【感想】サロメ

ワイルド, 平野啓一郎 / 光文社古典新訳文庫
(23件のレビュー)

総合評価:

平均 3.9
5
8
8
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ブクログレビュー

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  • 鴨田

    鴨田

    オスカー・ワイルド作、平野啓一郎訳
    ワイルドはアイルランド人なのに、原作はフランス語とのこと。

    筋書きは知っていたつもりだけど、元々持っていたイメージとはだいぶ異なる印象。とてもわがままな王女が無茶苦茶をする話であることは同じなのだが、少女の超ツンデレぶりが逆に清々しいくらいだ。サロメが、ヨカナーン(ヨハネ)の白い肌、黒い髪、赤い唇を順に褒めたり貶したりする様は、滑稽でもあり、切なくもあり、ストーカーが死を以て相手を独占しようとする様とも重なる。どうしてもキスしたいから首を斬る、と言う発想はぶっ飛んでいるが、紀元前からずっと語り継がれてきたお話である以上は、ある程度は普遍性のある感情なのだろう。
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    投稿日:2024.05.21

  • G. S.

    G. S.

    なぜ『サロメ』を平野啓一郎が?その狙いは?という答えは本人によるあとがきと宮本亜門が寄せた文章でしっかりと明らかに。そういうところから、この「古典新訳」シリーズ自体の意義や面白さについても考えさせられる。

    ファムファタール的イメージに支配されない、無垢な乙女であるサロメ像が、奇を衒わない堅実な訳文から確かに浮かび上がっているように思う。その試みから、ワイルド→三島→平野の文学の系譜も見出せる。
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    投稿日:2024.03.13

  • りりーちゃん

    りりーちゃん

    大好きなオスカーワイルド。サロメという作品は聞いたことがあったけど、まさか幸福の王子を書いたオスカーワイルドが書いたとは思わなかった。

    旧約聖書の一部分を抜き取ってお話にしたものなのかな。
    サロメが残酷な方面に純粋だった。ラスト、我に返ったような手のひら返しがすごい(これはヘロデ王)。
    ヘロディアは誰も見ていない、という記述が興味深かった。原典(フランス語)でも読んでみたいな。
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    投稿日:2023.11.01

  • otter

    otter

    このレビューはネタバレを含みます

    先輩に薦められて。視線のドラマ。人は誰しも「悦びに呪われている」というのが引っかかる本でした。


    <平野啓一郎解説>
    ・今回、私に《サロメ》の新訳を依頼したのは、演出家の宮本亜門氏
    ・「古典を権威にまで堕落させ」、新しい「美」の創造に対して古典を「棍棒として」振り回す保守的な読者への揶揄
    ・ワイルドのサロメは、もっと少女的で、愛らしい。強いて言えば純真。

    ・ヨカナーンの言葉は、大別して三種類
    ①人間ヨカナーンのつぶやき②預言者としての言葉③預言そのもの

    ・その無邪気なアプローチには、「ヨカナーン!お前の体が愛おしい。」と正直に語ってしまうような、母親譲りの欲望が露わになっている
    ・サロメには確かに 色気 がある。しかしそれは、自ら知悉し、自在に行使する色気ではなく、無意識に溢れ出てしまうような色気である
    ・サロメはつまり、「悦び」に「呪われている」のである。ここにこそ、サロメの悲劇性がある。サロメは決して、単に純真であるわけではない。しかし、よく誤解されているような淫婦でもない。純真であるにも拘らず、まったく身に覚えのない淫婦性を母から受け継いでしまっている。生まれながらにして、 バビロン的なるもの を帯びさせられている。
    ・しかし、果たしてそれは、独りサロメのみの問題であろうか?人間は誰もが、「悦び」に「呪われている」のではあるまいか?バビロン的なるもの を孕んでいるのではあるまいか?
    ・サロメはつまり、この後、キリスト教徒が苦悩し続けるあの原罪感覚を、キリスト教誕生前夜に、唐突に、 過剰に 担わされた人物として造形されている


    ・サロメとは違って、彼自身は「近親相姦」という「罪」を自覚し、怯えている
    ・ヘロデもサロメに魅了されている。そして、並行的にヨカナーンを尊重する
    ・これに対し、ヘロディアはヨカナーンをまったく恐れない。彼女には「罪」の意識もなく、ヘロデと違い、自らの寄る辺として高貴な血筋がある。迷信を一切信じない。

    ・「サロメ」は、視線のドラマ
    ・対象への欲望が、「見る」という行為にすべて直結している。そして、互いに相見るのではなく、一方的に見ることの悲劇性が、隅々にまで浸透している。
    ・ヘロディアの近習は、若いシリア人を見ている。
    若いシリア人は、サロメを見ている。
    ヘロデもサロメを見ている。
    しかしサロメは、ヨカナーンを見ている。
    ヨカナーンは神を見ている。
    そうしてこの世界には、一つの大きな穴が空いている。神は人間を見ているのであろうか?
    ・登場人物中、唯一、誰も見ていないのが、へロディア

