【感想】日本でわたしも考えた:インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と

パーラヴィ・アイヤール, 笠井亮平 / 白水社
(13件のレビュー)

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  • yonogrit

    yonogrit

    2277

    インド人女性ジャーナリストが日本に住んだ感想を書いてる本面白かった。インドは女性があまり表出てこないからインド人女性の視点で書かれた本て珍しいと思う。やっぱり日本の魅力は四季のある自然とトイレの綺麗さと高機能さと治安のよさと禅らしい。アイヤールさんは俳句に日本文化が詰まってるって言うのが分かってるのが凄いなと思った。俳人の小林一三の俳句が好きらしい。私も俳人は芭蕉と小林一三が好き。

    松本人志の件は違法性が無いのに叩かれてるのからわかるように、事実とか正しい事よりもその人の印象とか自分が好きか嫌いかで人のことをいじめる人が日本に多いの見てたら、日本で同性カップルで子供なんて無理だよ。

    日本のすごさってトイレに表れてるらしい。確かに海外で綺麗なトイレだとしても日本より綺麗なトイレは見たことない。

    パーラヴィ・アイヤール
    インド出身のジャーナリスト、作家。デリー大学ならびにオックスフォード大学を卒業後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、南カリフォルニア大学で修士号を取得。インドを代表する英字紙『ヒンドゥー』の北京支局長およびジャカルタ特派員、インド有力経済紙『ビジネス・スタンダード』の欧州特派員を務めた。中国での特派員経験を綴ったSmoke and Mirrors(2008)、異国での育児と執筆の両立をテーマにしたBabies and Bylines(2016)、北京とニューデリーの大気汚染問題を取り上げたChoked!(2016)などの著書がある。2014年には世界経済フォーラムの「ヤング・グローバル・リーダーズ」の一人に選ばれた。EU代表部に勤める外交官の夫の日本赴任に伴い、2016年から20年まで東京に滞在。現在は夫および二人の息子とともにスペインのマドリード在住。

    日中関係の浮き沈みをフォローするなかで、わたしが何度かインタビューをする機会があった相手に、中国研究が専門の川島真・東京大学教授がいる。彼が言うには、日本人の対中観は世代によって分かれるという。強大な中国が現実に存在する状況で育ったミレニアル世代は、巨大な隣国に対してポジティブな印象を抱いている。それ以外の世代にとっては、中国の成長は日本の停滞を実感させる、不安な要素なのだ。日本がバブルの繁栄を謳歌している一方で中国は後進的な農業国として苦闘していた時代を覚えている者は、豊かで台頭し、戦略地政学的な要素を支配する能力を持つに至った中国による「ニューノーマル」から切り離されたような感覚を抱くことが少なくない。彼らはこの違和感に向き合うのではなく、納得できない状況に直面したときの日本人に見られる定番の現実逃避的な対応を取る傾向があった。「見なかったことにして、これまでどおりに続けていく」のである。

    さて、さらに魅力的な発見を紹介しましょう。今回の話を教えてくれたのは、ハシ・ユージローさんという方です。日本語で「三国」が「全世界」を意味していた時代がありました。それに従えば、「あなたは全世界でいちばんの美人です」と言うところを、「あなたは三国一の美人です」と言い、同じことを意味していたのです。魅力的なのは、この「三国」というのは日本自身、中国、そしてインドを指しているということです。この三カ国が、かつての日本人が思い浮かべる地図では世界のすべてだったということ。この言い回し(現在では古めかしく感じられますが)は、「三国一の○○」という使われ方をします。「三国一の花嫁」という言い方は、現在でも結婚式で使われているのです(4)。

    小学生がバスに乗り込み、地下鉄駅で乗り換えをし、大通りを歩いて行く──何人かと一緒というときもあるが、多くの場合は一人で──という通学風景がわたしにとって当たり前のものになるには数カ月かかった。これまで住んだ大都市ではどこでも(ニューデリー、ロンドン、ロサンゼルス、北京、ジャカルタ)、そんなことは考えられなかった。しかし、日本では、清潔な公衆トイレと並んで特段珍しいことではないのだ。

