言い訳するブッダ(新潮新書)
平岡聡(著)
/新潮新書
作品情報
仏教の教えには、たくさんの“矛盾”がある。その矛盾を解消しようと、ブッダの後継者たちは必死になって「言い訳」を積み重ねてきた。同時にそれは、仏教を世に広めようという涙ぐましい努力の跡でもあった――。「ブッダは眠らない?」「殺人鬼も解脱できるワケ」「肉食禁止の抜け道」・・・・・・難解で非合理的な教義も、すべて「嘘も方便」だとわかれば、もう仏教なんて怖くない! 仏教を進化させた「言い訳」から、その本質に迫る。
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商品情報
- シリーズ
- 言い訳するブッダ(新潮新書)
- 著者
- 平岡聡
- 出版社
- 新潮社
- 掲載誌・レーベル
- 新潮新書
- 書籍発売日
- 2023.08.18
- Reader Store発売日
- 2023.08.18
- ファイルサイズ
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言い訳するブッダ (新潮新書)
矛盾を矛盾のままで放置できない人間( 仏教者) の脳は、その矛盾を何とか埋め合わせ、懸命に両者を橋渡しし、粘巧に仏典全体の一貫性をもたせるため、「言い訳」をフルに活用…したのです。その結果、期せずして仏教は" 進化" することになりました。
言い訳の背後には、 聖典という仮而に隠れた聖典編暮者の素顔(本音)が必ず存在しているため、仏典は〃聖" なる典籍でありながら、実に〃俗〃っぼい側面も持ち合わせているのです。聖典といえども、結局は人間が創作した産物なんですね。言い訳とその理由を知れば、仏教の本質が見えてきて、もう仏教なんて怖くない!
第一章 眠らないブッダ
宗教的には「ブッダ」は特別な意味を持ちます。それはたんに毎朝、目を覚ますというのではなく、「其理に目覚める」という意味が込められているからです。こうなると、ブッダになるのは簡単ではありませんね。ブッダは出家して六年間の修行のすえ、宇宙を貫く真理に目覚め、文字どおり「仏」となったのでした。
特に日本で独自の展開をとげた浄土教によれば、念仏を称えれば阿弥陀仏の極楽浄土に往生すると説きます。残念ながら、極楽は「楽園」でも「終の棲家」でもなく、「修行の場」です。ただし、その名の示すとおり、環境が抜群に整っているので、 いとも簡単に覚れてしまうのです。鳥の鳴き声さえ仏の説法として響くのですから当然ですね。
菩薩とは「仏になる一歩手前の状態」と理解しておきましょう。ブッダが菩薩時代に見た夢は五つあり、経典はその一つ一つの内容に触れるのですが、そのたびに「弟子たちょ、如来・阿羅漢・正等覚者(ブッダ自身のこと) が正しく甘覚める前、まだ目覚めていない菩蔭であったときに、5つの偉大な夢を見た」というフレ—ズを挿入してきます。
浄土教をもっとも詳細に説くのが『無量寿経』です。それを見れば、極楽に往生する人はみな、男性に生まれ変わるといいます。ということは、極楽には女性が一人もいないということになりますね。「一人も」です。結果として、極楽は男性ばかりの、じつに「むさ苦しい場所」と想像されます。
イスラム教は偶像崇拝を徹底的に禁止します。神を何らかの形で表現することを忌み嫌うのです。しかし人間には創作意欲があるので、イスラム教の人々はそのエネルギーのはけ口を「紋様」に求めました。ペルシャ絨桧に代表されるように、イスラム文化圏の紋様の美術は瞠目すべきものがあります。
ではなぜ、偶像は禁止されるのでしょうか。選挙のポスタ—を目にしたときでした。「ああ、形にすれば、このような" 蛤め" を受けるんだ」と。
いったん形で表現されると、それは壊される運命を背負うことになります。だから、絶対的に権威あるものを形で表現してしまえば壊される危険があるので、それを避けるために偶像崇拝を禁止したのではないでしょうか。仏教徒にとって、顔の壊された仏像は見たくないですよね。
人間は生まれながらに創作意欲を持っているので、仏教徒は間接的であってもブッダを何とか形で表現しようとしました。たとえば、「菩提樹」や「法輪」です。菩提樹はブッダがその木の根元で覚りを開いたので「覚り」を象徴しますし、また法輪はブッダの「説法」を象徴するので、ブッダの代替物にはもってこいでした。これなら破壊されても「木が倒れた/ 輪が壊れた」と〃言い訳" できます。
