江戸の格付事情
安藤優一郎(監修)
/エムディエヌコーポレーション
作品情報
※本書はリフロー型の電子書籍です
【ランキング好きは国民性!】
格付と序列の江戸時代
泰平の世が到来した江戸時代は、新たな生活システム「格付」が浸透していった。令和時代を生きる我々からすると、窮屈な印象を抱きがちだが、秩序を守るためには必要な制度だった。大名よりも身分が高い旗本、領地は多いが身分の低い大大名など、武士の人事にも触れる。現代の名刺代わりとなる「○○守」「△△介」など、武士には様々な格付があった。また、江戸時代後半に大流行した「見立番付」。神社仏閣、グルメ、遊び場、温泉、あるいは仕事に火事と、ありとあらゆるもののランキング。日本人のランキング好きは江戸の昔も今と変わらない。二百有余年の平和が続いた徳川の世に存在した様々な「序列」や「制度」。将軍・大名・侍から町人・遊女まで、江戸を生きる人々を支えたシステム「格付」の基礎知識!
〈本書の内容〉
■第一章 江戸の格付事情【将軍・大名篇】
〈一〉武士の種類/〈二〉官位とは/〈三〉官職名/〈四〉大名の種類/〈五〉大名の領地/〈六〉大名の序列/〈七〉大名の詰所/〈八〉大名の服装/〈九〉大名屋敷/〈十〉参勤交代/〈十一〉登城風景/〈十二〉江戸城の正月/〈十三〉大老になれる家/〈十四〉徳川家一門衆/〈十五〉御三家vs.御三卿/〈十六〉姫の嫁ぎ先
コラム マウンティングが反映された出世双六
■第二章 江戸の格付事情【幕臣・陪臣篇】
〈一〉将軍直属の家臣/〈二〉幕臣の給与/〈三〉幕府の役職/〈四〉江戸の警察/〈五〉家来(供)の人数/〈六〉屋敷のスペース/〈七〉大奥のヒエラルキー/〈八〉大名の家来衆/〈九〉武家女性の呼称/〈十〉金で武士を買う
コラム 象は果たして官位をもらったのか
■第三章 江戸の格付事情【職業篇】
〈一〉公家/〈二〉医師/〈三〉学者/〈四〉絵師/〈五〉役者/〈六〉力士/〈七〉商家/〈八〉儲かる商売/〈九〉遊女/〈十〉職人/〈十一〉盲人/〈十二〉町人/〈十三〉女性の名前/〈十四〉火消/〈十五〉火事/〈十六〉農地
コラム 江戸の家賃
■第四章 江戸の格付事情【見立番付篇】
〈一〉見立番付の流行/〈二〉江戸の五つ星/〈三〉菓子屋/〈四〉死後の世界/〈五〉大食い大会の流行/〈六〉人気おかず/〈七〉宿泊施設/〈八〉駕籠と乗物/〈九〉牢屋/〈十〉江戸の名湯/〈十一〉寺社仏閣
コラム 意外や意外な番付
〈プロフィール〉
安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家、文学博士。1965年、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。おもな著書に小社刊行『幕末の志士 渋沢栄一』『江戸の給与明細』(監修)をはじめ、『賊軍の将・家康』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)、『大名格差』『徳川幕府の資金繰り』(以上、彩図社)、『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)、『大江戸の娯楽裏事情』『江戸の旅行の裏事情』(以上、朝日新書)などがある。最近刊は『大名廃業』(彩図社)。
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江戸の格付事情 (MdN新書)
江戸時代は前代の戦国時代とは異なり、社会が安定した時代であった。身分や序列を固定することで、徳川将軍をトップとする社会体制が維持された時代だが、完全に固定していたので…はない。流動的な側面もあり、町人や農民が大金を叩いて武士の株を脚入し武士になることも、決して夢物語ではなかった。
江戸時代の日本は徳川将軍家が率いる幕府と3
百諸侯と称された大名が率いる実数約260も
の藩が共同統治するシステムが取られた。この支配システムを、俗に幕藩体制(幕藩制) と呼んでいる。大名は藉府から一万石以上の所領の領有を認められることで、その身分が保証される仕組みとなっていた。
