この作品のレビュー
平均 4.0 (246件のレビュー)
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あなたは、『書道教室』に通ったことがあるでしょうか?
メールやLINE、誰かに連絡を取る手段として現代の私たちは、文字を書くのではなく、文字を入力することで、伝えたいことを文章にしていきます。思えば…日常生活の中でペンで文字を書くという行為自体がほとんどなくなりました。流石にペンの持ち方を忘れてはいませんが、たまに字を書くとどんどん下手になってしまっていることを実感します。
しかし、人は希少価値を求める生き物です。紙の上に書かれた文字に印刷が多くなればなるほどに、逆に『筆で手書きされたもののほうがいい』という感覚が浮かび上がります。”筆記体”で印字されたものでなく、『手書き』にこそ価値があるという考え方です。また、『手書き』に魅せられていく感覚も決して失われることはないでしょう。今も街中に見られる『書道教室』、そしてそこで学ぶ人たちがいなくなることもないのだと思います。
さてここに、『筆耕士として登録』された『町の書道教室の先生』を訪ねる一人のホテルマンが主人公となる物語があります。『書』の世界の奥深さを見せていくこの作品。そんな『書』に魅せられていく主人公を描くこの作品。そしてそれは、「墨のゆらめき」を見るその先に、『肉筆からそのひとの声が聞こえてくる』瞬間をあなたが感じる物語です。
『京王線下高井戸駅に降り立つのははじめてだった』と、『スマホを取りだした』のは主人公の続力(つづき ちから)。『玉電の線路を右手に、線路沿いの道を三軒茶屋方向へ進む…』と書かれたメールを読み『漠然としている』と思う続はやむなく歩き始めます。『西新宿にある』『六階建てで客室数も二十四室と非常にこぢんまりとした』『三日月ホテルに勤務して十五年』という続は、小規模のホテル故、『とにかくなんでもやらなければならず目のまわる忙しさ』の中で働いています。『宴会場がひとつしかないため、専属の筆耕係を雇うほどの需要は生じない』ものの、『大切な催し物の招待状に関しては、筆で手書きされたもののほうがいいというお客さまが多い』こともあって、『町の書道教室の先生』などに『筆耕士として登録して』もらっています。そして、『お客さまに』『宛名などを筆で書いたサンプル』を見てもらって『筆耕士』を選んでもらうというシステム。そんな中、『大手の百貨店や海外でも販売され』るようになった『化粧品会社を立ちあげ』た『水無瀬源市氏』が『八十八歳で天寿をまっとうされた』ことで『「お別れの会」が開催される』ことになります。そして、打ちあわせにいらした『奥さまとお嬢さま』が『この二十六番のかたがいいわ』と選ばれたのが遠田薫(とおだ かおる)という『筆耕士』でした。『連絡先にはメールアドレスしか記されていなかった』という中、『筆耕士』の『登録作業を行っ』てくれたもののすでに定年退職した原岡に連絡を取り事情を聞いた続は、『長いつきあい』だった遠田康春が開いていた『遠田書道教室』を継いだお子さんだったので細かいことは残さなかったと言われます。原岡から『どんな人物かを見極め』るよう言われた続は、メールで連絡を取ったものの『線路沿いの道を五分』という情報しか与えられません。やむなく『五叉路を一本ずつ行きつ戻りつすること十五分』と『遠田書道教室』を探し求める続ですが、『両脇に迫るブロック塀にワイシャツの肩がこすれそう』という『暗渠の道』に進んだ先に『いかにも日本家屋といったつくり』と『古い洋館風』のつくりが『和洋折衷』する建物に行き当たります。そして、『玄関横のブザーを押』すと『紺色の作務衣を着た』『三十代半ばと見受けられ』る男が現れます。『本日はお時間を割いていただき、ありがとうございます』と挨拶する続に、『ちょっと教室が長引いてるんだ』と言う『筆耕士』の遠田は続を招き入れます。そこには、『長机が全部で八台並べられ、小学生らしい子どもたちが六人、正座して半紙に向かってい』ました。