【感想】純粋な人間たち

モハメド・ムブガル=サール, 平野暁人 / 英治出版
(4件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • ター坊

    ター坊

    厳格なイスラム文化のセネガルで実際に起こった同性愛者に対する事件をヒントに書かれた小説。フランスの権威あるゴングール賞を受賞したセネガル生まれの若き小説家の作品。翻訳者の力もあるんでしょうが、その筆致に感心します。続きを読む

    投稿日:2024.04.03

  • たなか・ま

    たなか・ま

    このレビューはネタバレを含みます

    実際にセネガルであったおぞましい事件を題材に、同国での同性愛への過酷な差別を描いた小説。

    主人公は凡庸な無関心さを事件に対して示して恋人になじられる。そしてそれだけでなく、大学の講義で(彼は文学教員)ヴェルレーヌを扱っただけで大学での立場が悪くなる…。

    イスラム社会での同性愛の扱いと、その社会の中で生きる人間としての良心、主人公の本来的な優しさとどう折り合うか。

    また、「僕にとってあらゆる幸福は女性のうちにある」と語っていた、異性愛者としての自我の意外な脆さに揺らぐ主人公が気の毒になる。

    一方、僕自身のこの小説への距離感というか、同時に読んでいた川上未映子『黄色い家』の登場人物への感情移入(あちらの小説はしんどくて途中で読むのを止めてしまったがこちらは淡々と読んだ)の違いに戸惑う。

    「同性愛者は、人間なのだ」「人間に固有の暴力がもたらす運命の前に他のあらゆる人間と等しく孤独で、脆くて、取るに足らない存在であるという点において同じ人間なのだ」「人間性に殺されうる彼らは、人間性に駆逐されうる彼女らは、人間らしさを分かち合っているのだ」

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    投稿日:2023.03.25

  • 淳水堂

    淳水堂

    読書会に参加しました。
    みなさまありがとうございました。


    ===
    セネガルの大学でフランス文学を教えるンデネ・ゲイェは、ガールフレンドのラマから、墓場から遺体が掘り起こされて暴行される動画を見せられる。
    「どうって言われても…こんな扱いを受けるのはこの遺体がゴール・ジゲンってことだろう」というンデネの言葉に怒って出ていくラマ。ンデネは改めて動画に向かい合う。

    「ゴール・ジゲン」とは、ゴールが男、ジゲンが女という意味で「男でも女でもなく、男でも女でもある(P133)」同性愛者を示す言葉だ。
    セネガルは人口約1,700万人のうち96%がイスラム教徒だ。イスラムでは人間には神が決めた役割があり、同性愛者は神に背く禁忌でありあらゆる迫害を受ける。
    動画で墓場から掘り起こされて暴行を受けた遺体の主も、同性愛者だと言われていたのだ。
    だが本当に同性愛者なのか?同性愛だからといって人間の価値が変わるのか?ンデネに新たな疑問が湧き上がる。

    全編通してセネガルにおけるゴール・ジゲン(同性愛者)への敵意の激しさが現れている。ゴール・ジゲンは病気ですら無い。病気なら神の意志があるからだ。ゴール・ジゲンたちは現場を抑えられたら私刑に合い、「土地が汚れる」と言われて埋葬もされず、その身内も社会から追放される。
    だがそれは、誰かを失脚させたければ「同性愛者に好意的」という噂を広めるだけでよかったということだ。そんな噂をたてられるような人間への差別は正義だった。

    ンデネはラマとの性行為に夢中になる異性愛者であり、初めはゴール・ジゲン差別へも関心が薄い。それはンデネの教職への関心の薄さとも重なっている。教職についた三年前は、セネガルの外国文学教育への関心の薄さを憂い、教育改革への熱い志を持っていた。だが文学へも、大学内の権力争いにも、閉鎖的で抑圧的で権威主義の教育方針にその気持ちは冷めきっていたのだ。

    だが遺体暴行動画を見たこと、ンデネの研究対象であるヴォルテールが同性愛を理由に授業対象から外されたこと、そしてンデネの父で厳格なムスリムで同性愛者への嫌悪を持つシェエー・マジムゥ・ゲイェがゴール・ジゲンに同情を示したと悪意の噂により社会的に失脚したことなどから、ゴール・ジゲンを一人の人間として見るようにと変わっていく。

    ンデネは、ラマの友達で人権主義活動者のアンジェラの紹介で、暴行された遺体の青年の家を訪ねその母親から話を聞く。
    ンデネは、「罪深いゴール・ジゲン」ではなく、アマドゥという一人の青年、ヴォルテールという素晴らしい詩人として人間を見るようになるが、それはセネガルでは彼自身も失職へと導く危険な考えだった。

    ところどころ見えるイスラムにおける宗教行事や立場なども興味深かった。
    イスラム信徒の中でも、「イマーム」という指導者が信徒たちへの説教を行い、どうやら大きな権威と名誉を持つようだ。広い場所での説教などイマームの声が届かない場合は、「ジョタリカット(伝える人・渡す人)」がイマームのメッセージを人々に伝える役割を果たす。ここで伝えるのは「言葉そのもの」ではなく「メッセージ」であり、そのためイマームの説教を繰り返すのではなく、言葉は変えてその真意を広める役割だ。
    マホメットもイスラムの「預言者」ですからね、キリスト教もそうですが、神が直接現れないので「神の言葉を預かり伝える者」が必要になる、それが現世でも宗教リーダーである「イマーム」の言葉を「ジョタリカット」が伝える、という流れなのかな。