大名は将軍との親疎で親藩・譜代・外樣の三種類に類別されたことはよく知られるが、その格付が視覚化されたのが江戸城である。参勤交代制により、自動的に全国の大名が集まっていたため、それが可能となった。
拝謁や儀式のため、大名は定期的に登城することが義務づけられるも、一つの部屋に集められたわけではない。いくつかの部屋に分けられた。その基準こそ幕府により格付された家格である。控室も実際に拝謁する部屋も家格により厳然と区別された。
こうして大名の格差が視覚化されたが、部屋だけではない。家格により登城時の装束も細かく決められ、その格差が一目でわかるようになっていた。さらには、将軍に拝渦する方式についても、単独の謁見が許された大名もいれば、集団でしか謁見を許されない大名もいた。その基準も同じく家格であった。
江戸城に加えて江戸在府中の大名が生活する屋敷(江戸藩邸) でも、大名の格付が視覚化された。その建物が大名の格付の指標であった。
この時代、屋敷は必ずしも建物を指す言葉ではない。諸大名は江戸在府中の屋敷を幕府から下賜され、正室や世継ぎなどの家族、そして大勢の家臣ともに生活の場とした。ただし、下賜されたのは"地のみで、建物は自費で建てた。
どういう建物を建てるかはその大名に任せられたものの、屋敷の顔とも言うべき門構えだけは自由に決めることができなかった。大名の格付に応じて、門構えは決まっていたのだ。門構えで大名間の格差が示された。
幕臣の場合は、格付でいうと旗本と御家人の二つに大別されるが、その基染は石髙ではな
い。総じて、质本の方が御家人よりも石高は上回ったが、将軍にお目見え肱、つまり謁見できる資格を持っているか否かで線引きされた。
将軍にお目見えできる資格を持っていれば旗本、その資格を特っていなければ御家人とされたため、旗本はお目見え以上、御家人はお目見え以下の者ともいった。旗本と御家人は合わせて直さんと総称されるものの、旗本の方が御家人よりも格上である。
町人の格付の基準だが、まずは土地を持っているか否かが挙げられる。要するに、地主か否かで格付された。地主でなければ町の正式なメンバーとは認められず、町内での発言権もなかった。借地人や借家人の立場では発言権がなかった。
格差社会のトップに君臨する毬府や藩のお抱えになることは実に大きかった。たとえば、幕府や藩のお抱えになった学者、絵師、力士は同じ町人の社会からは一目置かれていた。お墨付きを与えられたからである。
見立番付とは、相撲の番付のように、小物を東西に分けてランキング表にしたものである。泰平の世であったことを背景に、江戸時代は庶民の生活レベルがアップした。食文化の発展などはそのシンボルであり、いきおい食べ物に関する関心が高まった。そんな時代状況を受けて、料理茶屋や酒をテーマとした見立番付が人気を呼ぶ。
一章 江戸の格付事情【将軍・大名篇】
平氏を打倒し、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が任じられて以降、征夷大将軍の官職は天下の武威をつかさどる武家政治のトップを指す言葉になった。その証拠に室町慕府を開いた足利职氏もこの職に就き、以後、代々の足利将頂も同様であったからだ。
将軍職は1867年10月14日に十五代目の慶喜が大政奉還するまで徳川家が世襲する。直後の12月9日に天皇が再び政治を行なうことを
宣言する王政復古の大号令が出されるまで、征夷大将軍は武家のトップとして君臨し続けた。
頂点の将軍のすぐ下には「大名」がいた。一口に大名といっても様々であるが、江戸時代の場合、徳川将軍家と直接主従関係を結んだ武士のうち、ー万石以上の石高を与えられた武士のことを指した。
将軍と直接主従関係を結んでいても、一万石以下の武士では大名になれない。こうした武士は幕臣と呼ばれる。
幕臣は旗本と御家人に分けられた。将軍にお目見え(面会) できるのが旗本、できないのが御家人となる。
大名たちの序列を決めるのには、石高だけではなく、官位も関係していた。ただし、石高によってどの位階まで上れるのか、あるいは家柄によっても細かい規定があって、たとえば、ー万石の大名では最高クラスの官位には上ることはできなかった。