こうして、しばらくはブッダを人間の姿で去現することはなかったのですが、紀元前後、ガンダーラ(西北インド) とマトウラー(北インド) で仏像が創作されるようになりました。時間的にはガンダーラの方が早かったようです。西北インドに位陟するガンダーラは古代の東西交易ルート上にありましたから、西方ヘレニズム(ギリシャ文化)の影響を受けたと考えられています。ギリシャでは神を人間の姿で表現することは普通でした。だからガンダーラの仏像はギリシャ的であり、現実的な去現にその特徴を認めることができます。
「菩薩像の出現は、伝統的な仏像不表現(理念) と仏像の流行( 現実) の安協の産物だったと考えられる」と言います。簡単に言えば、「覚りを開いたブッダの相貌は一切の去現を超越しているが、覚る前の菩薩の相貌なら具体的な姿形で表現してもいいでしょ」という〃言い訳"なのです。
夢にせよ仏像にせよ、 何かにつけて菩蔭は〃言い訳" の材料として使われることがわかりました。
「一世界一仏論」という教義を説明しなければなりません。ブッダが神格化されると、ブッダの存在は唯一無二となり、他の仏の存在を認める余地はなくなります。権戒ある存在が複敏あると混乱しますし、ブッダの権威が揺らぎます。こうして一つの世界には一人の仏しか存在しないという考え方が生まれました。
おそらく、「現存せる救済者の希求」と「一世界一仏論の原則」との灰協が、仏と変わらない菩儷を出現させたと考えられます。ここでも、「仏はダメでも菩蔭なら複敖いて大丈夫」という発想です。人問、窮地に追い込まれると、こうまでして解決策を探り当てるようです。
複数の菩炼はよいとして、複数の仏はどう担保すればいいでしょうか。ここでも迫い込まれた人間は想像力をフルに駆使し、素晴らしい言い訳を発明します。それは「世界観を広げること」でした。
この広大な宇宙の中、たとえば、西方の極楽世界には阿弥陀仏が、東方の妙喜世界には阿閥仏がいると考えられるようになりました。こうなれば、後は雨後の竹の子のごとく無数の仏が誕生します。
ブッダの神格化に伴い、「ブッダは何でも知っている/ 知らないことは何もない」、つまり「一切知者」という属性がブッダに付与された途端、「ブッダは訊ねた」という表現は矛盾を孕む表現に変わります。この矛盾を解消するために、「ブツダは知っていて" わざと" 訊ねることがある」という言い訳が誕生したのではないかと私は考えています。
「歴史を作ったブッダ」と「歴史が作ったブッダ」は乖離することがたまにあります。涅槃の世界に入ったブッダですから、この世に生き返ったりはしませんが、かりにこの世に生き返って、このような去現を目にしたとき、ブッダの反応やいかに。「さすがの私もすべては知らんぞ! 」と、びっくりするのではないでしょうか。
覚りを開いたブッダは「年尼」と呼ばれます。「釈迦牟尼仏」の「牟尼」です。これはインド語の「ム二」を音写したもので、「沈黙の聖者」を姦味します。だから、声を出して笑うのはもちろん御法度だったと思いますが、では微笑むのはどうか。成立の早い経典には微笑みの記述さえ見出すことができませんが、時代がドると、微笑みの記述が解禁されるようになります。
第二章 悪業をめぐる苦しい言い訳
ブッダ自身は輪廻を認めていなかった可能性が高そうです。正確に言えば、死後世界を「ある」とも「ない」とも言わず、判断中止したということになります。実際に死後の此界があるかもしれませんが、ブッダはそれ自体を問題にしませんでした。
ブッダの仏教は、生まれてから死ぬまでの「この生」の中で、つまりこの現実の人生の中で自己と向かい合い、自分の心を制御して、 いかに苦から解脱するかを問題にしました。おそらく、これが仏教の原風景だったのではないでしょうか。じつにストイックな宗教です。
人間は「意味」を求める生物です。ブッダのように、我々の人生を「この世の生から死」に限定すれば、まったく人生は不条理です。では、これを合理的に理解するにはどうすればいいでしょうか。答えは簡単です。それは我々の人生を「生前」と「死後」にまで延長すればいいのです。つまり輪廻を認めれば、この不条理な人生は一気に合理的に理解することが可能になりますね。
