【感想】極限の思想 バタイユ エコノミーと贈与

佐々木雄大, 大澤真幸, 熊野純彦 / 講談社選書メチエ
(2件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • 人生≒本×Snow Man

    人生≒本×Snow Man

    端的に言うと、聖と俗の二元論の浅はかさを撃ち、思索のうちに沈静するのでなく、この世の在り方、認識の仕方を根本的に超えていこうとするバタイユ論。

    アイテムとしては、経済、死、戦争、エロティシズム、宗教を新たな文脈の元で捉え直している。

    ハイデガー、サルトル、カイヨワ、レヴィナス、モース、レヴィ=ストロースの論と対比させながら、バタイユの独自性を明らかにする。

    繰り返しがくどくなく、深みを増す言及の仕方で、人間の根源に迫った好著である。
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    投稿日:2023.04.24

  • yuzuringo102

    yuzuringo102

    バタイユによれば、内的体験とは通常、神秘体験と呼ばれているものであり、自己が脱自、法悦、瞑想的感情の状態へと至ることである。それはブランショの夜、レヴィナスのある、に重ね合わせた経験であり、そこでは主体は非知であり、対象としては、未知のものであるような、主体と対象の融合に到達する。

    非知は、脱字を伝達する。それはまず不安である、不安において肌形が現れて、それが脱字する。しかし不安が覆い隠されれば、脱自そのものも覆い隠される。それは、充足された知ではありえないから、不安の内でのみ起こりうる


    非知は、自己が自らを失って、脱自へとひらかれる。とはいえ、この脱自は、単独の自己から自発的に生起するのではない、それはコミュニケーションによってどこからか伝達されてきて、またどこかへと伝達していく、そしてこの脱自を受け入れるために主体に要請される状態性が不安

    自己を消失することへの恐れとコミュニケーションへと向かう拮抗。不安は自閉した自己を動揺させるが、それだけではまだ脱自には至らない。不安を持続させつつ、コミュニケーションを受け入れて、自己を脱字へと転回させるか

    瞬間は、主体と対象が溶解する、あるの夜、自己が脱自へと転換する、非知の夜に対応する時間性である

    認識もまた一つの操作である、それはひとが作ることができ、用いることができるものとは、既知のものであるから。認識の操作は、未知の対象を不分明な状態から引き離し、既知の概念体系へと関連づけて、主体の所有物へと還元する。

    ある主体が、何らかの対象を、他の主体に与えるという定式はそのまま贈与を無化する条件でもある

    純粋な贈与の定式は、誰でもない者が、何でもないものを、誰でもない他者に与えるというもの。それはもはや、与えるということがない贈与、自分が所有していないものを与える贈与、誰も受け取るあてのない贈与である

    沈黙が言語における不可能なものだとすれば、それは言表不可能であり、伝達不可能。しかし、伝達不可能なものの伝達だけが伝達に値する。

    共役可能なものは、ある意味では既に知られたものでしかなく、既知のものをわざわざ伝達する必要はない。逆に、もし伝達に値する内容があるとすれば、それは未知のものでなければならない。しかし、真に未知であるようなものは共訳不可能である。

    沈黙が伝達されるとき、不可能なものが、呈示され、言説の内で未完了の傷口を開く。それは、自足した言説を疑問へと投入して、異議を提起する。

    バタイユは、沈黙を再び導入する語、そもそも言説が自足しえないことを探求する
    →沈黙=傷口をひらくこと ということかな。自足した言説に疑問が投入される事態、それを沈黙だといっている


    内的体験は一方で、知の操作を徹底して極限へと至ることを要求する。しかし、この極限への到達は自らの企図によっては成就しない。体験のためには、幸運によって外部からコミュニケーションが到来する必要がある


    このコミュニケーションは主体に、深い主観性を伝達して、自足した自己は極限突きつけられ、その内に、未完了の傷口をひらく。こうして知は、非知へと反転し、自己は極限において脱自へと至る
    →非知というのは、自己が自足しえないということ、知らない世界そのもの=ことばが現前しているという事態をさすのかな。

    ★表現には、コミュニケーションに運動に呼応するものとしないものがある。後者は共役可能な既知のものしか伝達せず、伝達不可能な未知のもの、すなわち沈黙を含むことのない再生産にすぎない。それは自己の自足を揺るがすことなく、伝達された者を表現へと促すことがない。これに対して、前者は、沈黙たる不可能なものを、伝達する手段である。それはたしかに、ひとつに言説であるが、その後に沈黙が続くように用いられ、言説の内に沈黙を再び導入する、受け取ったものは、自己の傷口をひらき、表現することを強いられる。さらにまた、それは表現であるならば、今度は次なる表現を強いる。こうした表現は主体の企図に従った行為ではない。なぜなら、それは表現せざるをえないという仕方でなされるからである。このように、至高者のコミュニケーションとしての表現とは、自己を外へと押し出すことであり、脱自分
    なにである

    至高者コミュニケーションとは、不可能なものとしての贈与であった。だとすれば、その運動に相応しい表現もまた贈与であるということになる。

    ある表現が、別の表現をうながし、その表現がまた別の表現を強いたという事実で、事後的にそれが贈与であったとわかる

    なぜバタイユは書いたのか、それは書かざるをえなかったから。そして書いたもの読んだ者が、書くことへと促されるとき、あるいは書かざるをえなくなるとき、バタイユの表現ははじめて贈与になるのである
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    投稿日:2023.04.15

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