【感想】オックスフォードからの警鐘 グローバル化時代の大学論

苅谷剛彦 / 中公新書ラクレ
(14件のレビュー)

総合評価:

平均 3.7
3
3
5
1
0

ブクログレビュー

"powered by"

  • bookkeeper2012

    bookkeeper2012

    小熊英二からの続きという感覚で読む。以前に読んだこの著者の本はもっと面白かった気がするのだが。。。雑誌への寄稿の寄せ集めだから冗長になってしまったのもあるか。

    世界の(主にイギリスの)グローバルの大学の様子と、日本の空回りする大学グローバル化を対比して嘆く。日本の文系学部にも独自の道があると説くが、なかなかイメージできないなあ。

    Anywhere(どこでも行ける)とSomewhere(どこかに留まる)の対比は響く。非英語圏では高学歴でもSomewhereなのだ

    大学のグローバル化を引き起こしている需要側の要因は中国からの大量の留学生
    続きを読む

    投稿日:2019.12.04

  • gakudaiprof

    gakudaiprof

    教育社会学的な分析は影をひそめ、エッセイ風になっている。引用された箇所は、オックスフォードでの学習における論文を多く読んでからの討論で、何もなしからのアクティブラーニングでは何にもならないという批判の部分である。続きを読む

    投稿日:2018.07.17

  • 中央公論新社

    中央公論新社

    大学ランキングで、なぜ評価されないのか? 文系学部廃止論争はなぜ不毛なのか? 世界最高峰、イギリスの伝統大学から見えるもの。

    投稿日:2018.05.30

  • garadon

    garadon

    うん、ただ単に英語で授業すれば、グローバルなんじゃあないんだな。日本の強みを生かさないとね。とはいえ、英語で論文書かないと誰も認めてくれないからなあ。

    投稿日:2018.05.01

  • reinou

    reinou

    このレビューはネタバレを含みます

    2017年刊。著者はオックスフォード大学社会学科・現代日本研究所教授。セント・アントニーズ・カレッジ・フェロー。

     2014~17年にかけ、日本の大学のグローバル化・英語化に競争(狂騒)する様を著者が批判的に論じた各種寄稿を集積した書である。端的な印象としては、相変わらず「流石の切れ味」だなぁというもの。

     なかなか纏めるのは難しいが、まず①日本の大学において、質を落とさずに英語で講義を展開することは非現実的とする。なぜなら、教授他に英語を自在に操れる人材が僅少だから、という挑発的とも取れる現実を開陳。
     ただ、この点は文科省も織り込み済みで、A内閣の暴走気味な非現実的政策を現実的な地点に落とし込む爆弾は仕掛けているという指摘が実に振るっている。

     そして、②理系学部は数学、実験という世界共通言語の下で研究・教育を続け、世界に冠たる大学との競争も経験済みであるので、英語での発信力(授業ではないよう)を益々つけていくことの重要性を説く一方、③いわゆる文系学部に関しても、やはり英語での発信力の重要性を指摘する。
     これには研究=論文の質の高さの目利きと、これを発信する語学力を備えたコーディネーター役が不可欠と指摘。

     全くふむふむである。

     その上で③文系学部の強みは、英語圏にいない点、つまり非英語圏で長期間の研究の蓄積を成し遂げたニッチの強み、付加価値の追求をなすべきだという。
     この点はやや具体性に欠けるが、世界に先駆け少子高齢化が先行する中での経済政策学、高度循環社会を構築した江戸時代を総体として研究する歴史・文化人類学研究(J・ダイヤモンドの指摘もあったか)等を外に向け発信することが想定できそう。

     一方で、④教育機会の不平等、⑤英、特にOxの人材育成方法(大量の文献読破を前提とした討論を基軸)の辺りは著者らしい。


     そして結論としては、英国在だから見える、日本の大学のグローバル化追求、その政策形成での奇異さが肝だろうか。⑥エビデンスに基づかない日本の教育政策における討論と形成過程。⑦国策=大学を外貨獲得の手段と構成した英国と、その国策実現のため英国自らが作らせている大学海外ランキングの欺瞞性の中、この点を日本の政策形成では全然想到しない不可思議。⑧グローバル化とは、実はアジア諸国(印を含むが、特に中国、ないし華僑が多数派)からの人材流出が齎した特異現象に過ぎない点。
     と、鋭いが身も蓋もない指摘が満載である。