後の仏教徒はブツダが判断中止した死後の世界や生前の世界を視野に入れ、輪廻を前提に教理を構築していったのでした。こうして、業報の教理が誕生します。有名なのは、「善因楽果/ 悪因苦果」あるいは「自業自得」という教えです。
人生を「この世だけ」に限定すれば、これは必ずしも説得力を持ちません。しかし、輪廻を前提にし、生前と死後とを認めれば、これは人々を納得させる教えとして機能するのです。
「善因楽果/ 悪因苦果」という業の原則の妥当性は、人によって違うでしょうが、私は「七、八割くらいは言えてるかな」という印象です。人間の経験則に照らして「ある程度機能している」と実感できるからこそ、今でも人々に共冇されているのでしょう。
ブッダ自身は輪廻にたいする態度を保留しました。つまり、あるともないとも判断しなかったのです。哲学ではこの判断中止を「エポケー」と言います。ギリシャ語です。しかし後世、仏教は輪廻を前提に教理を構築していきます。この不条理な人生を合理的に理解するには、生前や死後を視野に入れなければなりませんでした。こうして「善因楽果/ 悪因苦果」という原理原則が誕生します。
「真実語」の説明をしなければなりません。インドでは仏教誕生以前から、「真実」には不思議な力が秘められていると考えられていました。そして典実を口にした後、何かを願えば、その願いはその真実の力で叶うとされていました。
本章では、業報にまつわる言い訳を紹介してきました。ここでは、不条理な現実を何とか合理的に理解しようとする人間の必死の努力の結果が、さまざまな言い訳を産出したことを確認しました。逆に言うと、それほどまでに人生は不条理で過酷だということです。これは時代と地域とを越えた、人間の普遍的問題と言えそうです。古代のインド人も人生に悩んでいたのですね。
第三章 布教のための言い訳
修行を完成させて覚りを開いた人には、六つの不思議な能力(六神通) が備わると仏教では考えられていました。逆に言えば、これを備えることが覚ったことの証明にもなったと考えられます。
まずは神足通。「神の足」というくらいですから、足が速いことだと想像できます。
つぎは天耳通。「天」も「神」の意ですから、これは超人的な聴力を意味します。
つぎに他心通。これは他者の心の中、つまり考えを知る能力です。
さらに宿命通。自己や他者の過去の出来事や前世を知る能力です。
あと残り二つ。まずは天眼通から。これは何でも自由自在に見通せる能力です。
最後は漏尽通。「漏」とは煩悩のことなので、これは修行によって自分の煩悩が尽き果てたことを知る能力です。
「誕生・成道・初転法輪・入滅」の各地は聖地の地位を獲得し、後にこの四力所は「四大仏跡(四大聖地) 」となりました。今でも仏教徒がインド旅行する場合、この四カ所は外せません。具体的な地名を出せば、涎生地はルンビニー、成道の地はブツダガヤー、初転法輪の地はサールナ—卜、そして入滅の地はクシナガラです。
大乗仏教はある意味で伝統仏教を否定する仏教です。「否定」という表現がきつければ、「乘り越える」と表現してもいいでしょう。とにかく、それまでの伝統仏教に満足しない人たちが企てた仏教ですから、伝統仏教にはない〃新しさ" があるはずです。しかしその新しさを表現することは伝統を否定することになりますから、 それなりの言い訳が必要になるのは当然です。
ブッダ以来の伝統仏教は出家者でなければ覚れないと主張しました。つまり、在家信者では覚れないことになります。しかし、それでは相対的な教えに墜し、 覚りの岸に至るには小さく劣った乗物(小乗) にすぎません。一方、自分たちの教えは出家・在家の区別なく、誰でも覚りの岸に至ることができる、大きく勝れた乗物(大乗) だと大乘教徒は主張したのです。そして、彼らは自らを菩薩(乗) と称し、伝統仏教を点聞(乗)や独覚(乗) と呼んで批判しました。
一般に「方便」はポジティブ、「言い訳」はネガティブに使われます。両者とも自分の主張を正当化するための理論武装なのですが、目的は異なります。「言い訳」が自己保全のための理論武装であるのに対し、「方便」は真実に誘導するための理論武装です。