政治に参加できる譜代大名は、石高が低く抑えられていた。これは財力と撤力の両方を与
えてしまったら、制御できない事態になるかもしれないという深謀遠慮からだろう。また、石高の高い大名は江戸から遠い地域に配置されている。
石高は拝領された領地から収禮できる米の量を表している。ちなみに一石ならば千合で、成年男子が一年間に消費する量とされてた。ー万石ならばー万人を養うだけの米が取れることになる。幕府から大名や旗本に与えられた領地の石高は、江戸時代初期に行った検地によって決められ、表高と呼ばれた。
この表高に応じて大名や旗本の格式が決まり、参勤交代や手伝い普詰の負担などが決まったが、時代が下るにつれて新田開発が行われ、肥料や農具の改良もあって、表高よりも実際の収穫高である内高(実高ともいう) が多くなっていた藩もあった。
大名の序列については、石高が重要であった。その中で、目安となる石高があった。それが十万石である。十万石以上が大大名で、それ以下は小大名といつたような明文化された区別はないが、とりわけ、登城の際は引き連れる供の数をはじめ、十万石以上と十万石以下では明らかな違いがあつた。
「大名が十万石にこだわる理由」に「屁持大名」の存在が考えられる。国持大名は国主とも呼ばれ、律令制によって六十八に分かれていた国のうち、一国以上を支配していた大名を指す。まさに一国一城の主である。この国持大名の最低クラスが十万石だった。
江戸幕府にとって何よりも重要な儀式日が八朔となる。これは家康が1590年8月1日に江戸へ入ったことを祝うもので、登城する大名たちの装束はすべて白帷子と決まっていた。吉原ではこれをまねして女性たちが白い衣装を身に着けたという
武士の最も格式の高い服は束帯である。官位によって衣装が決まっていたので、一目で誰がどの官位にあるのかがわかった。しかも儀式によって、身に着ける衣装が異なっていた。大名の格によっても、行歩によっても着用できる衣装が決まっていた。特に正月は、江戸城にいる間中、己の格がどの程度なのかを思い知らされることになっていた。
上屋敵は藩主が住む場所で、登城の利便性を考えて、現在の大手町や日比谷公園などに多かった。特に、老中など幕府の役職に就く大名は何かあった時にすぐに駆け付けられるように現在の皇居前広場近くに屋敷をもらっていた。逆に大藩の外様大名は、 加賀前田家でもわかるとおり、江戸城から遠い所に上屋敷があった。
中屋敷は上屋敷が火事などで焼失した時の控えであるとともに、継嗣や隠居した藩主が住んでいた。下屋敷は郊外にあり、別荘のような役割を果たしていたという。
参勤交代に代表される大名行列は、もともとは、いざというときに莊府のために駆け付ける軍行である。大名行列は大名の威厳を誇示するかつこうの場所である。人数が多ければ多いほど格式が高いことになる。最も高い石高を誇った加賀百万石の前田家は、四千人を超える大行列であったという。道中を同行する人々は一千人くらいだったようだ。また、江戸に入る時は江戸郊外にあった下屋敷にいったん入り、ここにて臨時雇いの奴などを行列に加えると、上屋敷に向かうのである。
将軍に会える時間はほんのわずかにすぎない。将軍に会うといっても大半の大名は、平伏している間に将軍が部屋に入って来て言葉をかけて去っていくので、将軍の顔を見ることはなかった。この儀式が終わるまで二時間から三時間かかるといわれている。その後は来た道をたどって屋敷に戻るのだ。
常置の幕府の役職で、最高位は老中だった。二万五千石以上の譜代大名の中から選ばれ、将軍を補佐しながら、幕府の政務の一切を取り仕切った。老中がいなければ、幕政は回らないといっても過言ではない。
幕府のナンバー2 であった老中だが、非常時には老中の上に「大老」職が設けられることがあった。将軍に建言することができ、大老の決裁は将軍も動かすことがかなわなかった。
大老の役職はほとんど井伊家が務め、酒井家が三回、土井家と堀田家がそれぞれ一回と、井伊家が役職を独占しているような状態であった。
御三家は徳川家康の子どもを祖とする一門である。九男の義直が祖となる尾張徳川家、十男の頼宜が祖となる紀伊徳川家、十ー男の頼房が祖となる水戸徳川家の3家からなる。徳川宗家の男子が絶えた埸合、この三家から将軍を排出する目的で設けられた。
