【感想】台湾 四百年の歴史と展望

伊藤潔 / 中公新書
(23件のレビュー)

総合評価:

平均 4.2
6
11
2
0
0

ブクログレビュー

"powered by"

  • はやおう

    はやおう

    台湾の歴史が、オランダの占拠によって歴史の表舞台に立ってから現代に至るまで、わかりやすく記載されている。数百年でこんなにも支配者がコロコロ変わっているとは知らなかった。台湾に対するイメージが変わった。
    少し古い本で、1990年代までの事柄しか記載されていないので注意。
    続きを読む

    投稿日:2024.03.13

  • Tomoki

    Tomoki

    このレビューはネタバレを含みます

    オランダはスペインやポルトガルを追いかけるように、16世紀末にインドネシアのバタビアに東インド会社を設立。中国や日本と貿易するための中継基地を求め、澎湖諸島に目をつけた。明王朝は台湾こそ領土外のものと思っていたが、澎湖諸島の占領は許せなかった。そこで澎湖諸島からオランダを追い出す代わりに、台湾占領を認めた。これが1624年のことである。
    全ての土地は東インド会社の所有で、先住民や移住民から重い税金を取ったから、明滅亡で台湾にやってきた鄭成功を彼らは歓迎した。しかしながら、時代が経つにつれて漢族移民が増え、先住民やもとからの移住民は脇に追いやられてしまった。また、鄭氏政権は一族の内紛で自ら弱体化していった。
    鄭氏政権を滅ぼした清は、日本による台湾出兵が1874年起こるまで200年以上にわたって、消極的に台湾を占領した。台湾が反政府勢力の拠点となることを防げればよかったのである。
    第二次アヘン戦争(1856年)の処理として天津条約が結ばれると、台湾は淡水・基隆・安平・高雄の4港を開港。世界市場に組み込まれていく。
    日清戦争で台湾は日本の植民地となる。1919年までの前期武官総督時代・36年までの文官総督時代には、台湾から原料を日本に送り、商品化したものを台湾で売るというセオリー通りの植民地経営がされていた。36年からの後期文官総督時代には、南進に備えて重工業が飛躍的に発達。これが台湾植民地経営の特異な点である。
    終戦後、台湾は中国の国民党の支配下に入る。1947年の二・二八事件は、今日の台湾人と外省人の対立のもととなっている。官憲が市民に対して暴力を振るい、群衆はデモを行ったが、国民党政権はこれを弾圧。
    当時の国民党政権は党が国家よりも上、したがって軍も国家の軍ではなく党の軍であり、一党独裁体制であった。1988年に総督となった李登輝は初の台湾人総統であり、民主化改革に努める。2000年には民進党の陳水扁が総統になるなど、民主化の動きは進んでいる。

    レビューの続きを読む

    投稿日:2023.11.18

  • kanetaya

    kanetaya

    台湾旅行の事前学習として購読。

    オランダ、スペイン、明、清、日本、中国国民党。次々と新たな国がやってきて、ここは我が領土という。
    そもそもそこに住んでいたという「先住民」はどこからきたのか。
    まさか台湾の土から生えてきたわけでもあるまい。
    どこからか来た、のではなかろうか。
    国、という概念を背負っていたか否かはよく分からないが。
    発見だ平定だ侵略だ割譲だ光復だと、その時々の流行、声の大きな、力の強いものの価値観で様々なことは様々に評される。
    しかし、本当に起こったことは、その時々のそこにいた、そこに集ったものたちの勢力争いに過ぎないのでは。
    早くからいれば、その場所の正統な持ち主や支配者というのも、それはそれで分かったような分からないような話だし。

    「中国の政治文化には『投票箱から政権が生まれる』という発想はない。毛沢東がいったように『鉄砲のもとで政権が生まれる』のが、中国政治の真髄である」(p177)