    天使のように愛らしく、大人の腰くらいの身長でしかない小学生が一人で地下鉄を待っている様子を撮影した写真をフェイスブックに投稿したことがあった。すると数時間で、友人から驚きと羨望が交じったコメントがいくつもついた。「デリーじゃ、うちの十三歳の子どもが七分で着くバスの停留所に行くときだって送っているよ」とある人がコメントすれば、こんなコメントも届いた。「うちの子を公園に行かせるときは、必ず『ガードマン』を何人も付けるね」。するともう一人からは、「そもそもなんだけど、子どもたちを公園に行かせること自体もうしてないの。本来あるべき姿を考えると、悲しくてフェアじゃないって気持ちになるけどね」。

    もう一つある。公共交通機関がとにかく優れているのだ。電車は定期的な間隔かつ、驚くほどの厳密さで定刻どおりに運行されている。鉄道会社は、電車が早く──と言ってもわずか数秒間──発車する事態が生じただけでも、厳正に対処するほどなのだ(二〇一七年十一月には、東京とつくばを結ぶ特急電車が午前九時四四分四〇秒ではなく、二〇秒早い九時四四分二〇秒に発車してしまったというニュースがメディアをにぎわせた。鉄道会社は、運転士が「発車時刻をしっかりと確認せずに発車の操作を行った」として、「心から」お詫びすると発表した(8))。

    だが、日本の子どもたちがこれほど単独で行動するのを可能ならしめている最大の要素は、大都市ではなく村の文化を思わせる、コミュニティに対する共通の信頼感だろう。このテーマについて調べていくなかで、『アトランティック』誌に掲載された記事を見つけた。そこでは、文化人類学者のドウェイン・ディクソンによる次の発言が引用されていた。「(日本の)子どもは、コミュニティのメンバーに対して何かを頼んだり人を助けてくれるようお願いしたりしてもいいということを小さい頃から学ぶのである(9)」

    単独でバス通学をする子どもたちに降りかかる最悪の事態──これがまたよく起きるのだ──は、弁当箱を置いていってしまうことだ。どんな国でもこれが続けば、替えの弁当箱を買うために親の財布から現金が弁当箱業者に流れていくことを意味する。ところが、日本は「なくしものが必ず見つかる」国なのだ。

    プリーティは交番に届出をしてはどうかとアドバイスしてくれた。当時のわたしには、これは少々不可思議な提案に見えた。何かをなくしたときに警察に行く? どうしてまたそんなことを? インドで警察と言えば、賄賂を渡して自分に関わらないようお願いする存在だ。中国の警察官は感情を表に出さない官僚的なタイプだった。

    世界のほかの人びとと比べて、日本人が道徳的に優れたDNAを持っているのだろうか? この説を程度の差こそあれ過激にしたかたちで持ち出す日本人は大勢いるが、この件に限らず、わたしは遺伝学による決定論的なロジックには以前から与していなかった。そこで、ほかの理由を考えてみることにした。すしをたくさん食べることで人格的に優れた人間になれるだろうか? 禅宗による文化的影響だろうか? 落とし物が戻ってくる割合が高いのは、単にどこでも交番が簡単に見つかり、拾った人が届けやすいというだけではないだろうか(14)?

    日本にはいくつもの「層」があることは間違いない。それをすべてめくって確かめるという作業は、おそらく一生分の時間が必要になるだろう。だが日本に着いてすぐに、ここは特別な所だということがわかった。これほどまでに先進国の快適さと、人類学的な魅力にあふれる西洋化の度合いが低い社会の複雑性が共存する国をわたしは知らない。日本はヨーロッパでもなければ完全にアジア的というわけでもない。このことは間違いなくはっきり確認することができるが、その一方で非常に混乱させられるものでもある。多くの日本人も含め、数々の「専門家」が一見ユニークに見える日本の特徴について研究書を何冊も著してきた(20)。わたしはそうした「罠」にも、それが称揚する熱狂的愛国主義にもとらわれたくはない。どの国もユニークだし、それはとどのつまり、本当の意味でユニークな国というのはどこにもないということでもある。だが、日本はあらゆる意味で特別な国というわけではないかもしれないにせよ、気になって仕方がないほどそれに近い存在ではある。そして、そのような国に四年間住むことができたのは、間違いなく特別で恵まれた経験だった。