第四章 戒律の抜け道
一般的には「三帰五戒」とされます。仏教の3つの宝(三宝) に帰依し、五戒を守ることを誓うことが在家信若の条件となります。
まずは五戒について簡単に触れておきましょう。
①生物を殺さない
②他人のものを盗まない
③不倫をしない
④嘘をつかない
⑤酒を飲まない
の五つです。
仏教は三つの宝を説きます。仏(ブッダ7)・法(ダルマ)・僧( サンガ) の三宝です。そしてその三宝に帰依するのが三帰ですが、帰依とは「拠り所にする/ すべてをお任せする」と理解しておきましょう。
最初の宝は、本書で何度も登場した仏(ブッダ) であり、これなくして仏教は存在しえません。
第二の宝は「法」ですが、仏がこの世に出現しようとしまいと、この世に厳然と存在し、また一切の存在を貫く真理を、仏教は「法」と表現します。
ブッダを含め、仏を仏たらしめているのは法であり、法こそ仏の本質なのです。ただし、法自体は営葉を発するわけではないので、それを言葉で去現する仏の存在がなければ、法は人間にー認識されません。ということは、仏と法とはの両輪のような関係であり、どちらか- 方が欠けても我々は仏教と関係を結べないことになりますね。ただし、理念的には仏よりも法のほうが上位概念になります。
出家者の集団こそ、第三の宝「僧」です。なぜ僧が宝とされるのか。おそらく、教団がなければ仏教が宗教として存続しなくなるからではないでしょうか。
こうして最初期の段階で三宝は成立し、その三宝に帰依することが在家信者になる条件とされたのでした。そしてこの三帰依は、地域と時代とを超えて普遍的に仏教徒になるための条件となっています。
戒体とは何か。仏を仏たらしめているのが法であったように、山家者を出家者たらしめているのが、この戒休です。言い换えれば、 戒休とは「出家者の本質・本体」であり、この有無が出家者とそれ以外の人とを区別する標識となります。
日本に仏教が伝わったのは、538年あるいは552年と考えられています。これは公伝の年代ですから、非公式にはもう少し早く仏教が伝わっていたでしょう、では、何が伝わったのか。それは仏像や経典などの物質的なモノであり、仏教を伝承する基体となる戒律の本質( 戒体)は伝わっていませんでした。鑑真が日本に来るまで、厳密な意味での仏教は日本に伝わっていなかったのです。
聖武天臬は受戒の作法をちゃんと執行し、日本でもホンモノの僧侶を自己生産したいと考え、伝戒師(戒律を授ける資格のある人) を探していました。こうした経緯を背景に、鑑真は日本に招かれたのです。彼の来日により、インドから途切れることなく継承されてきた戒体がようやく日本に移植されたのです
平安時代に活躍した最澄も空海も中国に留学し、中国的に変容したとはいえ、本国インドから継承されてきた仏教を中国の僧侶から直々に授かったのでした。鎌倉時代の栄西も道元も中国に渡り、中国仏教の禅の伝統を継承して日本に戻ってきました。とくに道元は中国で如浄から教えを受け、自らの仏教を「正伝の仏法」、つまり「自分はブッダ以来の伝統を正しく継承している」という自負がありました。それほどまでに、師資相承による伝統の継承は重要なのです。
仏滅後しばらくはよかったのですが、一世紀あるいは二世紀が経過すると、教団に亀裂が入る事態が生じます。その理由はハッキリわかっていませんが、金銭の授受が問題だったという説もあります。いったん分裂してしまうと、あとは雪崩を打ってさらなる分裂を繰り返し、最終的に教団は、一八あるいは二〇ほどのグループに分裂しました。このグループのことを「部派」と呼びます。日本で言う「〜宗」のようなものだと理解しておきましょう。
そして仏教は二つの異なったルートを経てアジアの各地に広まっていきました。一つはインドからスリランカやタイなど南に伝わったルート(南伝) 、もう一つはインドから中央アジアを経由してチベット・中国・日本になど、北に伝わったルート(北伝) です。よって、日本の仏教は北伝に属します。
第五章 言い訳から生まれた大乘仏教
仏教の聖典は三蔵と言われます。それは仏教の典籍(文献) すべてを意味する言葉です。経
蔵・律蔵・論蔵の三つを指します。
