【感想】〈子ども〉のための哲学

永井均 / 講談社現代新書
(70件のレビュー)

総合評価:

平均 4.1
18
28
12
0
1

ブクログレビュー

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  • 海外おやじ

    海外おやじ

    このレビューはネタバレを含みます

    20年ぶりの再読。
    学生時代に買った本ですが、大事に取ってあったので余程思い入れがったのだろう。

    ・・・
    <僕>の独自性の問題、そしてそれに続く道徳の問題、どちらも刺激的で面白かった。でも、それを賞賛してもなお余りあるのは最後の章の『哲学とは』ではなかろうか。

    ここに、<哲学>と「哲学」の違い、あるいは<哲学>と「哲学史」ないし「思想」との違いが書かれている。

    つまり、<哲学>とは実に極私的問題であり、他人が理解する必要などないもの。また学校で教えるものでもなく、個人の疑念・疑問として知らずのうちに考えてしまうもの、とも言える。

    他方でそうした変人奇人たちの一連の極私的文章を「哲学」という枠で括って、教え、場合によって利用するような輩すらいる。そして哲学とは大体そのようなものだし、そうやって<哲学>もその命脈を保ってきたという。

    ・・・
    高校生の頃、進学先を決めねばならなかった。そして、未熟でもあった(今もだけど)。

    環境関連の仕事に興味があり化学の専攻を希望していた。が、色弱であったため、学校の先生には「進学はできても就職は難しい」と言われた。それを確認もせずにそのまま渋々従った。既に愚の骨頂であった。そして文系に進むことになった。

    周囲の友人たちを眺めてみる。なぜ法学部なのか、なぜ商学部なのか。返ってくるのは「親から言われた」「給料が高そうだから」。お前ら自分の頭で考えているのか?確固たる「自分」はないのか?
    かくいう私も、何がやりたいかなんて全く考えていなかった。

    そこで、一番役に立たなそうな学問、ということで哲学科を選んだ。

    ・・・
    しかし道は苦しかった。

    当初、何か大変なすごい秘密が隠されているのでは、と思った。秘密の発見以前に、とにかく理解できない。日本語は言わずもがな。ドイツ語の原典は、それこそ読むというより辞書を引く時間の方が長かったくらい。

    縁あって、他の大学院でも学ばせてもらったが、修士一年の夏休みには、この道はなかろう、と就職へと舵を切った。理解できない絶望感は強かった。

    ・・・
    今、永井氏の作品を読んで、改めて思った。

    ああ、私はある意味で普通の人間たりえたのだ。人様が当然だと思えるようなことに、立てつくように疑問を感じて、止むにやまれぬ思いを感じてしまう質の人間ではなかったのだ、と。

    そして、そうした<哲学>をする人たちの私的問題は、分からなくて当然。否、分かる必要もない。ただ、類似の問題を抱えてしまった人が、「ああ、自分と同じ疑問を持ったひとにも他にいるのだ」と感じるのみ。

    思えば、自分にはそのような止むにやまれぬような疑問はなかった。あるとすれば、「人は死んだらどうなるのか」とか「人は(自分は)好きな人以外にでもどうして好意をもてるのか」とかその程度であった。

    前者は小学生ごろからもっていた。筆者に言わせるとそれは、<老人>の哲学に該当するらしい。宗教がそのあたりの守備範囲とのこと。いいじゃない。勉強しようじゃないの。

    そして後者は学生時代に今の嫁と付き合い始め出してからむくむくともたげてきた。K.ローレンツ(動物学者)やR.ドーキンス(進化生物学者)を読み、我が物顔で彼女に「動物として、大きな胸に目が行くのは仕方ないんだって」「種として、種に踊らされているから、他人に惹かれるのは仕方ない」といっても、当然理解は得られなかった。自分から喧嘩のタネをまいていたといっても過言ではない。それでも今まだ夫婦で(だいぶ)仲良く暮らせているのは、僥倖という他ない。

    ・・・
    話は逸れてしまったが、永井氏の作品。

    彼のいう<哲学>とは、ひょっとしたら<人生>と言い換えてもいいのではないか。他人に自分の人生をとやかく言われて、自分の人生が傷つくだろうか。自分が満足した人生を送っているところに、他人の価値尺度は必要だろうか。きっと不要なのだ。

