【感想】考えないこと~ブッダの瞑想法

アルボムッレ・スマナサーラ / 大和書房
(5件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • ゆきんこ

    ゆきんこ

    仏教では、この世界は心が作り出していると考える。心が物質を支配している。今やるべきこと、やっていることだけに集中して、他のことを考えないようにしてみる。この瞑想していると、悩みはなくなり、同時にきちんとやらなくてはいけないことができるようになる。それだけでなく、集中できるから、他の仕事もできるようになり、人付き合いもうまくいくようになる。そして不思議なことに、実況中継をしながら、仕事や家事をすると、全然疲れないようになる。

    ○情を周囲に撒き散らす相手に、巻き込まれる必要は無い。自分の感情を、自分から離れて客観視してみる。縁離の境地で眺める。このことによって、すべての負の感情は、元から積みとられていく。

    ○自分の能力、エネルギーは丁寧に全部使い切る。ライバルの対抗心など、余計なことに使わず、自分の仕事のためだけに使う。そうすれば道は開ける。怒りや競争心で仕事にかかるのは、あまりにももったいない。自己破滅的な行為であるエネルギーの浪費。怒りやライバル意識の代わりに、頭の中に実況中継を入れておけば、仕事で能力がない問題が解決する。
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    投稿日:2024.01.19

  • るりびたき

    るりびたき

    瞑想に関する本は今までも何冊か読んだ事があったがこの本はとてもわかりやすく、日常に落とし込めそうで実践的だった。今、ここ に集中するのは本当に難しいけれど、少しでも日常生活に取り入れていきたい。

    投稿日:2023.12.06

  • Go Extreme

    Go Extreme

    考えないことーブッダの瞑想法

    諸宗教、現代のキリスト教やイスラム教なども含めた宗教とブッダの教えとの最大の違いは、ブッダはいつでも自分の心と体で確認できる教えを説いたこと、そして、ふつうに生活している人が取り組めるような実践をすすめてきたことにあります。

    科学的に心を育てることを教えているのです。そこには神秘的なものが入り込む余地は、決してありません。だからこそ2600年の時を超えて、科学技術の高度に発展した現代でも、ブッダの教えは支持されているのだと思います

    とても合理的・科学的でシンプルな実践方法です。あいまいなところや神秘的な難解さもまったくありません。誰でも、いつでもどこでもできて、しかも驚くような効き目があります。瞑想の実践ではじめて人間は幸せを得られる、それ以外の道はないとブッダはおつしやっています。なによりブッダ自身が、この瞑想で最高の悟り(無上正覚)に達したのです。

    妄想をし始めるとキリがないことは、あなたも経験済みでしょう。悩みや苦しみに押しつぶされそうなときは、 思考をいったん止めて、 妄想を排除して、「今の気持ちはどう? 」と感じてみることです。

    自分で決められることではありません。だから、その時になったら適切に対応すればいいのです。
    集中すれば、 その間、思考や妄想は湧き上がりません。過去にも未来にも引っ張られず、今に集中している心の状態は、ストレスが消え安穏になっているはずです。

    実況中継という言葉を使いました。これがブッダの瞑想のカギなのです。その瞬間、瞬間を絶えず実況中継していると、集中して忙しいので、よけいなことを考えたり、妄想したりする余裕がなくなります。気がつくと心が安穏になっています。これだけでストレスも消えていきます。
    「今、この瞬間に集中する」ことは、「過去を捨てて、 未来も捨てて、 現在に生きる」ということです。

    この「今の瞬間の心」を指す言葉に「空」という仏教用語があります。正確にいえば「空性」です。「一切の現象は空であること」という意味です。空性という、何もない状態に心を保ってみる。難しいことのように思うかもしれませんが、 みなさんも空性の心を日常生活で体験できます。

    過去も未来も何もない。それが「悟りの心」です。 紙コップがその形を保っているのは、本当は空気のおかげです。空気が消えてしまうと、 紙コップは粉々になるのです。そのように、空性ということは、すべてを支えているけれど、一切の現象と対立しないのです。