    …本書に戻り。
    街では、野外コンサートであり、集会である祝祭の「サバール」が行われる。群衆は踊り歌い集団の熱狂に身を浸す。
    そこまで差別されるゴール・ジゲンだが、一目置かれる人物もいる。小説では、サバールを仕切り、集団の熱狂を操る人物として、ゴール・ジゲンと言われているが一目置かれているサンバ・アワという女装者が出てくる。人々を熱狂させ、社会的に地位のある人間たちとも繋がって入るが、妻子からは縁を切られ、薄氷を渡るような生き方を送っている。

    この本で書かれているのは「イスラム社会で差別される同性愛者」の過酷さと、それに疑問を持つ人々葛藤や、気がついた後の生き方の模索だ。
    しかしこれは国や時代が違っても十分にあることだろう。誰かの粗探しをして、悪意の噂を広め、社会的に抹殺する。
    題名の「純粋な人間たち」とは何を意味するのか。
    人を一人の人間として見られるのか、「過ち」に気がついたら自分はどうするのか。
    イスラム社会を通して全世界普遍の人間の葛藤の問題を書いた小説。
    <僕はかねてから、人間性というものはその人が暴力の円環に足を踏み入れた瞬間から揺るぎないものになると考えていた。加害者として。被害者として。狩る者としてあるいは狩られる者として。殺すものとしてもしくはその餌食として。家族がいるからとか、感情があるからとか、悩み苦しむからとか、仕事があるからとか、ともかく、ささやかな喜びとわずかなやりきれなさとたずさえて人並みの人税を送っているのだから同性愛者も同じ人間だ、というのではない。人間に固有の暴力がもたらす運命の前に他のあらゆる人間と等しく孤独で、脆くて、取るに足らない存在であるという点において同じ人間なのだ。同性愛者は純粋に人間で、それは彼ら彼女らがいつ何時、人間らしい愚かしさによって命を奪われ、暴力に屈従させられるとも知れない存在だからであり、しかもその愚かしさを覆う幾多の歪んだ仮面は様々な名で呼ばれる。文化、宗教、権力、富、栄光…。P143>
    ===


    …現在の若い作家が現在の社会問題を書いた小説で、翻訳では会話は現代用語や口調になっている。そのため、我々と同じ「動画を見る」現代の人間が、誰かを同性愛者だと噂をたてて殺す(社会的な意味でも、実際の意味でも)ということことへの異質が浮かび上がり、読者も自分のこととして捉えられるのだろうが…、
    …、すみません、私には現代日本文学が大変苦手で、現代口調の小説はむしろ避けているので、私個人には読み辛かった…orz




    苦手な理由…時代や国や宗教が違っても小説を読んで「分かる」ことはある。しかし「現代日本人なら分かるよね」というお約束の上に書かれた小説の感覚や口調が「分からない」と、社会からの疎外感を覚えてしまうの(´;ω;`)
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    投稿日:2023.03.21

  • Chisa

    Chisa

     セネガルで、同性愛者(と噂された)の男性の遺体が村の人々によって墓から掘り起こされ、その動画がインターネット上に出回った。皆と同じ墓地に埋葬することを拒絶された母親は、腐敗していく我が子の遺体をたった一人で家の庭に埋葬した。一連の出来事を知って感情を揺さぶられた若き文学教員は、しかし、自分の動揺の原因がわからない。当たり障りのない授業を繰り返すだけの淡白な日々だったのに、この一つの事件になぜそれほど興味を掻き立てられ、執着してしまうのか。それまでまったく疑問を持たなかった同性愛=罪という認識は、本当に揺るぎないものなのか。どうしても薄れない動揺の原因を探るため、バイセクシャルのセフレ、厳格なイスラム教徒である父、遺体を掘り起こされた男性の母親、懇意にしている教員の上司たちと対話を重ねていく。実際に起こったセンセーショナルな事件を元にした物語。

     作者は30代のセネガル人の詩人。この本では同性愛者への暴力やリンチなど衝撃的な出来事が起こる一方で、イスラム教の伝統的な集会や同性愛者たちの祭典の艶やかな様子が美しい文体で描かれて、さすが詩人という印象。先日、イランに住む友人が、イランは景色も国民の心も美しい国だと感じる一方で、独裁国家によって生活が困窮しているという苦しい側面もあると嘆いていた。セネガルも同様で、作者はその二面性を鮮やかなコントラストで表現していると感じた。

     「同性愛=罪」という、それまで当然のことと思っていた認識が揺らいだときの主人公の心境が綴られた箇所が最も心に残ったので、以下に引用する。

    ---
    少し前は、僕はまだ他の大半のセネガル人と同じだった。同性愛者を毛嫌いしていて、存在自体が恥ずかしいような感覚さえあった。嫌悪していたのだ、要するに。今もまだそうなのかもしれない。なぜかといえばつまるところ、この種の嫌悪感は自我の極めて奥深いところに根を張っているからで、ことによると母の胎内で臍の緒に絡みついたのかもしれない。でも確信していることがひとつあった。たとえ僕の同性愛者嫌悪が変わっていないとしても、過去の自分にはできた――そしてやっていた――こと、すなわち同性愛者が人間である事実を否定することは、現在の僕にはできなくなっていた。同性愛者は、人間なのだ。誰に憚ることなく人間の一員を成しているのであって、根拠はごく単純だ。同性愛者は人類の暴力の歴史の一部なのだから。p.142
    ---

     自分の根底にある同性愛嫌悪が変わらなくても、行動は変えられるし変えていくべきなのだと思う。本当にいろんな人が共に生きている今の世界で、争いや対立、互いを傷つけてしまうような状況を生まないためには、本当のところどう思っているかはさして重要ではなくて、自分とは違う価値観や主義主張を持った相手と対峙したときにどういう対応をすることができるかが大切なのだと思った。根底にある自分の芯のようなものまで変える必要は、たぶんない。
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    投稿日:2022.12.28

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