    もちろん、金銭、地位、名誉など多くの外的な切り口で自分の評価は上下しよう。これらのラベルを目指す人々は、その上下に一喜一憂しよう。しかし、もし本当にやりたい何かを持つのであれば、他人の評価や既成の価値があなたに影響を与えるものは僅かであろう。

    本作は哲学的には、毛色の異なる独我論、そして道徳の限界、について述べられているもの。でもこれらを越えて、自分の頭で考える、自分の疑問を考える姿勢を強く説くものである。

    響く人には、強く響く作品。

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    投稿日:2023.12.03

  • sugar41

    sugar41

    この本も、あるところで勧められていたので読んでみました。
    タイトル中の〈子ども〉は、いわゆる「子ども」を指しているのではなく、「哲学的な問いを持つ子ども、あるいは、かつてはそういう問いを持っていた子どもだった人」という意味なので、子どもだけでなく、幅広い年齢層の人を対象にした本です。

    個人的には、子どもの問いを買いかぶり過ぎな印象を受けました。
    子どもの問いの中には、確かに哲学につながるようなものもありますが、場当たり的で思いつきな問いが多いのが普通だと思います。
    著者のように、子どもの頃から哲学的な問いを立てられる人は、やはり哲学に向いている人なのだと思います。

    内容としては、「なぜ僕は存在するのか」と「なぜ悪いことをしてはいけないか」という問いに対して著者が出してきた答えについて、その思考経過や現在の到達点を示したものです。
    どちらの問いに対する思考過程も、自分にとっては「?」な部分が多かったのですが、そういう思考過程もあることを知ることができたのは、よかったのかもしれません。
    とはいえ、もし著者に、そのようなことを言ったら、「他人の思考過程を知るだけでは意味はない」と言われそうですが。

    著者もいうように、哲学はやはり、自分で立てた問いに、自分で答えていくのが、あるべき方法なのかもしれません。
    他人が立てた問いを、他人の思考過程に沿って理解することは難しいですし、この本では、とくに強く、そう感じました。
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    投稿日:2023.11.26

  • 踊る猫

    踊る猫

    永井均が哲学と向き合う姿勢/態度はウィトゲンシュタインを思わせる。祈りのように無心/無欲になり、どんな現代的な思想の潮流とも無縁に自分の問題を見出し、それについて考え抜くこと……この本で語られている大まかに言えば2つの問題は今の倫理学などの見地から言えばすぐにそれらしい答えを提示される、つまりは解決済みの事柄として映るかもしれない。だが、そんな出来合いの解答に納得せずに自分の中で「腑に落ちる」までこだわりぬくこと、そのプロセスを堪能することにこそ永井の哲学の真髄はあるのだろうと思う。私自身も哲学に誘われる続きを読む

    投稿日:2023.01.19

  • LibraryKOO

    LibraryKOO

    「いかに生きるべきか」「世の中のしくみをどうしたらよいか」という問題以前に、「どうなっているか」という存在の問題がある。
    教育の世界には、「どうすればよいか」「どのように改善すればよいか」という問題で溢れている。そして、そのこと自体を忘れてしまっているので、もはや溺れているというところまで来ている。「どうすればよいか」を考えて得られた幾つかの回答や方法を、その時の気分によって取り替えているに過ぎない。もはや方法を選び、取り替えることしかできなくなった教師は、本当の問題を考えることができなくなっている。
    私は私にとっての本当の問題を考えよう。子どもが分かったかどうかは分からないのに、教師が教えるというのはどういうことだろうか。私は何をしているのか、そのことについて考えたい。