    「空性の心で食べる」の延長で、ぜひ「食べる瞑想」を試してみてください。食べる暝想のポイントは、「食べるとき誰ともしゃべらないこと」「自我を使わないこと」「実況中継しながら食べること」の三つです。
    実況中に「おいしい」という言葉は使いません。おいしいと感じるのは「自我」だからです。暝想は無我の世界なので、客観的に「味わう」と表現します。
    こうやって観察しながら実況すると、体の細胞たちがしっかり集中して、食べ物を受け入れる態勢になります。

    毎日、ご飯と納豆だけ食べても、心が安穏であれば栄養失調になりません。生命の法則にまかせておけばいいのです。
    「あれが体にいい」「これを食べたい」と自我を出したところで、間違ってしまうのです。
    「我はいる」と思った時点で、地獄の門がドーンと開くのだとおぼえておいてください。
    空性の心とは、我はないという真理、「無我」に安らいだ心でもあるのです。

    自我というのは錯覚です。自我という錯覚からあらゆる煩悩、つまり心の汚れが生まれます。自我は決して実在しないのです。体にある眼・耳・ 鼻・舌・皮膚という感覚器官にそれぞれの対象が触れる度に、 自我という錯覚が仮にあらわれるだけ。その錯覚に基づいて、私たちはあれこれと考えているのです。

    1章 每日手を洗うように心を洗う

    「自分には自分さえもないのだ」という咨心味です。自分には自分がある、つまり自分だけは頼れると思っても、それもあてにならない。病気になったり、気が変わったり、周囲の事情が変わったりして、自分をあてにできなくなる、そんなことはあたりまえなのだという意味です。

    すべての悩みや問題の原因は「心」にあるのです。心以外の何かに原因を求めても、何も解決しません。心以外に原因を求めて、ものを集めたり増やしたりしても、決して幸福への道は開けません。むしろ逆に、不幸への道をまっしぐらです。
    何にも頼らない強い心をつくる。それこそが仏教でいう「解脱」です。

    願望によって結果は左右されない、ということです。 願望とは「感情」なので、合理的ではないのです。

    仏教は「科学的な教え」です。一般的な観点からすると、宗教とはいえないほど、科学性は徹底しています。科学的というのは、この場合、きちんと結果が出てくるということ、そして、話の内容が本当かどうか、自分でたしかめられるということです。

    「自分がいる」ということが、すべての根本にあります。他の人が、その「大変な悩みごと」を聞いたら、「こんなの悩みではない」と言うかもしれません。
    すべての根本には、「自分がいる」ということがあって、その自分がいろいろと考えを巡らせる。このことによって、「悩み」や「問題」が起きているのです。
    その「自分」の判断によって、ちよつとしたことが大きな悩みになったり、問題となったりするわけです。

    仏教では体は重視しません。もちろん、瞑想には体の動作も伴いますが、それはあくまでも方法として体を用いるのです。まず心を鍛え、健やかにするよう努力する。心が健やかになれば、すべての問題は解決してしまいます。

    自分を観察しない人は、恨みがあらわれた途端、相手が悪いと判断します。自分を観察する人は、まず恨みが起きたら、自分の心に現実的にあらわれた恨みのみを観察するのです。この訓練を続ければ、どんな瞬問でも、自分の心はどんな状況にあるのかを発見できるようになります。

    2章 慈悲の瞑想— 「やさしさ」を通して心を整える

    慈悲の暝想法は、完全に安全で、副作用もまったくないサマタ瞑想で、心を落ち着かせ、心を統一するための実践です。三つのステップと一つのオプションで成り立っています。
    ①自分の幸せを願う
    ②親しい生命の幸せを願う
    ③すべての生命の幸せを願う
    オプション… 私の嫌いな生命、私を嫌っている生命の幸せを願う

    気をつけたいのは、気持ちが伴わず言葉だけが浮いてしまうこと。言葉が空回りしないように、一字一句に心を込めて、集中しながら念じてください。心が変われば、体も変わり、取り巻く世界まで変わるのです。

    「幸せになりたい」という気持ちは、イコール「生きていたい」という気持ちなのだと理解してください。つまり、今生きていて、この本を読んでいるというだけでも、あなたはとても幸せな人間なのです。そんなふうに、できるだけ広い意味で「幸せ」をとらえて、自分の幸せを願ってください。

    ブッダは「生きることは苦」と説きました。実際、私たちの人生には絶えず「苦」がつきまといます。その苦をなくそうと努力することが、すなわち「生きること」になっているのです。