    ・純真なサロメの内側に、彼女をそそのかすバビロン的なるもの を内在させた、というのは、
    ワイルドの非常に冴えた、革新的なアイディアだった。これによって、サロメは二重性を帯びた人物となった。まるで、我々そのもののように。

    ・彼らは、聖書の一エピソードを、こんなエロ・グロ・ナンセンスに仕立て上げてしまった、ワイルドの冷笑的な、 世紀末的頽廃美 に呆れ果てた。
    ロンドンでは、《サロメ》は稽古中に上演中止となり、パリでの上演も評判は芳しくなかった。

    ・ワイルドは〈社会主義下の人間の魂〉の中で、「金持ち以上に金のことを考えている階級が社会にひとつだけある、そしてそれは金のない連中である。」と言い、貧困がいかに人間の個性の妨げになっているかを力説している。そして、イエスが貧者に言っているのは、こういうことだと解説する。「おまえにはすばらしい個性がある。それを発展させるのだ。おまえ自身であれ。おまえの完成が外的なものの蓄積や所有にあると思うな。おまえの完成はおまえの内にあるのだ。」
    ・欲望の対象を金ではなく、性的な「悦び」と読み替えるならば、このヨカナーンの台詞は、こう解釈できる。サロメよ、お前は、母より受け継いだ バビロン的なるもの によって「呪われている」。後にそれは、原罪と呼ばれるものだ。しかし、もしイエスの元で悔い改めるのであれば、お前は救われる。つまり、純真な「おまえ自身」であり得るのだ、
    ・サロメは、しかし、これに従わない。その意味さえ理解しない。むしろ、ヨカナーンの拒絶と侮辱に刺激されて、却って哀れにも「恋」を募らせてしまう。
    ・彼女がヨカナーンの首を求めるのは、ただその口唇にキスがしたいから
    ・ヨカナーンにどうしても会いたいという、彼女の最初のささやかな わがまま の延長上にある
    ・サロメは、我々の誰しもと同じように「悦び」に「呪われている」。
    ・今度こそ、彼女自身が罪を認め、償い得たかもしれないというまさにその時に、それを 赦さない のが、イエスではなく、「この世」の象徴たるヘロデである、という結末

    <解説>
    ・男をその妖しげな魅力で滅ぼす〈 運命の女〉としてのサロメ像が誕生したと考えられる。その危険なほどに魅惑的な女性のイメージは、美と頽廃を集約するアイコン

    <宮本亜門>
    ・『金閣寺』の稽古が進むにつれて、溝口という主人公が、サロメと酷似している点が多いことに気づく
    ・サロメはヨカナーンの首を斬らせ、溝口は金閣を焼く
    ・演出すること、それは常に改めて脚本に「問い」を投げかけ、探り、新たな発見をすることが役目だと思っている

    ・月もただの月ではなくて、ときに性的な象徴であり、ときに大人への儀式、生理的な象徴であり、ときに運命の象徴でもあると見えてきます
    ・この作品の中で漂う末期的な不安感は、世界不安の雛形かもしれません
    ・実は首を斬ったことが重要なのではなく、『金閣寺』であれば金閣を焼いたというスキャンダラスな結果に目的があるのではなく、なぜこうならざるを得なかったのかという、そこに向かっていく気持ちの出発点とプロセスが面白いのだと思います

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    投稿日:2023.06.04

  • RT

    RT

    平野啓一郎によるサロメ。解説でご本人が述べられていたが非常に少女性があるサロメになっている。好きな男を振り向かせようとして一生懸命なサロメ。だけど振り向いてくれず最後は殺してしまう。ヘロデも娘を振り向かせようと領土の半分を与えようとする。耽美的になりすぎず一方でサロメ独特の魅力も残したままうまく訳されていると思う。
    平野さんの解説も出色で世紀末の京都の雰囲気が懐かしかった。田中さんのワイルドに関する解説もワイルド、サロメ理解を深めてくれるもので、田中さんのアドバイスがあっての平野訳ということでもあるのだろう。リヒャルト・シュトラウスのサロメとは違うということも解説を通じて知ることができた。
    宮本亜門による舞台は見てみたかった。舞台は終わってしまうともう見れないから残念だ。当たり前なのだけれど。
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    投稿日:2021.12.26

  • アヴェマリア

    アヴェマリア

    ・サロメには確かに色気がある。しかしそれは、自ら知悉し、自在に行使する色気ではなく、無意識に溢れ出てしまうような色気である。「悦び」というのは、ワイルドにとって重要な概念だったが、サロメはつまり、「悦び」に「呪われている」のである。
     ここにこそ、サロメの悲劇性がある。サロメは決して、単に純真であるわけではない。しかし、よく誤解されているような淫婦でもない。純真であるにも拘らず、まったく身に覚えのない淫婦性を母から受け継いでしまっている。生まれながらにして、バビロン的なるものを帯びさせられている。

    ・この物語の一方の主人公であるヨカナーンは、作者オスカー・ワイルドがあえて選んだヘブライ語の表記で、イエス・キリストに洗礼を施したバプテスマのヨハネのこと。
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    投稿日:2021.10.20

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