    中国国民党による酷い虐殺などが、あるいは、比較論として、今の台湾の親日的な感情に繋がっているのだろうか。
    筆者も書いているが、後に来た中国国民党が酷かったからといって、前の大日本帝国が慈善事業的に台湾、その住民に接したというように理解することは誤っていると思う。
    あくまで、その時々の状況に流されて、結果してよきことも、残虐なことも、起こってきたと解するのが適当と思う。

    そう解釈をしたとき、その流れの中で、殺され犯され虐げられた人々、係累はどうその理不尽を消化すべきなのだろうか。
    程度は違えど、世の流れに巻き込まれ、渦の中で、浮かぶ泡沫沈む泡沫四散する泡沫は存在し、今でも同じような理不尽は世界に満ち満ちている。いや、全てはそのように動いているといっていいだろう。
    そう思えば、私の今の生活は、あまりに満ち足りていると、身の幸運に感謝の気持ちを持つ他ないのかもしれない。
    しかし、いずれ同じ動きの中で、死すべき存在だとすれば、その状況、捧げた感謝とて泡沫そのものであるようにも思える。

    ところで。
    本の感想から離れるが、今回の台湾旅行で、バスに乗る際、乗り方が分からず困惑していたところ、親切に案内し、最後はバス代までくれようとしたおばあさん。
    当方も英語が流暢ではないが、おばあさんも流暢ではなく、互いにカタコトで意思疎通しつつ、おばあさんは、どうやら自分の目的地ではないところで降車までして、一旦バス代まで払ってくださった。
    なにやら、日本人に親切にしたい、というような意味のことをおっしゃっていらして、相当台湾には親日の方がいらっしゃるように感じた。
    「日本人」云々は置くとしても、親切を直接お返しできない方から親切を受け取ってしまったことから、どこかでどなたかにお返ししなくちゃな、と色黒で歯の抜けた、しわくちゃの笑顔のおばあさんの顔を思い出して思う昨今である。

    より一層関係のない話をすると、以前一度訪れた際は、女子高校生に二度ほど、道で現地の言葉で話しかけられたり、店員に間違われたりしたし、自分は、彼の国では、割とポピュラーな容姿なのかもしれない。今回もいろいろ親切にしてもらえたり、若々しく見えると複数回言われていたようでもある。
    もしかしたら、どこかでルーツが繋がっているのかもしれない。
    国だのなんだの、よくよく考えると、確かにあるようでいて、実は不確かな境界線だなとつくづく思う。
    続きを読む

    投稿日:2023.09.19

  • mitchao

    mitchao

    ウクライナ侵攻で台湾を知る目的で読む。

    本当に何も知らなかったことを、メタ認知できた。
    ・多くの部族が居住していたので国民国家ができず、中国・日本等に蹂躙されたこと
    ・蒋介石の国民党が中国共産党と本質的に同じで、人民の事なんて何にも考えていないこと
    ・日本は台湾のインフラ・ファンダメンタルズの整備に貢献はしたが、多くの人民を粛清したこと
    ・近年の政治・外交・民主化に大きな動きがあったこと
    (報道に接していたはずなのにまったく理解していなかった!)

    いや本当に勉強になった。今だからこそ、読んでおいた方がいいと思うよ。

    1993年までの状況なので、それ以降の動きも含めて他の本を探してみようと思う。
    続きを読む

    投稿日:2022.09.09

  • riodejaneiro

    riodejaneiro

    このレビューはネタバレを含みます

    台湾の歴史。台湾という国に関わってから早20年が経過したが、まともに通して台湾の歴史の本を読んだのは初めてだったかもしれない。非常にフェアな視点で描かれており、どのような経緯で物事が起き、その結果としてどのような意思決定、意識醸成がなされたかといった観点が非常にわかりやすく書いてある。出版自体は93年と自分自身が台湾を知る10年近く前だが、その後の歴史の流れを見ると非常に示唆に富んだ本であったことがわかる。