    「キン」は「金」、「ツギ」は「つなげる」という意味だ。しかしナカムラさんにとって金継ぎとは、単なる実務的な作業などではない──もちろん、対象物の寿命を長くしていることは疑いのない事実だが。それは人間の直感レベルからもたらされる、一つの哲学なのだ。「わびさび」の概念を具現化したものだと言える。 日本について深く探求していく際に必ず直面することになる難解な概念があるが、「わびさび」はその一つだ。それは日本の自己認識の基礎をなす概念であり、禅と不可分の関係にあることで、言語化による説明を困難にしていると言えるかもしれない。理性的というよりは直感的で、理解するのではなく感じることを重んじる──禅は謎めいた教えに満ちている。

    鈴木は禅についてこう説明している。禅とは、「実践的な」中国人の気質に合わせるかたちで、インド仏教をより実践的かつ哲学的ではないものにしたものというのだ(23)。 以前からわたしは、インドと中国の共通性を示すものとして仏教を強調することは、両文明に存在する根本的な違いをかえってわかりにくくすることになると主張してきた(24)。仏教を含むインドの宗教は存在論や認識論がその核にあることからわかるように、形而上学にどっぷりと浸かっている。魂とは何か? 何かが真実であるということは、どうやってわかるのか? 帰納法と演繹法を比較して論じるにはどうすればよいか? こうした問いに対する解答の探求が、さまざまな学派間で活発な討論を可能にし、インド文化に議論の伝統を根づかせていった。インドの自己イメージにとって、領土の一体性や帝国に関する概念は、形而上学的思考ほどに重要視されてこなかった。その結果、インド文明は地理的な実体というよりは概念的な存在だったのである。

    インドはブッダを生み、中国は孔子を生んだが、日本でもっとも引き合いに出される思想家は千利休ではないだろうか。十六世紀の茶人だ。 日本を知るに当たって茶会について理解を深めることは、中国理解に際して『論語』を読むのと同じくらい重要なことだ。茶道にこそ日本の哲学的鼓動が鳴り響いているからである。茶会には複雑な決まりごとがあり、その多くはきわめて微細なもののため、素人の目には判別することができない。茶の湯を眺めたり器を適切に持ったりするときの微妙な所作。茶を飲むという経験をより味わい深いものにする、古典文学や季節に合わせた詩について折に触れて話題にすること。茶器の手触りやそのほかの道具の質について自信を持って批評できるだけの陶器に関する知識──これらすべてが茶道において重要な要素なのだ。

    それにもかかわらず、何年も時間をかけて必要な所作を学び、習ったことが身体に染みわたり、意識する必要がなくなる段階まで続けていかなくてはならない。わたしはフランスの批評家、ジョルジュ・デュテュイが禅の影響を受けて描いた絵について記した言葉を思い出した。「竹を一〇年育て、自らが竹になり、絵を描いているときは竹のことをすべて忘れる(27)」。

    禅の導師は秘伝的で不合理という点で優れた哲学者ではないかもしれないが、彼らはみな芸術家だった。これは、日本思想の美学的基盤を理解する上でも重要な側面ではないだろうか。茶会とは、芸術であると同時に哲学でもあるのだ。同じことは、書道や絵画、詩、華道、香道、武道といったほかの日本の伝統文化についても当てはまる。こうした各分野を追求することは「道」(中国の「タオ」からもたらされたものだ)と呼ばれる。茶道、書道、華道、香道、剣道、といった具合だ。

    こうした「道」に共通しているのは、禅の思想が中心にあること、反復に重きを置いていること、結果ではなくその時々の瞬間に焦点を当てていること、簡潔を指向する点だ。十五世紀から十六世紀にかけての時代には、禅は日本の社会と文化に深く根ざすようになっていた(28)。しかし、問題が一つあった。禅はアイデンティティに関わる問題を伴う文化だったのである。

    何世紀にもわたって、日本は文化的世界の中での自国の位置づけをめぐる不安を抱き、落ち着かない状態が続いてきた。「ミドル・キングダム」たる中国は、中央に位置し、強大で、洗練された文化の源であり、技術的に発達していて、壮大な存在だった。禅そのものから日本語の表記方法、陶磁器、紙、文学まで、日本のものはすべて中国からもたらされたかのようだった。この文化的流れに対抗する例外は、扇子だけだった(29)。