『ねえねえ、そのひとだあれ?』と言う女の子に『おら、ちゃっちゃと書け』と返す遠田。『バランス取るのむずかしいよ』、『若先がなかなか花丸くれないんじゃん』た『口々に文句を言』う子どもたちに『手本書いてやっただろうが。適当になぞれや』と『応戦する』遠田。『子どもたちはみんな「風」と書いている』中に、『なにかがたりないっていうか、堅いんだよなあ』と言う遠田は『手本なんか参考程度にしときゃいい』と続けると『なにを思ったか六畳間と八畳間の掃きだし窓をすべて開け放』ちます。『熱と乾いて埃っぽい庭土の香りがドッと室内になだれこむ』中、『ほら、これが夏の風だ』と言い、子どもたちに『どんな風だった?』と感想を求める遠田は窓を閉めます。そして、『いま感じたことを思い浮かべながら、もう一度「風」って書いてみな』と指示する遠田。子どもたちは『それぞれの夏の「風」を書きはじめ』ます。『素人の俺の目にも、窓からの風を感じたあとの生徒たちの字は生き生きと躍動して見えた』と思う続は、『なるほど、「風」という一文字だけでも、こんなに多種多様で自由なものだったのか』と感心します。そんな続と遠田との出会いの先に、『書』の世界に魅せられていく続のそれからが描かれていきます。
“都内の老舗ホテル勤務の続力は、パーティーの招待状の宛名書きを依頼するため、書家・遠田薫の自宅兼書道教室を初めて訪ねた。 副業として手紙の代筆もしている遠田に無茶振りされ、なぜか文面を考えることになるチカ。その後も遠田から呼び出され、代筆の片棒をかつぐうち、チカは人の思いをのせた文字と書に惹かれていく…”と内容紹介にうたわれるこの作品。2023年5月31日に単行本として刊行されたこの作品ですが、通常とは大きく異なる出版経緯を辿る作品でもあります。昨今じわじわと利用者が増えていると言われるAmazon社のオーディブル、要は朗読ですが、この作品は2022年11月に、オーディブル用として朗読の配信のみがなされ、それから半年後にようやく文字の単行本として刊行されています。つまり、三浦しをんさんはこの企画で作品を出すにあたって、まずは音声情報だけで読まれる(聴かれる)ことを前提にこの作品を書かれたことになります。話を受けて、”目で読む読書とは違う楽しみ方ができるなと、新しい可能性を感じました”と語る しをんさんは、”題材を考えたとき、『文字』にしたら面白いんじゃないかと。文字は、基本的には目で見て認識するもので、それをあえて音声のみで表現することで、文字のイメージがふくらむんじゃないかと思いました”と続けられます。そう、音声を聴く朗読という形態に、敢えて『書』の世界を選ばれたという しをんさんの選択によってこの作品は生まれたことになります。ブクログのレビューにもオーディブルで読みました(聴きました)ということを書かれていらっしゃる方もいらっしゃいますし、折角なので私も”オーディブル初体験!”と、3秒ほど息巻いたのですが、オーディブルで聴いた後に何も見ずにレビューを書く自信はとても持てなかったので早々に諦めました(苦笑)。
さて、そんなこの作品は”耳で聴く”オーディブルを意図されてか、巻末に複数の方面に渡る”謝辞”が記載されているのが特徴です。”書道監修”は当然としても”鉄道監修”、”小学生の語彙監修”、”猫の生態監修”というものまでが登場します。では、この監修によると思われる箇所を見てみたいと思います。まずは、”鉄道”です。この作品の舞台は『京王線下高井戸駅に降り立つ』続が遠田の家を探して彷徨う場面からスタートします。そこに登場するのが、『玉電』です。
『「玉電」とは東急世田谷線の通称だと、ちゃんと調べはすんでいる』
遠田からのメールに記されていた『玉電』沿いへと歩みを進める続。
『二両編成の電車が停まっていた。バスのように小さく愛らしい。これが世田谷線だろう。インターネットの情報によると、道路とははっきり分離した形で線路が通っているが、もともとは路面電車の支線だったとのことだから、こぢんまりした車体なのもうなずける』。