御三卿は、八代将軍徳川吉宗の子・孫を祖とする一門である。次男の宗武が祖となる田安徳川家、四男の宗尹が祖となる一橋徳川家、吉宗嫡男で九代将軍となつた家重次男の重好
を祖とする清水徳川家の三家からなる。御三家と同じように徳川宗家の跡継ぎが途絶えた時を想定して設けられた。
第二章 江戸の格付事情【幕臣・陪臣篇】
旗本と御家人の実質的なボーダーラインの二百石以上から馬に乘れるようになるため、旗本を人ではなく、騎と数える。俗にいう「旗本八万騎」はここから来ている。騎乗可能なクラスになると、屋敷の門には門番を置くことになっていた。だが、実際には二百石では
門番を雇うほどの金はなく、馬を持つのもよほどのことがない限り難しかったという。
幕臣の収入は幕府からもらう「俸禄」が主な収入源となる。この俸禄のもらい方だが、大まかにいうと、三つの方法があった。知行でもらう方法と米でもらうガ法、それに現金である。一等格式が高いのは知行で、知行とは自分で支配する意となる。知行で百石といえば、百石の米が取れる前提の土地をもらう。
知行取りよりも下のクラスは、俸禄を米でもらう。石高の低い旗本や御家人は米でもらうことが多かった。俸禄米は毎月支給されるのではなく。春に四分のー、夏に四分の一、冬に四分の二が支給されることになっていた。公務員のボーナスが年三回なのは、この名残だという。
実際問題として大量の米をもらっても、幕臣たちがそれを現金に換えるのも面倒である。そこで、米を現金化することを代行する商売人「札差」の世話になる。この代行手数料だけでは大した儲けにはならないが、札差連中は幕臣がこれからもらう米を担保に金を融通した。いわゆる高利貸しである。
幕臣たちは借金を少しでも減らそうと、内職に手を染めることになる。御家人たちは役目ごとに組屋敷といって屋敷地をもらい、そこに集団で住んでいた。集団で内職に紡しんだため、青山の傘、御徒町の朝顔など、各エリアの内職品がその地の名産となっているケースも多かった。
さらに俸禄米ではなく現金でもらう下級の御家人もいた。三両一人扶持、おおよそ五十万円ほどが武士として最低の俸禄であったという。
武士は石高でどんな役職に就けるかが決まっていた。ただし、大名の場合は石高が高いからといって高い役職とは限らない。むしろ、財力と権力が結びつくことを幕府は恐れていたので、石高の高い外様大名や御三家などは役職に就けなかった。幕政のトップである老中は二万五千石以上の譜代大名の中から選ばれる。
財力と権力が結びつくことを恐れる一方で、石高が低すぎると江戸屋敷に常駐する家臣の数を増やすことや、大名同士の付き合いでの支出に堪えられない。老中として歴史上に名を残した大名が、地元では領民に大きな負担を課したため、今でも不人気との話も聞く。そういった懸念もあったのか、実際には十万石以上の大名が任じられることが多かった
大奥に勤める女性すべてが、将軍のお手付き、つまり側室になる可能性があったわけではなかったからだ。将軍に直接会えない女性たちも多く、こうした女性たちの働きがあってこそ、大奥は機能していたのである。大奥は当時の女性たちが活躍し、出世できる数少ない職場であった。
三章 江戸の格付事情【職業篇】
徳川家康は今の言葉でいう「健康オタク」で、自分で薬を調合するほど健康に気を配っていた。そのうえ、曲直瀬、半井といった
名医を京坂から呼び寄せるのでは飽き足らず、全国から名医を江戸に集めて最先端の医療を受けられるようにしていたという。これが三代家光の時に、他の職制とともに固まったといわれている。
徳川五代将軍の網吉といえば、動物愛護法の「生頰憐みの令」を出して庶民を苦しめた『犬公万」と呼ばれ、評判がよろしくない。そのせいか、無類の学間好きであったことはあまり知られていない
家康から家綱と四代にわたって将軍のブレーンだった偽学者の林羅山が、三代将軍の家光から下賜された上野忍岡現在の東京都台東区上野公園付近) の地に私塾を開いた。
綱吉は林家の私塾と林家の屋敷内にあった孔子廟を江戸城に近い湯島(文京区) に引っ越しさせ、聖堂学問所として整備。ここでは朱子学を講じたので、朱子学が幕府の公式の学問になった。