    「大人になるまえに抱き、大人になるにつれて忘れてしまいがちな疑問の数々を、つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、けっして手放さないこと、これだけである。」(p13)
    「<哲学>とつながらない『哲学』は、もはや『哲学』でさえなく、思想(thought=すでに考えられてしまったもの)の陳列棚にすぎない。その陳列棚をながめて思想の優勝劣敗を論じる品評会を開いたり、気にいった一つを買い取って、以後それを携えて生きていくほど、反哲学的な行為はない。」(p70)
    「彼(ウィトゲンシュタイン)は、ぼくが考えていた問題が、ほんとうのところは言葉で表現できないということ、表現できたときにはにせものの問題になるということ、の意味を考え抜いていた。」(p71)
    「このような過程は永遠に続き、われわれはこの構造を超えることはできないだろう。言葉のやりとりによって通じ合うわれわれの世界を、ウィトゲンシュタインにならって『言語ゲーム』と呼ぶなら、『言語ゲーム』とはまさしくそのような構造を持った場所、つまりこのような読み替えが無限になされる場所のことなのである。そのことによって、世界の独在的本質が消えてなくなるわけではない。しかし、それは世界の中にはけっして現れず、それについて人と語り合うことはけっしてできないのだ。」(p98)
    「だからぼくにとって、言語ゲームとは、つまりぼくが生きている世界とは、この読み換えの場なのだ。そして、ぼくの人生とは、結局この読み換えを生きるということだったのだ。もちろんこの発言自体が、ひとに通じるときには読み換えられて通じるのだけれど。」(p102)
    「そこには、こう考えるのがよい、こう考えよう、と提唱する(他人に、そして自分に)といった未来志向的な要素はみじんもないのだ。」(p102)
    「では、哲学は何の役に立つか。世の中のあらゆること(惰眠とか泥棒とか……)が何かの役に立つとして、哲学は本来何の役にも立たない。まさにその役に立たなさこそが、哲学の存在理由であり、使命なのだ。役に立つとは、何らかの価値の存在を前提にして、それの実現に貢献するということだが、哲学はどんな価値も前提としないことがゆるされる(すべての勝ちを問題にできる)唯一の営みだからだ。」(p116)
    「まわりの人に迷惑をかけないし、むしろ好感を持たれながらも、自分もそれほど無理せずにすむ、というような点である。これがつまり冒頭で出した問題の答え、つまり『善い』の意味だ。でも、このつりあいをうまく保つというのが、けっこうむずかしいんだ。このつりあいは、ふつうの人にとってはごく自然に実現できている単なるつまらない事実なんだけど、それでも、それが実現できない場合を考えると、やはり実現っすべき規範であり、課題なのだ。すでに実現されている平々凡々たる現実こそが、平々凡々たる現実であるからこそ、最も困難な、最も微妙な課題であり、規範ですらある、というこの認識は、いろいろな場合にとても重要な意味をもつ、とぼくは思う。」(p163)
    「このことに気づいたとき、ぼくはとても変な気がした。なぜなら、ぼくが気づいたことは、まちがいなく真実なのだが、それはまちがいなく言わないほうがいい真実、いやむしろ気づかないほうがいい真実だ、ということに気づいたからだ。」(p173)
    「道徳外的な世界解釈の見地に立つことは、道徳的な世界解釈の内部で反道徳的な立場に立つことは、まったくちがうことであり、道徳的な世界解釈の見地に立つことは、道徳外的な世界解釈の内部で道徳的であることとは、まったくちがうことである。」(p186)
    「それは、ひとことで言えば、どちらの問題(『なぜぼくは存在するのか』と『なぜ悪いことをしてはいけないのか』)も、究極的なところでは、他者と共有される『問題』でありつづけることができない、ということだ。どちらの問題も、まさにそのことこそが、それを『問題』たらしめているように感じられる。」(p192)
    「価値とは、そうであるべきこと・そうであってほしいことであり、善いことをふくむ意味での好いことである。存在とは、事実そうであることだ。そして、価値を存在に返還することは、価値もまた存在の一形態にすぎないことを自覚することだ。」(p206)
    「哲学はこちら側にある。自分自身の内奥から哲学をはじめるべきだ。」(p209)
    「同じように、哲学せざるをえない人は、哲学せざるをえない。」(p216)
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    投稿日:2023.01.13

  • platon-kohmei

    platon-kohmei

    自分で哲学するための入門書ということで,著者は「思想に共鳴せずに,思考に共感する」を望んでいる。タイトルからは感じ取りにくいけど,非常に熱い本だ。

    この本で哲学される「なぜぼくは存在するか」と「なぜ悪いことをしてはいけないか」は,自分の問いではないので,それを「思考によって消滅させる」ということすらできないため,実際の本論には没入はできなかった。しかしながら,本編以外の3つのセクションによる著者の哲学論は面白くて,「ただ問う,ただ思考する」という姿勢は感じ取ることはできた。問う対象が何であれ,他人の意見・思想で納得するようでは哲学していることにはならないのだ。どうしようもなく問いが熱いから,それを思考によって冷まさない限り,普通になれないというのが哲学なのだろう。

    著者は竹田青嗣さんの姿勢を「哲学」ではなく「思想」だと批判している。この意味で,今売れっ子?の小川仁志さんは「哲学カフェ」を主催するも哲学者ではなく思想家で,「哲学塾カント」の主催者中島義道さんは哲学者ということになるだろう。