    レビューの続きを読む

    投稿日:2018.04.15

  • Chocolatte

    Chocolatte

    このレビューはネタバレを含みます

    リンガフランカである英語を母国語として教育を行う国は、常にグローバルな競争に晒される。その一方日本では「日本語」という障壁のため、人や資金や情報の国境を超えた行き来が遥かに少ない。そこでいう「グローバルな競争」は「リアル」なもの(実感できるもの)ではない。現実味がないから、「グローバル化戦略」もインセンティブに欠け、改革も形式的で実らないのである。

    グローバル化は、新自由主義経済と不可分の関係にあるが、それは「英国病」脱却のため、1979年に就任したサッチャー首相からスタートした。高等教育のグローバル化もその延長線上で、英語という言語資本を利用できる国々が、資金や人材を集めるためグローバル競争をしかけ、市場での優位を確保し、知識生産・伝達のヘゲモニーを握ろうとしているのである。

    高等教育のグローバル化は、1999年のイギリスで、外貨獲得手段(輸出産業)として、留学生受入れ拡大を加速させる。その予想以上の成功から2006年にはさらに上方修正。この背景には、中国において富裕層が増大し、その子女がより良い就職の機会を得るため「海外の評価の高い大学」への進学を目指したことにある。この際に、イギリスの大学に目を向けさせるマーケティング戦略の一助となったのが、2004年にスタートしたイギリス発の世界大学ランキング(THE、QS)である(州政府からの財政支援が削減されているアメリカの州立大学、特に研究志向が強い大学も恩恵を受けている)。このように、教育のグローバル化競争は、外貨獲得というビジネスや財政の観点から語られるのである。

    その競争に日本の大学が巻き込まれた。日本の行政・大学は必死にもがく。そこには、根強い「欠如理論」があったからだ。西洋の歴史的体験や社会構造を過度に「普遍的」なものと捉え、西洋の大学に特徴的な点を「賞賛」し、明治以降の日本の教育の特徴を「後進性」と決めつける。この「欠如理論」に特徴的な思考様式は、大学内部に確固たる参照点(見識)を持たず、外部の参照点(世論)に無反省に飛びつくことにある。こうして、英米をモデルにしつつ高等教育「市場」という経済的視点に大学教育が振り回されてしまっているのである。

    このようにして、昨今の「グローバル人材の育成」などの大学改革は、学術文化の交流・活性化という視点ではなく、経済界の視点から語られる。しかし一方で、経済界は大学生の学びを重視していない。そのうえ、就職活動の早期化と長期化、インターンシップと銘打った早期面接などにより、大学教育を妨げている。「教育界」と「経済界」の間に信頼と連携がない限り、大学の教育改革・教育の質向上は絵に描いた餅となる。

    結局、「現行の」世界大学ランキングの基準では、特に人文社会学系において日本の大学が置かれた環境を考えると、勝ち目はない。このことに自覚的であるべきだ。そして、むやみに英語で授業を行うことも賢明ではない。大学教育の目的のひとつが、問題発見・解決能力を学術的思考援用して身につけることで、そこでは母語で深く考える力がこそ不可欠だということも重要。
    また、人文社会科学系の研究においては、日本発であることを強みとする視点と論理構成を採ることが必要だ。近代化以前の日本の経験を含め、先進国に仲間入りするまでの間に日本の社会が蓄積してきた「知」や「経験」を強みとして発信していく研究は、非西欧圏で西欧モデル以外の多様性を求める国々にとって、貴重な「知」となり得るからだ。つまり「知の多様化」に貢献できる。表面的で、勝ち目のない大学ランキング競争に右往左往するよりは、よっぽど日本の大学の国際貢献、プレゼンスのアピールに繋がるのではないだろうか。日本の大学の人文社会学分野における著者の指摘は、現実的で非常に見識に溢れているように思う。

    レビューの続きを読む

    投稿日:2018.03.10

Loading...

クーポンコード登録

登録

Reader Storeをご利用のお客様へ

ご利用ありがとうございます!

エラー(エラーコード: )

本棚に以下の作品が追加されました

追加された作品は本棚から読むことが出来ます

本棚を開くには、画面右上にある「本棚」ボタンをクリック

スマートフォンの場合

パソコンの場合

このレビューを不適切なレビューとして報告します。よろしいですか?

ご協力ありがとうございました
参考にさせていただきます。

レビューを削除してもよろしいですか?
削除すると元に戻すことはできません。