    私たちはあらゆる瞬間に、 何かに挑戦して生きています。小さな希望を叶えながら生きているのです。
    小さなコマ単位に人生を考えると、「私たちは瞬間、 瞬間に希望があって、 その都度、 それを叶えながら生きている」という事実が見えるはずです。
    私たちは、大胆な願いごと、非現実的な夢・希望・願望ではなく、コマ単位で発見できる希望を重視したほうがよいのです。

    トレーニングを積めば、やがて「私」と「他者」の区別のない、広大で無制限な気持ちが心の中に育っていきます。
    これは、慈悲の瞑想で達する「サマーディ」という境地です。自分の命も、一切の生命の命も、平等に感じられるようになると、「自分という個は実体として存在しない」「他人という個も実体として存在しない」ということを発見する可能性もあります。

    自分の心が成熟してくると、嫌いな人や相手のことが心に浮かんでも、何も思わなくなります。さらに成長すると、どんな生命も嫌いにならなくなります。今まで嫌いだと思つていたけれど、実はその相手は自分にとって鏡のようなもので、その相手がいるから自分の存在が引き立ったり、あるいは反而教師になったり、という形で、自分の行動の指針になっていたということも、往々にしてあります。
    つまり、 敵だと思ったその生命が、 実は広い意味では自分の仲間だったということに気づかされます。こんな心境になれたら、 すべての敵はいなくなります。

    本当に大事な、養い育てるべき善なる「愛」を間違いなく、具体的に指し示すために、ブッダは「慈・悲・喜一捨」という4つの言葉に置き換えて示しました。
    慈悲の瞑想は、この「慈・悲・哀- 捨」の四つの愛を育てるための瞑想です。

    慈悲の暝想は、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じることで、「慈・悲・喜一捨」に満ちた、淸らかな心を育てる方法です。その心のエネルギ—があなたに喜びを与え、同時に、あなたが発するポジティブな心の波動が周囲にも行き渡り、相手の心までも変えていきます。

    3章 ヴィパッサナ—瞑想 ー思考を手放す

    ヴィパッサナー暝想とは、ひと言でいうと「気づく」瞑想です。「気づく」というのは、「今、 生きる」という現実に、 ありのままに気づくということです。
    私たちは無知のせいで、 現実より妄想を大事にします。妄想にいわれるままに生きているのです。これが問題です。

    ヴィパッサナー暝想は、この悪循環を破る方法です。だから「現実に気づく実践」なのです。判断することをやめて、 耳に触れる音、または聴覚に気づくのです。

    解釈する場合、重視されるのは「自分の都合」です。,自分の都合に合わせてデータを歪曲し、捏造しているのです。捏造した判断が正しい判断だと思うのは、相当な勘違いです。要するに、「ありのまま」を知らないのです。「ありのまま」ではなく、「あってほしいまま」にデータを歪曲します。

    慈悲の瞑想のポイントは、心を統一して、静かな、穏やかな気持ちになることでした。これに対してヴィパッサナー瞑想のポイントは、 ものごとにとらわれないようにすること、離れること、 関わりが起こらないようにすることです。仏教のことばでは、「遠離(厭離) 」といいます。

    ヴィパッサナーとは、パーリ語で「明確に観察する」という意味です。この場合でいうと、「いい絵」とか「悪い絵」というよ、つな主観をはたら
    かせず、 事実で受け止める、ということなのです。

    思考は頭を鈍らせます。思考をストップさせるために、 頭を何千倍もの速さではたらかせなければならないのです。思考が減ると、その分苦しみが減り、智慧があらわれます。
    「思考を停止するトレーニング」イコール、ヴィパッサナ—瞑想は、今、この瞬間に起きていることを、言葉で、 心の中で絶えず確認する実践です。

    未来のことも、悩みの種になります。人間は将来のことを考えれば考えるほど、心配でたまらなくなります。ですから、 過去を思い悩む苦しみと未来を案じる心配とで、心はずっと痛めつけられます。過去と未来とにエネルギ—を奪われて、もっとも大事な「現在」に振り向けるエネルギーが不足しているのです。これが、人生がうまくいかない原因です。

    感じたことに対して実況中継をする。これを繰り返していくことで、すべてのものは単なる現象で、感覚にすぎない、 ということがわかってきます。
    感覚を一つひとつ、言葉にすることで真実が見えてきます。今まで見ていた世界とは違った世界が見え、人間関係など、すべてが変わっていきます。

