが光秀と同格の信長の与力であったこと。 光秀は盟友細川藤孝に宛てたものだとおもわれる書簡で、近国が安定したら嫡男の光慶、娘婿の細川忠興に譲り自分は引退すると記している。光秀は1年前明智軍の軍法を定め自身が引退した後も運営できるようにして嫡男への家督相続を企図しようとしていたとも考えられる。この時光秀は年齢は54歳、56歳、66歳の各説があるがいずれにしても家督の承継は光秀にとって喫緊の問題であった。しかし嫡男光慶はまだ12歳。放浪の末光秀は信長の元で戦国大名に比する領国と万を超える軍団を手に入れ、それを明智家で継承することに執着したが、それらは所詮信長が優秀な光秀に属人的に託したものであり光秀が引退すれば取り上げられてしまうものであることに光秀は追い詰められていったのではないか。嫡男光慶は信忠の小姓にでもされ、明智軍団は解体され、光秀と苦楽を共にした重臣たちは路頭に迷うことになるのではないかと。 光秀は亡くなった兵士をその身分の軽重に関係なく弔っていたという。明智軍記には本能寺の変の際、光秀が兵士たちに、万一討ち死しても兄弟や子どもを取り立てること、それらがいない者も親類縁者を探し出す取り立てることを約束したという。 司馬遼太郎は、光秀は戦国期武田信玄に比する民政家であったと記している。光秀は自分の領国を手塩にかけるように整備したという。しかし同時にそんな光秀に対し、信長は、自分が一時的に託しただけであるのに光秀があたかも自分の領地であるかのような振る舞いをすることを不快に思っていたという。 本能寺の変は、織田信長から明智家の独立を図った戦いではなかったのではないだろうか。 そんなことがこの本から読み取れました。続きを読む
投稿日:2020.09.13
nono
このレビューはネタバレを含みます
先日読み終えた「織田家臣団の系図」と同じ著者。 信長は家臣を実力で抜擢したと言われているが、実は地縁がポイントだった。 そこに本書は父信秀以来の尾張の状況から書き起こしている。 信長というと信秀亡き後の道三との会見や桶狭間辺りから描かれることが多いが、実は尾張統一に結構な苦労をしている。その頃から本能寺で斃れるまでの主力家臣ごとに来歴や役割や、その後などを紹介している。 興味深かったのは桶狭間の戦いに関する家康の役割とか、長篠の戦いでの鉄砲の役割、本能寺の変での光秀の立場に関する著者の推測。なるほどなあと納得した。 この辺、ドラマ化したり小説に取り入れる作家が出て来たら面白い。
投稿日:2020.02.24
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