    鄭成功はただの海賊ではなかったんだなとか、日本統治時代が一筋縄ではなかったこと、また清朝、欧米等の思惑がいろいろと交錯していたこと、また中国が主張する台湾は一部であるという主張、現状において全く同意は出来ぬが、そのロジックはわからないでもないと思った。また国民党政権時代の、今の中共にも通じる支配の仕方とそのロジックで米国から見放されかけたりと興味深い。李登輝氏の時代となってから、どのように民意が変わって行ったかというのもいつか深掘りしてみたいところ。

    P.2
    台湾は西太平洋で活躍するポルトガル人によって、「発見」された。それは台湾付近の海域を航行中の船員が、緑滴る美しい島影を目の当たりにして、「Ilha Formosa」と感嘆の声をあげたことに始まる。(中略)一五四四年のことと推定されている。Ilhaとは島、Formosaとは麗しいという意味で、すなわち「麗しき島」である。もっともポルトガル人は公開の先々で美しい島を見るたびに、「イラ・フォルモサ!」と賞賛して、その島の名としてきたので、アフリカ、南アメリカ、アジアの各地には一〇を越す、この名の島があったとされる。

    P.5
    多部族に分かれていたため、ついに台湾には先住民による統一した政権や、王権が樹立されないままに外来の民族に押されて、少数民族への道をたどることになったのである。この点、戦国時代の混乱を収拾して日本を統一した豊富秀吉が、一五九三年に原田孫七郎を支社にたて、台湾の「高山国」に入貢を即したが、実現しなかったことからも窺える。そもそも台湾のだれに、秀吉の書簡を手渡すべきかわからなかったのである。

    P.26
    鄭成功とその一族は、明王朝が完全に終焉してからも、明王朝の正朔(年号)である「永暦」を奉じつづけた。鄭成功にすれば、異民族の満洲王朝を認めず、あくまでも漢民族の明王朝の再興を果たす、つまり「反清復明」の決意の現れであった。鄭成功がオランダの台湾支配を覆し、台湾に移ったのも明王朝再興のためで、台湾に新たな運命を運ぶことになったのである。

    P.43
    住民の反乱防止を台湾統治の基本政策とする清国政府は、さまざまな制限措置を設け、台湾の開発には消極的であった。
    清国政府の渡航制限は、中国東南沿海住民を対象とした措置であったが、台湾のい住民には「封山令」で臨んだ。封山礼とは、すでに台湾に定住する移住民に対し、先住民の居住地域への入職を禁じたものである。台湾全島はもともと先住民の土地であり、封山令は一見して先住民を保護し、移住民と先住民の衝突を防ぐ措置のようであるが、実際は反乱を起こした移住民が、先住民の居住地域に逃げ込むこと、および先住民と結託して反乱を起こすことを防ぐためのものであった。

    P.51
    「分類械闘」とは、同じ漢民族の移住民ではあるが、閩南系と客家系があり、閩南系はさらに漳州系と泉州系があり、それぞれが同類(同じ原籍地の人々)を結集して、武器を擁して互いに闘うことである。分類械闘は貧困な福建でよく見られた因習であるが、台湾に伝わったばかりでなく、いっそう激化し複雑化している。

    P.53
    一八五四年七月に、日本での和親条約締結を終えた、アメリカのペリー艦隊が基隆港に約一〇日間停泊し、失踪した水兵の捜索と基隆近郊の炭坑の調査を行った。ペリーは帰国後、台湾はアメリカの極東における中継貿易の拠点とするのに適しており、あたかもフロリダ半島とユカタン半島が囲む、メキシコ湾を制するキューバのような存在であると報告し、その占領を主張した。この台湾占領の主張は実現しなかったが、ペリーの報告はヨーロッパ列強に注目され、台湾への関心が一気に高まった。