    千利休(一五二二‐九一)のような茶人は中国のような壮大さの誇示をよしとせず、畳が数枚敷かれ、それに囲まれるかたちで炉を配置した、田舎のこぢんまりとした家屋を思わせる茶室を作り上げた。彼らが用いたのは、質素でごつごつとした茶碗だ。壊れた場合には、修理して再利用された(33)。

    午後の時間がゆっくりと過ぎていき、三杯目のお茶を飲み始めた頃、ナカムラさんは長い沈黙に浸っていた。数カ月前だったら、わたしはこの状況をひどく居心地の悪いものだと受け止めていただろう。日本に来る前まで、対話相手が話をしてくれないということは退屈さの表れだと感じることが多かったからだ。だが、徐々にではあったものの、沈黙に対する日本人の「一風変わった」心地よさ──自分のようなおしゃべり好きなインド人にとってはそう感じられた──を受け入れられるようになっていた。 人に名刺を渡す際、わたしは相手がそれを見てすぐに反応してくれることを期待していた。ところが、日本人は気の遠くなるほど長いあいだ名刺を見つめたかと思うと、丁寧にしまうだけだった。多くの場合、何かしら言葉が発せられることはなかった。

    「読書は好き?」というような、答えに困るものではない。しかし、待って、待って、返答よりも長い時間を待たなくてはならない。しかも、熟考の末に返ってくるのは「いいえ」という、あまりに素っ気ない言葉だけなのだ。 こうした沈黙は敵対心の表れではないことがわかった。何か問題があるものとして受け止められたわけでないのだ。言うべきことが何もないという場面は頻繁にあるが、それでも人はとにかく何か言ってみるというのが多くの文化で見られる。だが、日本ではそうはいかないのだ。日本研究者のなかには、この特質の背景には──想像がつくと思うが──禅があると考える者もいる。たとえば松山の愛媛大学で応用言語学を教えるロジャー・デイヴィス教授は、禅においては「英知と力強さは人間の概念を言語化したものではなく、沈黙の中に表れるため、日本人は言葉よりも沈黙を重んじるのだ」と主張している(34)。鈴木大拙もこれと似た認識を示しており、知的生活における日本の特徴は「観念の豊富化」や「派手でもったいぶった思想の配列や哲学大系のたてかた」にあるのではなく、「心を安んじて静居し」、「環境全体と同化して、それで満足すること」〔北川桃雄訳〕にあるのではないかと指摘している(35)。

    ある時、日本酒にも造詣が深いあるワインの専門家が私にこう言ったことがある。最も洗練された日本酒は(中略)雑味が取り除かれてサラサラした水のような飲み口になるのだ、と。「ワインはそこにあるもので定義されますが、日本酒はそこにはないもので定義されるのです。それは言葉とよく似ています。私たちは間や沈黙を置くことで、そこにない何かから言外の意味を汲み取らせようとします。最も上質の酒もそれと同じで、ほとんど自己主張をしないのです

    ことメンタルヘルスとなると、日本は西洋よりもはるかにアジア寄りの国だ。精神疾患は恥ずべきものとされ、診断に至ること自体少ない。感情を露わにすることは慎むべきとされているのである。日本の自殺率は高く、OECD加盟国のなかでもっとも深刻だ。二〇一九年の自殺者は二万一六九人で、一〇万人あたりの自殺者は約一六人だった。これに対し、日本の倍以上の人口を持つアメリカの自殺者は一〇万人あたり一四・二人、カナダは一三・八人、イギリスは一一・二人だった(44)。 

    金継ぎは、対象物の物語をその形に刻み込むものだ。破損が生じた瞬間のこと。大事にされたがゆえに修復されたという事実。そして今後も大切に扱われていくであろうという期待──。わたしたちは誰もがどこかの時点で「壊れる」という経験をしている。そして自分が何者なのかという本質は、非の打ちどころのない対外的なイメージではなく、これまで歩んできた人生の断層に宿っているのだ。金継ぎは、わたしたちの過去を傷とともに受け止めるよう促してくれている。むしろひびがあることで、わたしたちはさらに美しくなれるということを知ってほしい、と(45)。