初めて見た『玉電』を珍しそうに見る続の目に映るものが描写されていきますが、耳から聴こえる朗読でも情景が目に浮かぶのではないかと思います。そして、”今回、住宅街で、昔ながらの書道教室が残っていそうな街はどこだろうと考えたとき、かつての路面電車の名残があるところがのどかでいいなと思って、下高井戸駅にしました”という しをんさんの想いあって選ばれた街の風景が雰囲気感のある作品世界を作り上げていきます。
二つ目は”小学生の語彙”です。朗読という形だからこそ、会話の場面は重要です。”その場で書き直したり、セリフのニュアンスを変えて読み直していただいたり。リテイクを重ね”たとおっしゃる しをんさんが舞台に選んだのが『書道教室』である以上、そこには生きた小学生たちの会話が必須です。では、『吹く「風」じゃなく、引く「カゼ」を思い浮かべながら書い』ているんじゃないか?と遠田が指摘する場面を見てみましょう。
・『すげえ!なんでわかったの若先!』
・『やっぱりな。悪寒って感じがする』
・『オカンってなに?』
・『ママのこと?』
・『「ママ」って呼んでんのかよ、だっせえ』
・『じゃあなんて呼ぶの』
・『母ちゃんだろ』
・『噓だあ。あんたが「ママ」って呼んでるの見たことあんだからね』
どんどん脱線していく子どもたちの会話ですが、実に活き活きとしています。如何にも子どもたちのがやがやした集まりという雰囲気感が出ています。これは、オーディブルでそのリアルを聴いてみたくなりました。
そして、三つ目は”猫の生態”です。そもそも しをんさんというと猫好きで有名な方でもあり、この作品には遠田が飼うカネコという猫の描写が大量に登場しますが、これは想像で書けるレベルではとてもないと思います。猫好きな方が、猫をじっくり観察する幸せの先に生まれた描写の数々、それがこの作品の猫の描写を言い得ていると思います。では、そんな数々の描写の中から『猫がうっとりしながら舐めてるCMでおなじみの』『パウチ状の猫のおやつ』を続がカネコに与える場面を見てみましょう。
・『期待のこもった眼差しを俺の手もとに浴びせていたが、パウチが開いたとたん、あぐらをかいていた俺の腿にのしのしと乗りあげてきた』。
・『カネコ氏はパウチを持つ俺の手を両手で挟むようにして、中身のペースト状おやつをちゅうちゅうぺろぺろしはじめた』。
・『夢中とはこのことで、カネコ氏はおいしさのあまりか陶然と半目になっているうえに白目をむいている。感極まって「ぶふっ、ぶふっ」と鼻息まで荒い』。
夢中で『猫のおやつ』を舐めるカネコの描写はとてもリアルです。極めつきは、
『俺の手の角度がちょっとでもお気に召さないと、前脚でぐいぐい調整してくるため、爪が刺さって痛い』。
という続の被害の様子でしょうか?これは、見ているだけでは絶対に書けるはずのないもの。あくまで日常生活において実際に猫を愛でているからこそ書ける記述だと思います。兎にも角にもこの作品には、カネコが見せるさまざまな生態が次から次へと登場します。これがないと別の作品になってしまうというくらいに雰囲気感を支配してもいると思います。猫好きな方には、もうこのことだけを理由にしても読むべき作品だと思いました。
そして、さまざまな魅力に満ち溢れたこの作品の中央に来るのが、”文字”を題材にされたということで展開する『書』の世界です。それは大きく分けて二つに分けられます。一つには書名にある『墨』という言葉から想像される『書』の世界です。『書家』の遠田が登場するこの作品では彼が『書』に向かう場面も描かれます。『文机から硯箱を取ってきてかたわらに置き、毛氈に向かって正座する』と始まる場面を見てみましょう。
『遠田は改めて筆に墨を含ませ、硯に軽く押し当てるようにして穂先を整えた。ついで、左手で画仙紙の隅を押さえ、ぐっと前傾姿勢になって、筆を画仙紙に接触させた。そのあとは、まるで魔法を見るかのようだった。筆を通して画仙紙に伝った墨の最初の一滴が、自動的に文字の形のとおりに繊維のあいだに染み入り、黒い軌跡を浮かびあがらせているのではないかと思うほど、遠田の筆運びはなめらかで迷いがない』。