また、それまで幕府の儒学者は剃髪した僧形であったが、そのスタイルを取りやめたことにより、以降、儒学者の社会的地位向上に結びついた。
幕政の人材確保のため、寛政の改革で幕臣だけでなく、藩士や郷士、牢人の入門を許可した。1970年、聖堂学問所では朱子学以外の学問を学ぶことを禁じると、1797年に聖堂学問所は林家の私塾から幕府直蟠校「昌吟坂学問所」となった。1817年には、それまで学問所の教師は林家一門で占められていたが、それ以外の儒学者たちの講義も行われるようになった。
この昌平坂学問所の設置が契機になり、寛政期には各藩で藩校を設けるようになり、宝曆から慶応といった江戸時代後期にかけて大幅に増加した。藩校で優秀な成績を修めた者は
昌平坂学問所への留学が許されたり、京都や大坂、長崎へ遊学したりすることもあった。
日本橋界限には、越後屋、自木屋、大丸、松坂屋などの有名な呉服店があったが、各店の
頂点に立つ主は江戸にいなかった。彼らは近江や伊勢といった上方の本店にいた。つまり、江戸の店は支店である。一方、江戸店で働く奉公人は現地採用ではなく、本店のある土地で採用された者ばかりだった。
奉公人たちの一生をかけた出世競争も過酷だった。たいていの場合10から12歳くらいで採用され、少年たちは十名以上まとまって春と秋の二回、上方から江戸に下って来る。江戸時代の都は京都なので、上方から見ると江戸へは下りになる。
「諸商売人出世競相撲」という見立番付が作られている。この番付に当時、儲かると考えられていた商売が掲載されていた。
米屋は江戸時代の経済システムを考えれば、一目瞭然。米を基本とした経済であり、武士の給与は米が獲れる土地(知行地) や、それこそ米(俸禄米) で支給される。米の値段が上がり、生活苦に喘ぐ庶民が蜂起する「打ちこわし」では、真っ先に米屋が狙われた。それだけ儲かっていたと思われていたのだろう。
一方の大間、両替商。こちらは江戸の通貨事情にある。当時は金、銀、銭という三つの通貨が併用されていた。両替には手数料がかかり、日常的に両替が行われていたから、庶民からすれば、「あこぎな商売をしやがって」といったところだろう。
京都の島原、大坂の新町、江戸の吉原という幕府公認の遊郭をまとめて三大遊郭という。中でも幕府のお膝元にあった吉原は最大であった。江戸初期の寛永頃、「遊女」の数はおよそ1千人。幕末の慶応頃には三倍の3千人が在籍したといわれる。
江戸も中期の宝暦年間になると、客の主流が上級武上からもっと手軽に遊びたい層に変化したため、あまりに格式の高い太夫は嫌われ、ついにはいなくなったという。その代わり、出てきたのが花魁である。花魁は自室を与えられた高級遊女のことで、のちには遊女の代名詞になった。
昭和時代に一世を風靡した「子」のつく名前だが、もともとは天皇家や公家の娘といった身分の高い女性につけられた名前である。江戸時代でもやはり「子」がつくのは、平安期と同じように天皇や公家の娘が多かった。
では、庶民の場合はといえば、かめ、いと、きくなど二音節でかなの名前が多かった。そういえば、時代劇などで「おつる」「おった」と呼ばれるが、これは名前に接頭語の「お」がついている。もちろん、「お」は名前の一部ではない。
江戸はとても火事が多い都市であった。江戸に湯屋が多かったのも、火事の原因となる火元を減らすために内風呂を造らせなかったからだ。数ある火事の中で最も大きかったのは、1657年1月18日に本郷の本妙寺から出火した明暦の大火であろう。10万7千46人が焼け死んだと伝わる。
二番目に大きかったのは、現在の目黒区近辺から火の手が上がった行人坂の大火である。明和九年(一七七二年)に発生したことから明和の大火ともいう。
三番目に大きかったのは、1806年の大火だ。この年は、十干十二支でいうと丙寅であったことから丙寅の大火ということもある。火元は現在の港区高愉二丁目付近にあった芝車町の材木座で、浅草方面まで延焼した。焼失家屋は十二万六千戸にも及んだという。続きを読む投稿日:2023.10.05
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