まず大事なのが経蔵。お経とは、仏教という宗教を開いたお釈迦さんが言ったことや行ったことを、弟子たちが自分たちの視点でまとめたもので、ブッダ自身が自分の言動を書き記したものではありません。だから、お経の出だしは「如是我聞(私はこのように聞いた) 」で始まるのです。
仏教が誕生した紀元前五世紀ごろ、お経は「話し言葉」で伝えられていました。「口伝」です。弟子が師匠であるブツダの言行を記憶に留め、自分が師匠になったときにそれを話し言葉でまた弟子に伝える。お経は当初、このように伝承されていったのです。それが「書き言葉」として伝承されるようになったのは、紀元前後です。
第二の典籍は律蔵です。これは「ブッダが制定したとされる規則を集成した典籍」です。これも「制定したとされる」というところがミソで、現存するすべての規則をブツダが実際に制定したかどうかは不明です。この規則は二つに大別されます。一つは悟りに資するための規則、もう一つは赦団という組織を円滑に運営するための規則です。
この経蔵と律蔵とは、 仮託も含めて「仏説」、つまり「仏 が説いた」ことになっていますが、 三番目の「論蔵」の位强づけはまったく異なります。諭蔵とは、 経蔵と律蔵とにたいする注釈文献ですから、それは後代の出家者が作成したものです。よって「仏説」ではありませんが、経蔵と律蔵とを理解する上で、論蔵の理解は欠かせません。こうして、仏説である経蔵と律蔵、それに仏説ではない「論蔵」とを合わせて「三蔵」といい、これで仏教の典籍すべてが包括されます。
ブッダが二枚舌を使っていないなら、どちらも「正しい」とせざるをえません。しかし、同一事象に答えが二つあるのはマズイので、「密意」という解決策を見出しました。「密意」って何でしょうか。
たとえば、この例のように、A説とB説が矛盾してぶつかった場合、どちらか一方を「そのまま受け取ってもよい説」(了義) として確定します。
密意、法性、隠没という3本柱の論理武装で論蔵を仏説と主張したのでした。
このように論蔵が仏説になり、しかも経蔵と律蔵とを押さえて最高位に上りつめると何が起きるでしょうか。今度は最高の権威である舗蔵の解釈によって、経蔵と律蔵が修正を余儀なくされますが、この修正こそ言い訳の正体だったのです。言い訳の背景には、この論蔵至上主義があったのですね。
歴史的に見れば、経蔵と律蔵とがまず編篡され、その後に経蔵と律蔵を注釈しため論蔵が誕生しましたが、論蔵が仏説とみなされ、しかも論蔵が三蔵の坨位につくと、今度は逆に論蔵の教理に合わせて経蔵と律蔵の記述が見直され、不整合を生じる場合には修正が施されました。ただし、その言い訳の度合い(濃淡) は部派によって異なります。
仏弟子が説いた経説でも、仏説と認められる基準が3つあります。一つ日は弟子が説いたものを後にブッダが承認したもの、 二つ目は説法する前にブッダが.単認して説かせたもの、そして三つ目はその説法に「席感」が認められるものです。実際にそのような経典が初期経典中に確認できます。大乗経典を考える場合、歴史的ブッダはすでに亡くなっていますから、一つ目と二つ目は使えません。
というわけで、三つ目の基準を使うことにより、大乗経典も仏説とみなすことができます。言葉は違いますが、真理に叶っていない経説に盤應は宿りませんから、この3つ目の基準は法性説と同義と考えていいでしょう。
真理に目覚めた人が仏ですから、仏になるためには真理との接触が不可欠です。そして、その其理との接触によって苦は滅しますから、ある教えによって苦を滅すること、あるいは軽減することができれば、その教えは玄理を含み、霊感が認められると考えてよいでしょう。そして、そのような言説は普遍性を持ちますから、時間と空間とを超えて伝承されるはずです。二〇〇〇年も前にインドで誕生した大乗経典が今なお日本を含め世界中で伝承されているのは、やはりそこに霊感が認められるからではないでしょう
この「隠没( あるいは埋蔵) 」という言い釈は、じつによくできています。なぜなら、新しく創作したものでも「じつは古い」と主張できるからです。これを使えば、新参ものも伝統を装うことができ、物事の新旧を一気に逆転させることができますよね。こうして、歴史的には新しい大乗経典も伝統を装い、隠没(埋蔵) という名の下に、伝統的な経典をしのぐ価値を付加しようとしたのでした。
第六章 仏教は言い訳で進化した