    三島であれ、前述したような憂うべき頻度で自殺を選ぶ日本人であれ、彼らが金継ぎをじっと見つめることで癒しを得られたかどうかはわからない。ひびがあることで自分たちがより美しい存在になれると言われても、隠遁生活を続けるひきこもりの人たちが賛同してくれるかどうかは疑わしい。日本に真に必要なのは、精神疾患に対する理解の向上、そして病んだ人びとに対するより専門的なケアだ。そうだとしても、金粉を用いた陶器の修復に内包される美学的理想の重要性を切って捨てるわけにはいかない。日本はきわめて禅的であると同時に、きわめて深い不安を抱えているのだ。この矛盾に落ち着かない気持ちを抱くのは、疑うことを知らない観察者だけだ。わたしは早い段階で、真実は一つだけでなく、常に混沌としたものだという結論に達していた。

    だからこそ、中国社会がカオスであると同時に統制されていることや、インドに思いやりと残酷さが同居していることを知っても、落ち着いて受け入れることができた。日本についてわたしが思い至ったのは、深い癒しをもたらしてくれるとともに、深く傷ついているということだった。この矛盾こそが、日本をよりリアルに感じさせてくれるのだ。月を愛でる人びとであふれる国というようなオリエンタリストが抱くステレオタイプでもなければ、仕事でへとへとのサラリーマンばかりのユーモアとは無縁のディストピアでもなければ、顧みられることのない妻や散らかったアパートでもない。両者が同時に存在するときもあれば、両者とも存在しないときもある。ほとんどの場合、真実はその間にあるのだ。

    わたしはうっとりとした気持ちで、桜で彩られた天龍寺の門に吸い込まれていった。この禅寺は、京都に数え切れないほどあるユネスコ世界遺産の一つだ。京都は日本の歴史上、ほとんどの期間(七九四‐一八六八年)にわたり首都であり続け、あこがれの場所とされてきた。わたしは東京に引っ越してからの数カ月で日本の美学についてとにかく多くの書物を読んできたため、京都を訪れる前から京都を懐かしむようにすらなっていた。このような一直線でない時間軸を感じるようになったのは、「俳聖」松尾芭蕉(一六四四‐九四)の影響かもしれない。芭蕉は京都について、こんな句を詠んでいる。

    京にても京なつかしやほととぎす 

    この句に出会ってすぐのタイミングで、わたしは子どもの春休みに合わせるかたちで四月第二週に京都への家族旅行を計画した。この予定を友人に伝えると、京都をきっと気に入るでしょうと異口同音に言ってくれたが、桜の季節から外れてしまうのは残念ですねと付け加えた。その年の桜は三月下旬に開花する見込みだった。桜が満開になるのは数日しかなく、「見頃」は一週間から一〇日間程度だ。花が咲く期間の短さとそのはかなさによって喚起される哀愁感から、数え切れないほどの俳句と哲学的論考が生まれてきた。

    一週間の中で、わたしは家族や友人と一緒に何度か花見に参加した。なかでもすばらしかったのは、桜の傘の下に幾千もの墓が並ぶ青山墓地での花見だった。当初、わたしはこのような重苦しい場所でお祭り騒ぎをすることに少々落ち着かない気分になったが、日本では神道の神は日本酒をお供えしてもらうのを好む──日本人のご先祖さまがそうであるように──のだからと自分に言い聞かせた。墓地のお供え物で、花や線香のほかに缶ビールやカップ酒があるのを目にするのはよくあることなのだ。

    東京の夏は規格外の暑さだ(インド人のわたしがそう言うのだ)。高い湿度で身体が強ばって動けなくなるほどで、スイカと桃をたらふく食べることを許されてようやく動く気になれた。日本の果物は八月の暑さのレベルと同じくらい甘い。だが、果物の季節は虫が出る季節でもある。とくにセミは幼虫の状態から脱皮し、一週間にわたり熱い繁殖活動をするのだが、七月から九月上旬にかけて、鳴き声の大合唱で東京の夏を音の面から支配する。セミは飛び抜けて魅力的な生き物というわけではない(薄くて軽い羽根はついているが、ゴキブリに似たところがある)。だが、その存在のはかなさは桜と同様に「もののあわれ」を感じさせるもので、多くの俳句の素材になってきた。芭蕉の句を二つ紹介しよう。