    P.57
    外務卿の副島種臣が「日清修好条規」批准書交換のために、一九七三年三月に北京を訪れ、牡丹事件に関しても清国政府と交渉した。清国政府は台湾の住民は「化外の民」で、その地域は「教化のおよばないところ」とし、牡丹事件の責任を回避した。(中略)(台湾出兵・占領中に)日清両国の間に「北京専約」が結ばれ、申告は日本に五〇万両を支払い、日本は台湾から撤兵することが確認された。そして琉球の帰属に関して明確な規定はないが、清国政府が日本の台湾出兵を国民保護の「義挙」と認め、遭難被害者の遺族に弔意金一〇万両を支払うことが合意された。台湾の一部を占領する目的こそ実現しなかったが、間接的に琉球の日本帰属を清国政府が認めることになったのである。

    P.67
    日清講和条約は、一九八五年四月一七日に調印された。清国政府はこの重大なできごとを、ついに台湾の官民に対して事前に知らせることはなかった。(中略)フランス政府は講和条約締結の直後、日本の台湾領有を阻止すべく、一度は台湾への派兵を準備したが、領有するマダガスカル島の動乱のために中止した。(中略)しかし、台湾の住民はフランスに機体をかけつづけた。同月十五日、邱逢甲は唐景崧を尋ね、台湾にとどまることを強請した。会見後に邱逢甲は、「台湾はすでに朝廷(政府)に見捨てられた土地であり、住民には頼るべきところなく、ただ死守あるのみである」と声明し、多一ワン独立の意向を表明した。(中略)こうして台湾独立へ向けてにわかに準備が進められ、一八九五年五月二十三日、「台湾民主国独立宣言」が布告された。

    P.79
    日本政府は台湾人が中国語(北京官語)に通じていると思い込み、中国語の通訳を台湾に派遣した。しかし、先住民や移住民の閩南系と客家系を含めて、ほとんどの台湾人は中国語に通じず、中国語のできる台湾人を副通訳に採用し、日本人の正通訳との間に中国語を介して、日本語と台湾語の会話が行われた。

    P.80(日本統治最初の頃、執拗な土匪(ゲリラ)の抵抗に関して)
    この頃、日本の官民には、台湾を一億円でフランスに売却すべしという、「台湾売却論」が登場したほどである。

    P.83
    台湾人の阿片吸引は、オランダ統治時代からの悪習であった。この悪習はバタビアの華僑に始まり、それが台湾にもち込まれ、さらに台湾から厦門経由で中国全土に広がったとする説もある。それだけに台湾における阿片吸引の歴史は古く、蔓延による弊害も深刻であった。(中略)後藤新平の阿片暫政策と専売制度は、阿片吸引者の漸禁政策と専売制度は、阿片吸引者の漸減をはかる行政目的、阿片専売収入をはかる財政目的に加え、各地の台湾人のを阿片の仲売人と小売人に指定することで、抵抗する「土匪」の対策に協力させる治安目的にも資し、一石二鳥どころか、実に一石三鳥もの効果をあげている。

    P.85
    後藤はその持論である「生物学的植民地経営」を実践して行った。後藤いわく「比良目の目を鯛の目にすることはできんよ。鯛の目はちゃんと頭の両方についている。比良目の目は頭の一方についている。それがおかしいからといって、鯛の目のように両方に付け替えることはできない。比良目の目が一方に二つ付いているのは、生物学上その必要があって、付いているのだ・・・・政治にもそれが大切だ・・・・だから我輩は、台湾を統治するときに、先ずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ・・・・これを理解せんで、日本内地の法則を、いきなり台湾に輸入実施しようとする奴等は、比良目の目をいきなり鯛の目に取り替えようとする奴等で、本当の政治ということの解らん奴等だ」とあり、医者らしい着想といえよう。後藤はこの生物学的な原理にしたがい、台湾に就任すると「土匪」の鎮圧に従事する一方、台湾旧監制度調査会や中央研究所などを設立し、土地および人口の調査を実施した。