    *****
    ほんとうのことを言ってしまえば,他人の哲学なんて,たいていの場合,つまらないのがあたりまえなのだ。おもしろいと思うひとは,有名な哲学者の中に,たまたま自分によく似たひとがいただけのことだ,と思ったほうがいい。いずれにしても,他人の哲学を研究し理解することは,哲学をするのとはぜんぜんちがう種類の仕事である。(p.12)

     哲学というものは,最初の第一歩から,つまり哲学なんてぜんぜん知らないうちから,何のお手本もなしに,自分ひとりではじめるのでなければ,けっしてはじめることができないものだ。つまり,哲学の勉強をしてしまったら,もうおそいのだ。勉強は哲学の大敵である。(p.13)

     子どもの哲学の大きな特徴は,純粋に知的であることである。それによって何が変わるわけでもないが,ただ単にほんとうのことが知りたい。これが子どもの問いの特質である。青年も大人も老人も,全身全霊を傾けて発せられた単なる知的疑問というものがあることを忘れている。ぼくの考えでは,それは哲学を忘れているということと同じだ。(p.21)

     青年の哲学[生き方の問題],大人の哲学[世の中の仕組み],老人の哲学[死・無]は,それぞれ,文学,思想,宗教で代用できるが,子どもの哲学には代用がきかない。子どもの哲学こそが最も哲学らしい哲学である理由がそこにある。そこにこそ,何ものにもとらわれない純粋な疑問と純粋な思考の原型があるからだ。
     生き方に悩む青年の哲学は充実した,よき人生を求め,世の中のしくみを憂える大人の哲学は矛盾のない,よき世の中を求め,人生を終える老人の哲学は納得のいく,よき死を求める。それに対して,子どもの哲学は,何もよきものを求めない。それはよりよきもの,より高きもの,より深きものを,めざしはしない。子どもの問いは,解かれたときに,何かよい結果や効果が得られるようなものではない。しいていうなら,ただふつうの大人になれるだけだ。(pp.25-26)

    たまたまこの世に生まれてきたからには,自分だけの問いをもつ,これはまたずいぶんとすばらしいことだとはいえないだろうか。(p.26)

     思想を持てば,思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには,すでに考えられてしまったこと(思想)を,そのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも,ひとりでそれをやるのはとてもむずかしい。だから,自分にかわってそれをやってくれるひとだけが,つまり有効な批判をしてくれる人だけが,哲学上の友人(=協力者)なのだ。だから,真の友人を求めるかぎり,批判者を批判しつづけなければならない。(pp.110-111)

    …哲学というものは本来,黙って墓場へ携えていき,持ち主の死とともに消滅してもよいものなのではないだろうか。思想は公表されなければ意味はないが,哲学はちがう。賛同者がふえることは,思想にとっては最も望ましいことであろうが,哲学にとっては本質的な意味はないだろう。(p.113)

     どんな入門書でも,口先ではみずから哲学することの重要性を説くけれど,そういいながら,実は哲学説の鑑賞の仕方を教えているにすぎないことが多い。哲学説(すでに哲学された他人の思想)をよく理解しよく味わって水面生活[水中に潜ろうとする努力がない限り浮かびがちな人=一般人]を豊かにすることと,自分で哲学する仕方を学ぶこととは,たぶん,なんの共通性もないのだ。思想を享受することと思考を持続することとは,むしろ真っ向から対立する。ひとが哲学を必要とするふたつの道筋は,驚くべきことだが,おそらくはまったく交差していないのだ。(p.196)

     哲学をしている人なら,世のため人のために役立つ思想をつくりたいなんて思うはずがない。ときどき,世の中で話題になっている大問題に対して「哲学者」の意見が求められたりして,それに得々として「哲学的」に答えている「哲学者」がいるけれど。ソクラテスが「哲学」の出発点であれほど強く主張したいちばん大切なことを忘れてしまっているのだ。哲学者なんて,自分にはすごく大事なことが分かっていないということに,ふつうの人以上に気を取られているだけの人だったはずなのに。(p.204)
    続きを読む

    投稿日:2022.11.15

  • キラキラ

    キラキラ

    むずいわぁ。どこが中学生向けの本だよって思った。
    でも、世間一般の善悪と言う名の道徳に俺の行動割と縛られてるわぁってことに気付かされたのは良かった。

    投稿日:2022.10.25

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