    禅の指導者、鈴木大拙をはじめ当の日本人も、「自然との距離の近さ」は日本を日本たらしめている要素の一つとする見解を以前から示してきた。こうした論考は「日本人論」としてくくられる。このジャンルは主に二十世紀の現象だったが、その起源は十九世紀に日本が西洋列強と接触した頃にまでさかのぼる。実のところ日本人論というのは、古くから行われてきた日本人によるアイデンティティの希求に対する反応としてとらえることが可能なのだ。この希求は、中国に対する文化的劣等感によって常に複雑な状態であり続け、近代化する西洋についての情報が広がっていくことでいっそうかき立てられることになった。

    しかし中国とは異なり、日本では共産革命は起きず、美学が内蒙古で肥やしにされて再教育を受けさせられるような事態はまぬがれた。もし毛沢東がいなかったら、中国も現代日本のようになっていたかもしれない。日本では古典の伝統が生き残っているが、中国では根こそぎ粉砕されてしまったからである。

    日本では、この国をかたち作ったのは四季だと考えられており、それが真実になったのではないかと思う。他のアジア諸国とは異なり、日本は植民地になったことがない〔タイも植民地支配を受けてはいない〕。そのため、反帝国主義が国家アイデンティティにとって不可欠な基盤の一つにはなり得なかった。中国人は十九世紀のアヘン戦争がもたらした屈辱によって団結した。インド人はマハートマ・ガンディーが主導した独立闘争によって結束した。インドネシアの多様な民族は、かつての統治者だったオランダ人の度を超した人種差別を誰もが「記憶」していた。

    他の多くの先進国とは異なり、日本は文化多元主義を受け入れようとはしてこなかった。この国には約二五〇万人の外国出身者がいるが、これは総人口のわずか二パーセントでしかない(58)。難民受け入れについて、日本政府はとくに慎重な姿勢をとっている。本書ですでに触れたように、二〇一九年に日本で難民認定申請をした者は一万三七五人だったが、そのうち認定された者は四四人だったのだ。

    海外で日本人が経営する店では「Japanese Only(日本人専用)」の貼り紙や看板が掲げられているケースすらある。たとえばインド南部の都市ベンガルール(バンガロール)のあるホテルは、利用できるのは日本人に限っていることを理由として、インド人客へのサービスを断っていたことが明らかになった(71)。 わたし自身は「外国人お断り」といった類いの貼り紙や看板に遭遇することはなかった。ただ、ジュリオの同僚の一人が京都のレストランで、店の外にこう書かれた貼り紙があるのに気づいたという──

    帰国子女がいじめの対象になることは、夏の後には秋が来ることのようにごく当たり前のこととして受け止められている。わたしはこの問題を取り上げた学術的な記事にいくつも目を通すなかで、恐怖が込み上げていった。いくつか例を紹介してみよう。

    「箸は持てて、それを使って料理を食べられれば十分」という中国に慣れている者にとっては、こうしたルールをすべて頭にたたき込んでおくことはかなりしんどかった。

    もう一つの要因は日本の犯罪率の低さだ。自販機が略奪の対象になるなどということはまず起きないので、ときどきメンテナンスをするのを別にすれば、オーナーは追加で投資する必要はほとんどない。わたしの脳裏をよぎったのは、かつてインドのジャイプルで聞いた、一見関係のなさそうな事件だった。大手IT企業から公立校にパソコンが寄贈されたとのことで、それが学習プロセスにどのような変化をもたらしているかを取材しようと、わたしは現地を訪問した。そこで気づいたのは、校内で飲み水が出るのは、壊れた蛇口の水道が一つあるだけということだった。蛇口から一日中ぽたぽたと水が落ちていくということは大変な量の水が流れ落ち、無駄になるということであり、ジャイプルのように水資源が限られている都市では犯罪的とすら言える状態だった。なぜ蛇口を直さないのかと学校に尋ねてみたところ、返ってきた答えに愕然とさせられた。 蛇口を修理するたびに何者かが夜に壁を越えて学校に侵入し、くず鉄として売り払うために蛇口の金属部分を壊して持ち去るのだという。その学校では、施錠しておかない限り金属製品にはそうした事態が必ず起きるとのことだった。マンホールのふたからトイレの部品まで、どんなものであれ、あらゆるものが対象になる。公共意識や環境保護、さらには社会一般のモラルについてどれだけ進歩的な議論が交わされても、貧困や資源の稀少さの前には役に立たないことに強い衝撃を受けた。

