【感想】ホモ・エコノミクス ──「利己的人間」の思想史

重田園江 / ちくま新書
(6件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • mamo

    mamo

    フーコーの「権力論」や「統治論」などの研究者が、「ホモ・エコノミクス」を系譜学的に検討したもの。

    といっても、これは専門書ではなく新書レベルの難易度で一般の人でも読めるレベルで書かれている。というか、著者にとっても専門分野でない「近代経済学」の歴史を自身で紐解きながら、模索しながら、テーマを探求している感じ。

    どうして、著者がこのテーマについて考え始めたかというと、著者の専門のフーコーの「生政治の誕生」における新自由主義の議論、そして、近年の新自由主義化した世界への疑問があってとのこと。その辺りは、私もほぼ同じテーマを考えていたところで、「人的資本」経営などの議論を踏まえて、ピッタリと今の私の問題意識とあっている。

    本は、3部に分かれていて、第1部はアダム・スミスに至る前の道徳哲学の議論、第2部は限界革命による経済学の科学化のあたり、第3部はシカゴ学派による経済以外の現象も経済学的に取り扱うようになるあたりとなっている。

    私の理解では、ホモ・エコノミクスは、概ね大きく3つの仮定、つまり、
    ① 人は自己の利益を最大化を目指す利己的な存在である
    ② 人はすべての入手可能な情報に基づき判断を行う
    ③ 人はすべての選択肢を比較考慮して、合理的な意思決定を行うという
    といったことが基本だと思っているが、この本では①の部分を中心に議論を進めている。

    そのあたりのところが、読んでいるときは、わからなくて、このトピックを議論するなら、②について、取引コスト、情報コストなどを取り入れた議論とか、③について、限定合理性や行動経済学の議論を触れなくていいのか?とかつい思ってしまう。

    また、新自由主義的なホモ・エコノミクスを問題とするのなら、アダム・スミスやハイエク、フリードマンの議論があまり紹介されていないのは気になるし、②と③だけでなく①の仮定も傍に置いて、マクロレベルでの議論を展開したケインズについても言及されていないのも気になる。

    そんなことを思いつつざっと読んだが、経済学に詳しい人は、もっといろいろ突っ込むところは多いのではないだろうか?

    にもかかわらず、この本の議論は、とても刺激であった。(ちなみに②と③に関するところは、この本のテーマからははずした旨の説明が最後の方にあった)

    著者は、第2部の限界革命の部分に一番力が入っていて、ここで科学というか、数学、物理学の手法を取り入れることで経済学が社会科学の中で、最も科学的な分野に見えるようになったこと。だが、違う分野のツールを導入することは本来はアナロジーのようなものであって、本当の問題を覆い隠してしまうことを指摘しようとしている。理論を単純化するための仮定でしかないホモエコノミクスが自然科学を装うことでちゃんとした科学に見えるようになるということだ。

    そのことによって、本来、単純化のための仮定でしかなかったホモ・エコノミクス(自己利己を追求する人間)が、「人間ってまあそんなものだよね」という現実理解になり、さらには「自己責任のもとにちゃんと自己利益を追求できるようになる必要がある」という規範的なものにすらなっていくという話しだ。

    ある意味、ここまで私が考えていたことと、ニアリー・イコールだ。私がこれまで知らなかったいろいろな文献を紹介いただいて、ありがとうという感じだった。

    で、私が一番、刺激を受けたのは、第3部の後半、公共選択の議論の部分。公共選択は、一時、興味を持って学んでいた領域で、私の中では、それは新自由主義とは別のものとして理解していた。

    つまり、「個人の経済的な自己利益を社会レベルで実現するために個人や組織が行動する」という前提は必ずしも公共的選択論にはないと思っていて、多様な政治的な意見(経済的な利益に関するものも含まれるが、例えば宗教的な信念とか、人種や性差別に関する意見などもある)があるなかで、どのような社会的選択がなされるのか、あるいはなされるべきなのかということに関する研究だと思っている。

