【感想】日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

内山節 / 講談社現代新書
(60件のレビュー)

総合評価:

平均 3.5
11
17
20
5
2

ブクログレビュー

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  • Masayuki Ono 0412

    Masayuki Ono 0412

    このレビューはネタバレを含みます

    1965年、確かに日本が本格的に経済活動に舵を切った時期に重なる。
    1964年東京オリンピック西川東海道新幹線開業、1970年大阪万博。
    私の故郷枚方も田畑に囲まれた環境から、田畑が住宅地に変わり、新しくできたバイパス道路の周辺には多くの工場ができた時期に重なる。
    田畑に囲まれた時代は毎日が自然の中で遊んでいた懐かしい時代だったと記憶している。
    人が自然と会話しなくなり、できなくなった。私もそう感じる。

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    投稿日:2024.02.04

  • アワ

    アワ

    日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか。前半部は上野村をはじめとした自然に思いを馳せる程度だったが、中盤部以降、今まで自分が触れることのなかった思考体系をなぞり、脳が興奮した。今まで触れることはなかったけれど、でも感覚的に理解できる思考体系で、自分の中からスルスルと何かが引き出された、そんな気分。

    "事実(だと思っていたこと)"は、全て現在の社会が持つ尺度によって規定されているもので、その尺度からこぼれ落ちた物事は見えなくなってしまう。現在は「知性」という存在が大きな力を持っていて、だから「知性」では説明できない「何か」を、私は見ていない。時間と共に「知性」は発展していくというのが基本的な考え方であるから、社会は、個人は、時間と共に発展していくという考え方が当たり前に受け入れられている。しかしながら、本当にそうなのか?内山節さんは「発展」ではなく「循環」だと言っている。

    私は最近、人生が底見えしてきたという感覚に襲われた。その理由は以下のようなものである。
    中学生くらいから生きづらさを感じていたが、新たな経験を重ねることで一歩一歩生きづらさを解消し、完璧、もしくは納得に近づいていく感覚があった。人生は毎年、着実に良くなっていくものだと思っていたのだ。しかしながら20歳を超えたあたりから自分の現状に納得できるようになってきて、もう上限まで来てしまった感覚を得た。それが、人生が底見えしてきたという感覚の正体。
    本書を読んだ今考えると、以上の考えは、「知性」や「発展」という尺度で測られたものであることがわかる。自分が今まで抱いてきた悩みというものは、目的意識ありきの、人生を直線、すなわち「発展」で捉えた際に生じるものだったのだ!!しかしながら、人生とは本来円形なのではないだろうか?いや、むしろ円ですらない点であり、その形が決まるのはその時代の尺度なのだ!

    何かの出来事に対して成功だの失敗だの引き分けだのが存在してくるわけだが、それはどの視点から見た成功でどの視点から見た失敗なのか?人間は画一的な物差しでしか物を図ることができない。今は資本主義の物差し。発展の物差し。
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    投稿日:2024.01.02

  • はれ

    はれ

    内山節氏の文章は身近な問題を哲学的に説明してくれてわかりやすい。
    この本を読んだきっかけは「おこんじょうるり」を読んだからだ。イタコのばば様とキツネのおこんの心の交流のおかしくも悲しい物語だ。
    我々日本人は昔話を読んで育ってくる中で、人と動物が心を通じ合わせたり喧嘩したりという、日常生活を共にするのが自然に感じてきた。これらの動物は人間の言葉を話しお隣さん的に助け合ったりしてきた。そのことに全く違和感を感じなかった。それくらい身近にいて共生していたのだ。それだけ人が自然の中で生きていたのだ。しかし、科学の進歩や経済の発展によって人間は変わり、自然との距離を隔ててしまっただけでなく、自然の領域まで侵略している。自然との共生が叫ばれるが、現実はその逆に進んでいる。この先、人間はどこまで変わって行くのだろうかと不安が募った。続きを読む