    4章 いつでもどこでも「ながら」瞑想

    日常生活に瞑想を応用すれば、 自分が毎日していることを、本当にきちんとしているのか、 という振り返りにつながります。この振り返りが常時できるようになると、意識的な動作以外にも「気づき」が広がり、人間の以際の姿とはどういうものか、ということにまで認識が進んでいきます。

    仏教では、この世界は心がつくり出していると考えます。心が物質を支配しているのです。
    だから、つまらない考え、愚痴っぽい考え、誰かに対する批判や不満にとらわれれば、必ず悪いことが起き、いろいろなことがうまくいかなくなります。ものごとがうまくいかなくなれば、やはり不満がたまります。不満がたまれば、愚痴や不平
    がさらに高まり、悪循環です。

    感情を爆発させるような状態は、誰にとっても苦しい。相手は、実は苦しんでいます。あなたまで同じ感情にとらわれて苦しむことはないのです。
    感情を周囲に撒き散らす相手に、巻き込まれることはありません。
    ・自分の感情を、自分から離れて客観視してみる。
    ・遠離の境地で眺める。
    このことによって、すべての負の感情は、元から摘みとられていくのです。

    ヴィパッサナー瞑想は、観察力を飛躍的に高めます。繰り返し行えば、すべてのものや仕事は、 時間と順番があって成り立つことが見えてきます。「能力というのは、 ものごとに執着しないで離れて見ること(遠離) 」だと、 理解するのです。

    5章 瞑想と心のかかわりについて

    人間にはものごとを「ありのまま」に見る能力がないからです。必ず、ある種のフィルタ—をかけて見ているのです。

    では、フィルタ—とは何でしょうか?
    一つは「欲」です。私たちは常に、自分が「こうあつてほしい」という思いのままに対象を見ます。つまり、「そのまま」でなく「わがまま」に見るのです。

    二つ目は、「怒り」で認識するフィルタ— です。そのときは「嫌だ」と判断してしまう。そう判断すると、すべて嫌なものに見えてきます。 逆に好きと決めつけたものは、何であろうと好き、すばらしいというふうに見ます。
    三つ目に、「無知」というフィルタ—があります。人間は、この地球上で自分たちが一番偉いと思っています。

    この三つのフィルタ—(障害) を、ブッダは「貪瞋痴」として整理しました。ひと言でいうと、「貪」は欲望・欲求、「瞋」は怒りや妬み「痴」は無知を表します。
    「貪」は、何でも自分のものにしなければ収まらない心の エネルギ— です。物欲、名誉欲、金銭欲、所有欲など、「貪」から生まれる欲は、この世のほとんどのトラブルや問題の原因になっています。

    「瞋」は、 ものごとを嫌な目で認識するとき「瞋」のフィルターを通しているのです。「貪」のフィルタ— で、 好きなものだと期待して認識したところで、 結果がそうでなかった場合、「瞋」があられることもあります。

    「痴」とは、 ありのままに認識しない私たちのふつうの認識状況です知讖がないということではありません。知識があるとき、 さらにありのままに認識するのではなく、知識というフィルタ—を通すのです。

    心に起きている現象を、人間の歪んだレンズ、汚れたフィルタ—を通して見るのではなく、起きていることをそのままで見てみよう、ということなのです。
    そのままで見るためには、何を体験してもそこに判断を入れず、体験をそのままで見つめる必要があります。判断はやめます。思考は邪魔です。
    ヴィパッサナー瞑想とは、考えない、判断しないトレーニングなのです。

    ブッダは、瞑想でしかこうした不幸の根を断ち切ることはできないと言っています。あらゆる判断を停止し、 心に実際に起きていることだけをモニターしていくと、「感覚」が見えてきます。

    思考, 概念は感情に操られたものです。それらが止まることなく回転し、 新たな思考・概念をつくり出す。その思考, 概念は、より強い感情に操られたものになります。ちよっつとしたできごとでも、精神的にまいってしまうところまで、 いともかんたんに膨張することはあり得るのです。

    どれ一つをとってみても、知識がないと何もできないのです。ですから仏教では、知識というものを大変重んじます。「無知であること、ものごとがわからないことは大変よくない」とブッダは言っています。