    P.98
    明石元二郎総督は、在任一年余で任期中に日本で病没したが、その意志により遺骨は台湾に運ばれた。「骨を台湾に埋めた」ただ一人の台湾総督である。

    P.102
    台湾人が合法的な政治組織を通じて、日本の植民地統治に抵抗した最初は、一九一四年十二月に発足した「台湾同化会」の運動であった。(中略)この運動に加わった台湾人の真の目的は、日本への同化よりも日本人と平等の待遇を要求することにあった。そのため、運動は、総督府の猛烈な弾圧と在台湾の日本人の中傷のもとで、「公共ヲ害スルモノ」とされ、台湾同化会は翌年二月に解散を命じられた。

    P.117
    植民地統治下の台湾では、日本人官吏や警察官と比べて、概して教師は使命感が強く人格的にも優れ、敬愛と信頼を集めていた。

    P.139
    国民党軍一万二〇〇〇余と官吏二〇〇余名が、米軍機の護衛のもと三〇余隻の米国艦船に分乗して基隆港に上陸し、即日、台北に進軍した。(中略)このときの国民党軍の低い士気とわびしい身なり、劣悪な装備を目の当たりにした多くの台湾人は、日本軍とのあまりの違いに驚愕し、日本が中国に敗れたとは、とても信じられなかった。そして「日本はアメリカには負けたが、中国には負けていない」という噂の正しかったことを確信したのである。

    P.148
    国民党軍の占領後まもない頃から、台湾人は「同胞」という新たな支配者に失望し始め、不満を抱くとともに批判するようになった。もともと漢族系台湾人は、渡来する中国人を「唐山人」と呼んでおり、中国を意味する「唐山」には何らの悪意もなく、むしろ親しみが込められていた。ところがやがて「唐山人」は「阿山」となり、田舎者を嘲る軽蔑を込めた呼称に変わる。それだけではく「犬(日本人)去りて豚(中国人)来たる」とまで嘆くようになった。要するに、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いというのであるが、そこには台湾人は日本人や中国人とは違った存在であるという、潜在的な意識があることに注目したい。

    P.169
    「中国の政党政府」を主張するがために、国民党政権はさまざまな矛盾を抱えざるを得ない。その最たるものは、行政院の一省庁にあたる「蒙蔵委員会」(蒙古とチベットを管轄する機関)の存在である。チベットはさておき、周知のように蒙古は一九二四年に独立しモンゴル人民共和国となり、一九五六年に国連に加盟した、国際社会が公認している独立国家である。そのようなモンゴルに「主権を有する」と主張するばかりか、管轄官庁まで設けているのは、あからさまな虚構であり、中華民国が「唯一の中国」であることも、国民党政権が「中国の正統政府」であることも、虚構に過ぎないことを示すものである。

    P.171
    国民党の性格は共産党とほぼ同じで、革命が成就、つまり「三民主義」(孫文が主張する「民族主義」「民権主義」「民生主義」)が、全中国に実現するまで「革命」をつづける「革命政党」であり、党首(蒋介石のときは総裁、その後は主席)に絶対的な権力を集中させた。

    P.179
    国民党政権は中国政治に見られる、陰湿な「秘密警察政治」を台湾に持ち込んでいる。秘密警察と「密告」は不可分であり、保身のために親子や夫婦、兄弟、親戚の間でさえ密告を惜しまない。国民党の強権政治のもとで、台湾人同士が互いに疑心暗鬼に陥り、これもまた国民党の台湾統治に大きく資している。

    P.183
    一九六四年九月の「台湾人民自教宣言事件」または「彭湖敏事件」。当時、台湾大学教授の彭湖敏ならびに弟子の謝聡敏と魏廷朝の三人は、国際社会に「一つの中国と一つの台湾」が存在するのは厳然だる事実であるとして、その直視と現実的な対応を求める趣旨の、「台湾人民自教宣言」を印刷したところで秘密逮捕された。彭湖敏らの逮捕は、友人のアメリカ人学者の捜索と追及により明らかとなり、国民党政権は翌十月に逮捕の事実を公表した。三人とも有期刑を科されたが国際的な圧力で、彭湖敏は一九六五年十一月に特赦となり、謝と魏の二人は刑期を半減されて四年となった。ちなみにこの宣言は今日の「一台一中」(一つの台湾と一つの中国)論の原点となっている。