    投稿日:2023.08.10

  • inox

    inox

    地元の定有堂書店で購入。
    読み始めてから期間経ったので例の如く前半の記憶は曖昧。南無。

    眉唾トンデモ本かと思ったら、
    歴史哲学本でした。

    キツネが馴染みづらいなら、
    ガンニバルはなぜ都市部では成立しないのか?
    と言い換えてもいい。

    ガンニバル一巻しか読んでないので見当違いかもしれないけどまぁそこはそれ。。。

    結論から言うと、
    高度経済成長期に入った65年らへんから西洋思想が流入し、日本全土に伝播。
    日本古来の思想、仏教をベースにした土地土地にカスタマイズされた民間信仰、自然と一体化していたクローズドコミュニティの共通思想が廃れていき、キツネに化かされることもなくなった。

    ということです。
    (西洋思想なんてもっと前から来てただろ。
    とか色々ツッコミどころあると思いますが、
    正直うろ覚えです。詳しくは本書読まれたし。)

    西洋思想とは知性、理性、合理性に偏った思想だとするなら、
    日本古来の思想は、身体性、自然性に偏った思想で、自然を神聖視(非合理的なことが起こってもおかしくない)していた。

    だからキツネに化かされることがありふれた日常の一コマだった。
    という論旨。ざっくり言うと。

    そしてそっから思想の話は発展し、
    じゃあ西洋思想は進んでいて、
    日本古来の思想は遅れてたのかって話になり、
    西洋思想の歴史発展視は、
    マルクスが社会主義を唱える際、
    資本主義を発展した思想だとした上で自分の説をさらに発展させたものだという言説から、
    歴史は常に発展しているという幻想が跋扈している。らしい。

    西洋思想の合理的思想だけが正解なのか?
    それには NOだと幾人もの哲学者は言う。

    「我々は自分の存在が無であること、あるいは大したものではないことを知っているのに、この我々の知が本当に知であるのかどうかは、もはや知ることができない。」レヴィ・ストロース
    といった具合に。

    まぁディストピア映画を想像してもらえば容易いだろう。

    そもそも歴史なんて絶対ではない。

    各々の記憶の中で保持されている事実という、
    曖昧なものの集合体でしかない。

    例えば、
    あなたはあなたが生きてきた時間、個人史の中の、10年前の14時23分58秒に何してましたか?
    と小学生みたいな質問をぶつけたら、
    答えられない人が大半だろう。

    ショーペンハウエルの「世界はわが表象である」的に言えば、
    僕たちは主観からしかこの世界を捉えられない、外側の世界には内側の世界からしか介入できない故に、客観的事実というものは存在しない。

    ならば主観に上がってこない歴史というのは、
    無いのと同じでないか?

    1259年には何が起こりましたか?
    その時ポルトガルだったところは何が起こってましたか?
    その当時の人々は何を食べて何を着ていましたか?
    どんな思想をしていましたか?

    と意地の悪い質問をしても、
    答えが返ってくることもあれば、
    返ってこないこともある。

    歴史というのは、
    それぐらい曖昧なものなのかもしれない。

    歴史が曖昧なものなのであれば、
    現代は過去より進んでいる。
    とするのは疑問符が浮かぶ。

    とはいえ、過去の方が進んでいた、豊かだった、とする懐古主義的な向きも違う。

    私見だが、
    結局は個人思想の在り方じゃん。
    という身も蓋もない結論に着地。
    とするのはあまりに西洋思想寄り過ぎかもですね。

    あれー、単にキツネの民間伝承的な事を知りたかっただけなのに、変な方向に話が向いちゃったなー。

    こりゃ、ばかされちゃったのかもな。

    なーんて。


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    投稿日:2023.04.20

  • トピルツィン

    トピルツィン

    全体としてあまりに中途半端な本です。

    この本は専門書ではありませんし、最後まで読んでも
    「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか」わかりません。

    転機は1965年にあると著者は断言しますが、その根拠は不明です。
    著者はいくつかの説、高度経済成長期であったとか、
    敗戦の経験、森林の扱いの変化などをあげてはいます。
    しかしそれぞれの説は説と呼べる根拠をもちません。
    「著者はそう思う」以上の情報がありません。