    概念で頭の中がいつぱいになっている人を、世間では「知識人」と呼びます。知識人にも2 種類あります。ただ概念をたくさん知っているだけの人と、その概念を何かに応用できる人です。知識を応用する力とは、つまり「智慧」です。

    この智慧は、仏教でいう解脱の智慧とはまた違うものです。知識を応用する能力で、仏教用語で「方便」といいます。知識をいかに有効的に応用できるか、という能力の有無が人生を左右するのです。

    仏教の知識が豊富な出家者であっても、応用しない人は、ブッダの教えの醍醐味には縁がないのです。わずかな仏教知識であっても、それを応用する人(実践する人) は、仏教の醍醐味の持ち主です。牛飼いと、牛の持ち主の差は大きいのです。

    もう一つ問題があります。実践する気持ちは毛頭なく、は大な知識人になろうと思っても、勉強できる量には限界があります。世の中にある知識、すべてを学ぶ能カも時間も、一人の人間にはありません。ですから、知識だけの人はいつでも不完全です。知識によって、幸福になることもありません。応用能力がある人だけが、大いに幸福を感じるのです。

    ブッダは「人間の宝物は智慧である」と言います。「無知の状態で生きていても何の意味もない。いくら長生きをしても無意味だ。智慧を持って生きることは、たとえ一日の寿命であっても、無知のまま百年生きるよりははるかに尊いのだ」と説いています。

    心に差をつけるもの、心に溶けるものを、仏教用語で「心所(チェータシカ) 」といいます。
    心所のカテゴリーは三つです。悪い心をつくる不善心所 (14)、善い心をつくる善心所(浄心所)(25)、善悪の区別がない心所(13)があります。善悪の区別がない心所は、同他心所といいます。不善心所と一緒になると不善の仲間になり、善心所と一緒になると善の仲間になるからです。この13の中にも、認識をつくるために欠かせない最低の心所が、七つ入っています。その七つを、共一切心心所といいます。

    食べ物にうるさくなく、手に入ったものに文句を言わず適当に食べている人が、病気にならないケースはよくあります。食べ物にうるさくない人の心は、 穏やかです。クレームをつけないので、欲も薄いのです。食べ物に厳密にうるさい人の心は、怒りで汚れています。怒りは心の毒です。食べ物を分解し、消化すること、体のエネルギーに転換することは、心の仕事です

    具体的に言葉や行動で怒りを表さなくとも、 心の中に生まれる「怒り」は、その瞬間から自分を蝕みます。

    貪(欲) と瞋(怒り) よりは、痴(無知) の毒性が強いのです。無知が機能していると、 何の行動も起こせません。しかしその代わり、突然激しい欲や激しい怒りが、爆発してあらわれます。それはとても危険です。異常な欲と怒りで、人は精神的な病に陥るときもあります。それも無知のはたらきです。
    そして、何の生産性もない妄想に、私たちの人生の大部分を費やしています。それで人の能力は低下するのです。やるべきことをやらないで、後回しにします。

    「魂がある」「私がいる」などと思ってしまうのは、心があまりにも無常だからです。実際は、人間の心もすべての現象も、流れている川のように、瞬間、瞬間変化し続ける。そこに実体はありません。それを瞑想体験でしっかりわかることで、智慧が完成します。
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    投稿日:2023.09.28

  • 二人

    二人

    瞑想を心のトレーニングとしているところが良かった。

    慈悲の瞑想は、仏教における「慈悲喜捨」と呼ばれる善心所を育てる心のトレーニング。まず自分が幸せになりたいと気づくことが、他者への思いやりに繋がりその態度が自分に幸運を引き寄せるという話は説得力があった。続きを読む

    投稿日:2023.09.18

  • こうき

    こうき

    No.13/2023

    『考えないこと』

    ✂︎✂︎✂︎

    ・悩みの原因は「妄想」
    ・「実況中継」ブッダ瞑想のかぎ
    ・「実況中継」は思考を止めるための方便
    ・食べながらでもできる

    ・慈悲の瞑想→ヴィパッサナー瞑想の順番
    ・「実況中継」で忙しくて思考させない

    「ヴィパッサナー瞑想」
    =「思考、判断を停止するトレーニング」

    ✂︎✂︎✂︎

    #考えないこと


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    投稿日:2023.08.13

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