    P.193
    「奇跡」といわれるほどの経済成長を遂げたが、それにはいくつかの要因があった。(中略)まず指摘したいのは、肥沃な土地と勤勉な住民である。(中略)日本から受け付いた「遺産」もある。(中略)米国の援助と日本の借款供与も大きく資している。(中略)国民党政権の危機意識も見逃せない。(中略)文化大革命も少なからず影響をおよぼしている。(中略)外国資本の導入も要因の一つである。

    P.208
    「台湾関係法」は一八ヵ条からなり、国民党政権よりも「台湾住民」と米国の関係に重点をおいている。その適応の範囲は台湾ならびに澎湖列島とされ、国民党政権が支配している金門と馬祖におよんでいない。(中略)国民党政権の後継政権を視野に入れ、その後継政権のもとでこの法律を適用させる意図があることは明らかである。(中略)
    「台湾関係法」は、かつての「米華共同防衛条約」に完全に取って代わるものではなく、国内法ゆえに米国や台湾に対する拘束力も弱いが、広範な課題が盛り込まれている。その主なものには、①西太平洋地域の平和と安全、および安定の維持、②台湾と各種の関係の維持、③台湾問題の平和的な解決、④台湾に対するボイコットと封鎖の排除、⑤台湾に対する防衛的な武器の供与、⑥台湾に対する武力行使と圧力の排除、⑦台湾住民の人権の擁護、などがある。これらからも分かるように、「台湾関係法」は中国の台湾に対する武力侵攻と、国民党政権による台湾住民の人権抑圧を念頭においている。

    P.223
    これまでの李登輝の政治スタイルを観察して、その政治信念を集約すれば、①党が国家の上位にあってはならない、②軍は「党の軍」ではなく、「国家の軍」でなければならない、③民主政治は政党政治であり、一党独裁であってはならない、④国際社会で孤立してはならず、実務外交を推進すべきである、⑤中国政府・中京政権と対立してはならない、⑥政治犯の存在は政治的な開発途上であり、民主国家の恥辱である、ということに尽きよう。(中略)しかしながら皮肉にも、李登輝がみずから政治信念を実現するには、権力が党首に集中する非民主的な「革命政党」の国民党主席として、強権を発動しなければならず、自家撞着を余儀なくされるのである。

    レビューの続きを読む

    投稿日:2022.07.10

  • twshayafune

    twshayafune

    野嶋剛の「台湾とは何か」から始まり、司馬遼太郎の「街道を行く台湾紀行」を経て、この本にたどり着いた。
    フォルモサと呼ばれ、オランダやスペインが植民地とした1600年代から李登輝総統が誕生し、台湾を再生する1990年代中盤までの台湾について詳しく書かれている。
    特に、日本統治時代から、日本が第2次世界大戦に負けて引き上げ、その後中国が統治するようになった頃のことが詳しく書かれている。
    前の2冊を読んでいたので、この本の内容がよく理解できたように思う。
    李登輝さんが残した功績はとても大きかったということもよくわかった。
    3冊の本を読んで、これまで全く知らなかった台湾のことを少し理解できたと思う。
    続きを読む

    投稿日:2022.06.30

Loading...

クーポンコード登録

登録

Reader Storeをご利用のお客様へ

ご利用ありがとうございます!

エラー(エラーコード: )

本棚に以下の作品が追加されました

追加された作品は本棚から読むことが出来ます

本棚を開くには、画面右上にある「本棚」ボタンをクリック

スマートフォンの場合

パソコンの場合

このレビューを不適切なレビューとして報告します。よろしいですか?

ご協力ありがとうございました
参考にさせていただきます。

レビューを削除してもよろしいですか?
削除すると元に戻すことはできません。