    最後に、日本で自販機がこれほど多いことの理由としてあまり深く掘り下げられてこなかった側面について指摘したい。それは、スマートフォンと同様に、自販機は人とやりとりすること──日本人の多くが苦手のように見える──が不要になるという点だ。本書ですでに述べたように、日本には一〇〇万近い人びとが「ひきこもり」に分類されている。機械が相手であれば、店員と話をする必要からは解放されるというわけだ。

    インド人は儀礼上の純潔性と個人の衛生に強くこだわる一方で、公共空間での清潔さに対する責任感となると、衝撃的なほどに欠けているのだ。自宅から相応の距離があるところであれば、道路脇で小便をしても許されてしまうのだから。

    自分が小さい頃の記憶でも、人が車の窓を開けてビニール袋を投げ捨てる光景がいくつも見られた。デリーの通りの壁には尿が染みつき、そこから発生する悪臭もびっしりと記憶にこびりついている。人びとはごみや人糞を嫌悪するあまり、自分たちできれいにすることなどできないほど汚れがこびりついていると考えている。それでいて、彼らはごみが放置された環境で、食事をし、笑い、デートを楽しんでいるのだ。

    日本人は宗教に対し、曖昧な向き合い方をする傾向にある。二〇一三年に行われた「日本人の国民性調査」によると、回答者のうち七二パーセントが信仰する宗教はないとしていた。二〇一五年の「日本版総合的社会調査」でも、宗教はとくに信仰していないと答えた者が六八・六パーセントにのぼった。その一方で、文化庁が毎年行っている宗教統計調査の二〇一五年版では、神道系の信者が八九五〇万人、仏教系の信者が八八七〇万人、キリスト教系の信者が一九〇万人、「諸教」の信者が八九〇万人となっており、これを合計すると一億八八九〇万人で、日本の総人口の一・四九倍に相当する(121)。日本についての有名サイトの表現を借りれば、この状況をひと言で表すと、日本は世界でもっとも信仰心の篤い無宗教国家なのである!(122)

    大半の日本人は、儀礼を重んじる一方で、神学理論には関心を払わない。篤い信仰心を持たない者が祭りの際に神社を参拝するといった宗教的行動をとるのは、珍しいことではない。儀礼に参加するかしないかは、宗教的信仰心よりも、行事の内容によって左右される。神道の儀式に則って赤ちゃんの成長を祝い、キリスト教式で結婚式を挙げ、仏式で埋葬されるのは、ごく一般的だ。

    日本文化には、インド人が本能的に理解できる部分が多くある。中国とは異なり、日本では共産革命は起こらず、そのため過去から切り離されることもなかった。宗教行事があちこちで行われ、寺社が今日でも存在していることは、インドとの共通項なのだ。

    直近五人の首相に見られたように、すぐに忘れ去られてしまうことはなかった。とはいえ、彼の名前が歴史に刻まれるのは間違いないとわたしは考えるが、卓越した成果を伴ったものではないかもしれない。長期政権を築いたという点では「優」だが、それ以外はよくて「可」という評価にとどまるのではないか。 安倍首相は二〇一二年に再度政権の座に就くと、景気上昇に向けた一連の経済改革を優先課題に据えた。「アベノミクス」の名で知られる経済政策は、民間投資を促進するための金融緩和、財政出動、規制緩和という三本の矢からなっていた。時を二〇二〇年初めまで早送りすると、その後に起きる大混乱の前の時点でさえも、日本経済は弱々しいままだった。日本企業は二十一世紀のテクノロジーをリードする存在に生まれ変われていなかった。そして、安倍首相のもとで経済成長と失業率の低下がもたらされはしたものの、日本は低成長と巨額の財政赤字、デフレという罠から脱却できない状態が続いている。

    いくつかの面で、そうした指摘は現実とはかけ離れている。まず、なんと言っても日本では女性を取り巻く環境は安全だ。たとえばインドのような国とは異なり、女性は家の外で堂々と振る舞うことができる。着たい服を自由に着ることができる。好きなものを自由に飲むことだってできる。国際的な規範からすると、日本の女性は性的に解放されているように見える。家庭では財布の紐を握るのは女性で、夫はそこからお小遣いをもらうのだ(180)。