    さて、この本は民俗学の本に近いですが、
    エッセイに分類されるものでしょう。
    理由はすでに書いているように、確度の高い情報があまりにも少なすぎることです。

    この本で確実なのは群馬県の上野村の記述です。
    この部分は著者が長く滞在し、地元民からしか聞けない民話などを記録しています。
    他方、江戸時代、仏教史、西洋史、歴史学そのものを通して著者は
    キツネを解説しようと試みますが、そのすべてが「私はそう思う」で終わっています。

    こう断言する理由は2つあります。
    1.参考文献がない。参考文献がないため、読者は著者がなぜそう考えた確認できない
    2.あとがきでも「なぜキツネに騙されなくなったのか、その内容は解き明かされていない(要旨)」と記載があり、著者も認めるように、なんと表題が未解決なまま終わる

    他、多くの部分で著者は重要な問題を提起しながら、そこへの考察と根拠を示すことなく「私はそう思う」で話を進めます。
    たとえば145ページにて「ヨーロッパ的ローカルな精神(キリスト教や歴史学の精神)ではキツネと人間の関係を捉えることができない(要旨)」との記載があります。
    他方、まさしく西洋史で妖精や神話の再評価が行われています。
    これは著者が本書で常々主張している「森とともに生きる人」を想起させるものです。
    しかし著者はあっさりと「西洋と日本」で区切り、西洋式の考えではキツネはわからないと検討を切り上げてしまいます。
    しかもややこしいのは、この検討はあとがきの通り途中なのです。
    この箇所だけ読んで「そうか、ヨーロッパにはキツネを理解する精神が無いのだな」と思わせるなら、これは非常に誤った文章だと指摘せざるを得ません。

    著者はベルクソンやマルク・ブロックなど有名な学者の名前を列挙して思想史や歴史学を説明していますが、この部分も非常に中途半端です。
    すでにあげた著者がいう「西洋的な考え方」はまず西洋史内で克服されていますし(E・H・カー『歴史とは何か』)、日本の歴史学者の井上智勇がこの問題を取り上げ、西洋対日本と簡単に分けられる問題ではないことも1951年の講演ですでに説明済みです。

    これからこの本を読む人はぜひ覚悟をして読んでください。
    基本的に「それは本当だろうか」と考えても、本文中にその答えはありませんし、
    参考文献がないので著者の考えをたどることもできません。

    おそらく著者の他の本であれば、こうした配慮はされているのでしょう。
    しかし残念ながらこの本はそうした配慮がされていません。
    読みながらファクトチェックをしなければならないのは相当なストレスです。
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    投稿日:2023.03.24

  • 観領

    観領

    かつての日本にありふれていたキツネにだまされるという話が1965年頃を境に発生しなくなったということに著者は着目する。そこから1965年の革命とは何だったかを論じる。
    なぜ人はこの頃からキツネにだまされなくなったのか。
    様々な人々からの聞き書きの体裁をとりながら著者は6つプラス2つの仮説を提示する。
    まず、人間の方が変わったとする仮説群。
    ①高度成長期に経済的な価値があらゆるものに優先するという方向に人間が変わった。
    ②科学、技術が尊ばれるようになり、人間が科学では捉えられない世界をつかむことができなくなった。
    ③情報、コミュニケーションのあり方が変わり、伝統的なコミュニケーションが衰退した。
    ④教育のあり方の変化。偏差値を上げるための合理主義に支配されるようになり、伝統教育が弱体化した。
    ⑤死生観の変化。自然や神仏、村の共同体に包まれてあった個人の生と死が、個人のものとして剥き出しになった。
    ⑥自然観の変化。自分自身が還っていく場所であり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていた自然が、客観的な人間の外にあるものになった。
    そしてさらに、キツネの方が変わったとする仮説。
    ①人工林の拡大で森が変化し、老ギツネが暮らせない環境になってしまったこと。
    ②人間の目的のためにキツネが森に放たれるようになり、野生のキツネの能力が低下した。
    戦後史の中で日本人が失ったものについて、深く考えさせられる好著である。
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    投稿日:2023.02.09

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