    が、にもかかわらず、それが個人の自己利益最大化のホモ・エコノミクスと組み合わされると、新自由主義的な文脈の中で、小さい政府論に向けて、公共セクターの民営化への理論的な根拠になった。という指摘には、かなり説得されてしまった。(これは著者の見解というより、コリン・ヘイの見解のようだが)

    あと、資本主義の起源に「プロテスタントの倫理」を置いたウェーバーの議論は、イデオロギー的であり、資本主義の起源には奴隷労働、マルクス用語で言えば本源的蓄積という原罪があったという指摘もその通りだと思う。(これは、エリック・ウィリアムズの議論か)

    ということで、新自由主義の問題について、理解を深めるために、これから読むべき本のリストが手に入った感じである。(また積読が増えそうだが)
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    投稿日:2024.02.10

  • masanori25

    masanori25

    この著作の肝である第二部は、微積分の知識が無さすぎるため理解が十分ではないが、再読して理解を深めたい。
    著者の問題意識に強く共感する。

    投稿日:2023.11.24

  • r

    r

    思想史という分野を初めて読んだので、まだ自分が理解できてないだけかなぁという感想。勉強してみたいなという光は感じる。これを読んだ後に論語と算盤を読みたくなった。

    投稿日:2023.03.01

  • 麺とパン

    麺とパン

    新書でも論文としての学術的な内容。ただ、平易にしようという試みはあるし、通読できた。
    功利主義やリバタリアンなど、入門書を読んで次に読む本としていいと思う。

    投稿日:2022.08.30

  • tokyobay

    tokyobay

    政治思想史は後継者不足により絶滅危惧種であるという。その背景にあるのが政治学の経済学化だろう。平たく言えば「学問の科学化」である(某教員曰く、政治学の論文に数式が出てくるのは珍しくないらしい)。特に政治思想史は「思想の歴史」の学問であるが故に社会科学というよりは人文(科学)的ですらある。という意味において学生にとっては「役に立たない」学問扱いされるどころか就活に不利になる。よって人気がなくなるのは当然である。さらに言えば、本著でも触れられているように「大学の企業化」による締め付けで「文系学部不要論」が台頭しているのが著者の危機感の根本にあるのではないだろうか。既に経済学ではホモ・エコノミクスには疑義が出ているにも関わらずあえてそれをテーマとして取り上げるのは、そういった著者の倫理観に基づく抗議表明であるとも言えるだろう。
    とはいえ、本書は経済学説史をベースとし「人間の存在とはなにか」を問うている。これは本来哲学的テーマであり、そう簡単に単純化できるものでもない。しかしながら、学問領域を隔てるのは「人間をどう定義するのか」に関わっている。一般的には法学部に属する政治学科ではあるが(よって「権力」がテーマとなる)、著者出身の早稲田や現勤務先の明治では政経学部に位置付けられている。本書はそういった著者の生い立ちも関係するある種の「学際的な成果」とも言えるのかもしれない。
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    投稿日:2022.05.19

  • oldcat31

    oldcat31

     つまらないわけではないし、ためにならないわけでもないが、説明がやや詳細すぎて、主題がボケてしまった感がある。
     「経済学」を科学の領域に高めようとして物理・数学を導入した。その結果、現実離れしたホモ・エコノミクス(合理的な経済人)概念が所与の前提として独り歩きして、これが政治学にも取り込まれて、現代社会に様々な悪影響を与えている。というのがおそらく本書の趣旨であって、それには異論はないが、各学説の紹介が丁寧すぎて、著者の言いたいことが伝わる前に読むのをやめてしまう人もいるかもしれない。著者自身「だいぶうんざりしてきたかもしれない」と自認しているが、内容は悪くないだけに、わかっているならもう少し工夫をしてほしかった。
     ただ、最後まで読めば、著者の現在の「経済学」への批判意識は鋭いものがあるし、(経済学が好きなゆえに)危機感も強く伝わる。随所で見られるそこはかとないユーモアにも好感が持てる。
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    投稿日:2022.05.10

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