【感想】お金で読み解く明治維新

大村大次郎 / ビジネス社
(3件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • yasz

    yasz

    昨年(令和3年)の9月頃に読み終えた本ですが、今年のGW大掃除で部屋の隅っこから発掘されました。元国税調査官である本書の著者である大村氏の本は今まで何冊か楽しませてもらいました。

    歴史上の大きな戦いや現在も行われているロシアによるウクライナ侵攻にしても先立つものは「お金」であることが私も理解できるようになってきました。この本では有名な明治維新(クーデター)をお金の観点から解説を加えてくれています。切り口を変えてみるだけで、歴史を学ぶ楽しさが増してくると思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・江戸幕府は約400万石の直轄領を有しており親藩(徳川家一門)を含めると800万石で当時の領土の25%に達しており封建制度としてはかなり広い領地であった。鎌倉幕府は関東の数カ国から十数ヵ国程度でせいぜい200−300万石、豊臣政権は家康よりも直轄領は小さかった、総合的な経済力では主な鉱山や港湾を支配下に置いていたので上ではあったが(p14)

    ・家康が江戸に入ったとき、江戸に人を呼び寄せるために最初は地税を取らなかったのが町民の既得権益となってしまった、江戸では参勤交代や諸藩の江戸駐留により莫大なお金が落とされていたが、幕府は町民から税を徴収することができなかった(p18)

    ・武家の借金を帳消しにする徳政令を3回(享保、寛政、天保)行っている、3回の大きな改革の共通点である(p23)

    ・日本に自国(外国)から銀を買ってきて日本の一分銀と交換する、その一分銀を今度は金の小判で交換する。その小判を中国に輸出する。それだけの操作で100%から200%もの利益をあげることができた。日本では金と銀が1:5であるのに対して、欧米では1:15であったため(p30)

    ・薩摩藩では500万両を借りている商人たちに対して借金を250年の無利子分割払いとした、これはほとんど借金をチャラにしたものであるが、薩摩藩が琉球などで行っていた密貿易に商人たちを関与させることで説得させたと言われるが記録はあまり残っていない(p44)さらには砂糖(黒糖)の専売も財政の健全化に果たした、これは薩摩三島(大島、徳之島、喜界島)や琉球への厳しい搾取によってもたらされたものである(p45)余った砂糖と日用品の交換を徹底するため、薩摩藩は三島において通貨の使用を禁じた、通貨全廃の時島民間の借金を全て帳消しにした、さらに砂糖増産のため男子15−60、女子13−50歳以下に耕地を割り当てた。この専売制度は明治維新になっても廃止されず、明治6年3月になってようやく大蔵省により勝手売買の許可が出された(p47)

    ・長州藩は新田開発に取り組み、112万石から30数万石に減らされたが、明治2年に新政府に提出した藩の財政報告では、本領では71万石、支藩27万石と合わせて合計98万石と3倍にも増加している(p54)

    ・幕府の財政を改善させるために万延二分金を発行した、菌の含有量が60%しかないので減量分は幕府の取り分となる。それまでの貨幣の10倍以上の五千万両も大量発行された。その結果、横須賀製鉄所を建設する計画を立てられたが、世間では急激なインフレとなり経済が混乱した(p93)

    ・小栗がフランスから600万ドルの借款をしようとしていたが、どうやら北海道を担保にされていた、具体的には北海道の鉱山の採掘権であった。清は1867年にイギリスから120万両を借款した、利子は28%で返済期限は6ヶ月、担保は海関税であった。清の主な貿易地だった上海は欧米の植民地同然となってしまった(p107)

    ・第二次長州征伐において、小倉口の戦いにおいて幕府側は不意を突かれて小倉藩は撤退し、小倉藩は長州藩預かりとなった、つまり長州藩は関門海峡を挟む両側を領有するようになった、これは幕末の日本経済に大きく影響することになった(p126)