    日本にとってより根本的な問題は、職場で女性の数が少ないことではなく、男女を問わずワークライフバランスの実現を表面上だけですらきわめて難しくする、過酷な労働文化にあるように思われた。オーバーワークの文化は女性を経済活動から遠ざけてきたことに加え、きわめて低い水準にある日本の出生率を上昇させるという点でもほとんど役に立ってこなかった。その結果、多くの日本人が子どもを持たないか、そもそも結婚しないようになってきている。そして、オーバーワークによって従業員の生産性が高まるわけではなく、逆にストレスを強める結果をもたらしている。二〇一八年に日本の一時間当たりのGDPは四七ドルで、韓国よりは高いがG7諸国のなかではもっとも低かった(189)。したがって、日本に必要なのは労働のあり方を根本的に見直すことだと言える。労働時間の短縮化と効率化によって、男性も女性も、そして家族も恩恵を受けることができるのではないだろうか。

    わたしにとって日本でいちばん好きなものがトイレなのもそのためだ。

    こういう本が出るようです、と担当編集者から原書について相談を受けた際、まず目を引いたのは、著者のパーラヴィ・アイヤール氏がインド人であるという点だった。インドやパキスタンを中心とする南アジア地域を著述や翻訳、研究のフィールドにしているわたしにとって、気にならないわけがない。だが、そのことを抜きにしても、インド人による日本滞在記はあまりなく、多くの読者にとってもユニークな内容になるのではないかという期待があった。その道をとことん極めようとする日本の「職人」精神と、即興の対応で課題をフレキシブルに解決していくインドの「ジュガール」を比較したくだりは、なるほどとうならされた。また、インド出身で初めて地方政治家になった「よぎ」氏との対話、日本のカレーやインド映画、上野動物園のインドゾウといった具合に、インド人ならではの着眼点に基づくトピックも随所で取り上げられている。同時に、著者も日本滞在を通じて、「中村屋のボース」や東京裁判のパル判事の存在など、それまで自分が知らなかった自国とのつながりを発見していく過程も興味深かった。
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    投稿日:2024.03.27

  • ほち

    ほち

    日本礼賛でもなく、単純批判でもなく、ありふれた日常を独自の視点で読み解いているのが面白かった。ただ、すごくエンターテイニングな本というよりは、知的な随筆を読んでいる感じ。

    投稿日:2023.07.27

  • komoda

    komoda

    ORIENTING
    https://www.hakusuisha.co.jp/book/b598683.html

    投稿日:2023.02.23

  • サユリ

    サユリ

    外国人による日本賞賛のコメントは食傷気味であり、そういう番組自体を恥ずかしく感じる。
    私も周りも、日常の会話から避けがちな話題を、この本では率直に、その背景から考察して論述されている。思い込みと想像だけでなく、インドはもちろんのこと、中国やインドネシアの歴史や文化等と絡み合っていて、客観視できる。

    文化も制度も多様なる中で生まれ育ったインド人に、様々な国での経験が加わった視点で日本が暴かれていく。

    日本人の根強い人種差別。
    ラグビー日本代表でも時折耳にする…日本人以外…という言葉。
    人種を意識しているのではなく、ただの見た目で判断する人がいる危うい社会。
    ハーフという言語的区別と、羨望からの苛め。

    世襲性政治に起因する、柔軟性のない社会と制度。何をするにも時間がかかる。
    女性の社会的地位が低い社会。無意識下で女性に侮辱的な言葉を使う、おじさん社会。

    本を読みながら、自分を取り巻くこの日本社会について、より批判的に思いを巡らせた。
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    投稿日:2022.11.13

  • mahalonorinori

    mahalonorinori

    インド出身の人が描いた比較文化論。
    エピソード含め、インドの人ならではの視点が面白い。江戸川区議のヨギさんの話などは印象的。

    投稿日:2022.08.25

  • 臥煙

    臥煙

    多くの海外経験を持つインド人女性ジャーナリスト。日本文化を見る目は極めて冷静。コロナ禍での日本滞在経験は視点が独特。

    外国人から見た日本文化、定番のジャンルである。しかし本書は視点、知識、他国での生活体験が相まって類似本とは一線を画する内容。

    筆者の造詣の深い俳句が時に引用され、いい味を出している。
    続きを読む

    投稿日:2022.06.29

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