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同根の宗教であり、環典には神による「啓示」が書かれている点で共通します。聖典に関して言えば、ユダヤ教とキリスト教は近い関係にあります。時代的にさきに成立したユダヤ教の聖典は旧約聖書であり、その後に成立したキリスト教は旧約聖書と新約聖書とを聖典とするからです。言語的には、旧約聖書の大部分がヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれています。
そして、旧約聖書と新約聖書に関して、より後に成立した聖典(新約聖書) は、それ以前に成立した聖典(旧約聖書) を踏まえつつ、新たな物語を付け加え、また前の型典で述べられている話に独自の解釈や変奏を加えていくという構造になっているようです。このあたりはこれまで見た仏典と同じですね。
旧約聖書の読み方には二つあると山本先生は言います。ーつは旧約聖書を旧約聖書そのものとして読むという読み方。これはきわめて自然です。もう一つはキリスト教固有の読み方になりますが、新約聖書の視点から旧約聖書を読むという読み方です。
時代的には逆行するので、歴史的な読み方というよりは、キリスト教的解釈を多分に含んだ読み方になるはずです。そのギャップを会通することで、より新約聖井の理解が深くなる場合があるようです。
インドでは初期経典に加え、膨大な大乗経典も作られ、それが中央アジアを経て中国に伝わります。そのさい、経典は歴史的な成立の順番をいっさい無視して中国にもたらされました。それを受け取る中国人からすれば、内容のまったく異なる大景の仏典が洪水のごとく押し寄せてくるわけですから、それをある一定の基準(尺度) に基づいて整理する必要に迫られたのです。
人間の脳は、何かにつけて物事を整理したがるようです。そのような脳の命令に逆らえなかった中国人は、それぞれ独自の基準や視点で大量の仏典を整理しました。この経典の整理整頓を教相判釈というのです。
そして、それは客観的な整理整頓というよりは、膨大な仏教経典から自分はどれを尺高の教えとして受け取るかという主観的な価値判断に基づいた整理整頓だったので、その整理整頓にあたっては、そうするだけの言い訳が必要でした。
仏教の言い訳のもとは「自分たちがおいた極」ではありません。すでに過去の仏教者たちが伝承してきた文献と、その後に整備された教学との問に齟酬が生じたためになされた言い訳がほとんどです。仏説の文言を重視すれば、教理は破綻するし、教理を優先すれば、絶対的な権威を有する仏説の文言を変更しなければならなくなります。
しかし、教祖ブッダが説かれたことを簡単には変更できません。とすれば、残された道はただ一つ、一見して繫がらない二つの文言をいかに会通するかです。本書ではこの会通いを「言い訳」と直き換えて紹介してきましたが、それは決して自己保全ではありませんでした。三蔵すべてに論理的な整合性を持たせ、聖典総体としての完成度を上げたかっただけです。
当初、仏教は偶像崇拝を禁止していました。仏という無限の存在を有限の形で表現することを禁じたのですが、仏になる一歩手前の「菩薩」なら大丈夫とばかり、本来は「仏像」なのに「菩薩像」と言い訳したことがきっかけで、仏像の彫刻や絵画という仏教美術が花開いたのです。
この言い訳がなかったら、仏教はずいぶん精彩を欠いた宗教になっていたでしょう。くわえて、舎衛城の神変にみられる言い訳も多彩な仏教美術の創造に貢献しました。
「論蔵も仏説」という聖一典解釈の言い訳は、図らずも大乗経典を誕生させました。また、その大乗経典の代表格である『法華経』が「方便」という.済い訳を誕生させたことで、大乘仏教の教理は飛躍的に進化を遂げたのです。
また「菩薩」の言い訳は、仏教美術の誕生のみならず、「ー世界一仏論」の大原則に抵触することなく、無仏の世に救済者を誕生させることにも成功しました。こうして大乘仏教のパンテオンは、観音菩薩をはじめとする多くの菩薩(および仏) で彩られることになります。続きを読む投稿日:2023.10.02
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