    ・生麦事件ではイギリスに10万ポンド=44万ドル=27万両を支払った、また四ヵ国戦争(英米仏蘭)の賠償金は300万ドルであり幕府はその半分を払った、第二次長州征伐でも巨額の軍費を払ったので幕府の金庫はほとんど底をついていて、政権を維持できるほどの金はなかった(p138)

    ・大政奉還から2ヶ月後の慶応3年(1867)12月9日に、王政復古の大号令を発した、それと同時に、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩の藩兵が京都御所の警備についた。事実上、御所を封鎖した(p143)

    ・戊辰戦争で官軍は鳥羽・伏見の戦いで圧勝したのだからすぐに旧幕府軍のいる江戸へ向かうべきであったのに1ヶ月も京都に滞留していた、金がなかったから。鳥羽・伏見の戦いまでは各藩の準備していた兵糧や武器で賄うことができたがそれ以上の遠征は賄えなかった。旧幕府軍も同様、大坂での在留経費が1日7ー8千両に及んでいた(p151)

    ・多くの偽二分金は多くの藩で作られていた、銀との交換番付は、筑前が167グラム、順に、加賀・佐土原・宇和島・薩摩・安芸・郡山・土佐・三原とされている(p196)

    ・日本において内閣総理大臣制度ができて32年後に原敬は首相になっており地域差別(盛岡藩=逆賊)はなかった、公共投資においても旧幕府、東北を差別することはなかった。決して、鹿児島や山口ばかりを優先的に開発することはなかった。アメリカでは南北戦争で負けた地域(サウスカロライナ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ミシシッピ、ルイジアナ州)は、敗戦国同様の扱いを受けた、北軍によって10年もの間、占領統治された。南部のインフラが完全に回復したのは、第二次世界大戦期であったと言われる(p215)南部出身者が大統領になるのは1976年のカーター、南北戦争集結から105年後である(p215)

    ・明治維新で一番得をしたのは農民であった、地租改正=コメで納めていた年貢をお金で納めるようにした、税率は土地代の3%=収穫米の平均代価の34%程度であり江戸時代の年貢と同等か若干安い程度の負担率であった。さらに農地の所有権を与えた、さらにはこれまで禁じられていた「移動の自由・職業の自由」も与えられた(p219)戦後の農地解放は、対象となる小作地は全農地の46%に過ぎず、農民の半分以下であった、地租改正の方がダイナミックで民主的な改革であった(p220)

    ・明治維新の最も特徴的なことは、江戸時代に特権階級であった武士たちが、自らその特権を捨てたという点である、西洋の市民革命とは全く異なる。明治維新とは、支配階級であった武士たちが中心になって国家を改革させた(p223)

    2022年5月2日作成
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    投稿日:2022.05.02

  • 棚田 弘一

    棚田 弘一

    国税局の役人から、経営コンサルタントに転じた著者。明治維新を経済、と言うより「金のあるなし」の観点から論じた本。維新の行動の背景に常に金に纏わる当事者達の悩みがついて回り(無論、それだけではないだろうが)、「金が無いから」こんな行動を取った、という分析が面白い。

    締めくくりがよかった。明治維新とは、それまで既得権益を持っていた武士達がその権利を手放すことで世の中の仕組みを変えたのだ、と。そういう見方もあるなと感心したと同時に、正確には「既得権益を持っている武士階級を、持てなかった下級武士達が取っ払った」のではなかろうかと。

    実際、維新後に経済的、また精神的(武士だったプライド)に恩恵に預かれなかった旧士族達が反乱を起こしている。

    そう考えると明治維新というのはやはり革命だったのかもしれない。既得権益による理不尽を打破し、より良い世の中にしようとする人達による革命だったのだと。
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    投稿日:2021.09.02

  • 小野不一

    小野不一

    関ヶ原の戦い(1600年)から戊辰戦争(1868年:明治元年~1869年)までは250年以上を経ている。恨みというものはつくづく恐ろしい。戦争や虐殺の傷は歴史に長く留(とど)まる。民族の相違を簡単に乗り越えることが難しいのも歴史的理由によるものなのだろう。
    https://sessendo.blogspot.com/2021/01/blog-post_8.html
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    投稿日:2021.01.08

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