目の前で『書家』が筆を運ばせていく場面と対峙する続の興奮が伝わってきます。『まるで魔法を見るかのようだった』という一文がそれをよく表していますが、本物に接する瞬間にそれに囚われる感覚というものは他のことでもあるように思います。書名に「墨のゆらめき」とつけた しをんさんの『書』への思い、本物が魅せる迫力を強く感じました。そして、この作品で興味深いのは、『書』を元にえっ?と思うような展開がなされていくところです。それこそが、『若先は、だれかの代わりに手紙を書く仕事もしてるんですよね』と、子どもの質問に『代筆屋な』と返す遠田という先に描かれる『代筆』の世界です。『代筆』を”代書屋”として物語の主軸に据えた作品としては小川糸さん「ツバキ文具店」、「キラキラ共和国」、そして「椿ノ恋文」というシリーズ三部作が思い浮かびます。鎌倉の街を舞台に描かれる小川さんの『代筆』の世界は雰囲気感抜群にその美しさで読者を酔わせてくださいます。それに対してこの作品の『代筆』の世界は少し異なります。それは、『書』を書くのはあくまで『書家』の遠田ですが、その元となる文章を作るのは主人公の続なのです。この迷コンビが作り上げていく『代筆』の世界。小川さんの作品と違って『代筆』に主軸があるわけではないものの依頼者の想いに沿って作り上げられていく二人の共同作業は、それが作り上げられていくまでの二人の絶妙な掛け合いの面白さも含めてこの作品に良い味を出していきます。
このように、この作品は読者を楽しませることを知り尽くした しをんさんならではの豊富な仕掛け、さまざまな切り口から繰り出される視点が読者をまったく飽きさせない中に展開していきます。そんな作品の主人公はホテルマンの続です。『西新宿にある』『六階建てで客室数も二十四室と非常にこぢんまりとした』『三日月ホテルに勤務して十五年』という続の務める舞台の設定も絶妙ですが、そんな続が『書家』の遠田と出会うことで、続がそれまで知ることのなかった『書』の世界に魅せられていくのがこの作品の大きな特徴です。もしくは、それは遠田という人物に魅せられていくと言ってもいいかもしれません。そして、それは遠田だけでなく、この作品を読む読者も同様です。味わいのあるカネコの描写と共に、そんな猫を飼育する飼い主の人の良さまで滲み出てくるような物語は、一方で、遠田という人物に対する興味・感心に移ってもいきます。『俺は養子なんでね』と語る遠田。物語は後半に向かってそんな遠田に隠されたまさかの物語を描いていきます。読者の誰も予想できないであろうまさかの展開を見る物語後半。しかし、そんなまさかの展開をもってもこの作品の雰囲気感が揺らぐわけではありません。”はみ出した人をバッシングしたり、人の属性だけを見て排除したり”という今の世を憂う しをんさん。”そんななかで、ひとつの希望として、続と遠田の出会いを書きたかったんです”とおっしゃる しをんさんが『書』の世界を背景に魅せてくださる人情の物語。この作品には しをんさんならではの人と人との繋がりを強く想う物語が描かれていたのだと思います。
『書家が全身と全神経を駆使し、ついには自身の存在さえ消え去るほど集中したそのとき、世界が反転して、眼前の文字に書家の姿、書家の思いや魂も含めた森羅万象が映しだされる』。
ホテルマンの続と、『書家』の遠田の出会いの先に、確かに紡がれていく人と人の繋がりを描くこの作品。そこには、オーディブルを先行させることを前提としたさまざまな工夫に満ち溢れた物語が描かれていました。猫好きにはたまらない描写が連続するこの作品。『書』の世界の奥深さに魅せられていくこの作品。
『書』の世界に関わる人たちの”お仕事小説”の側面も見せる物語の中に、しをんさんならではの魅力溢れる世界が展開する素晴らしい作品でした。続きを読む投稿日:2024.01.03
書道家と言えば、最近テレビドラマであった五島列島の書道家の話と代筆屋と言えば小川糸氏のつばき文具店が、ミックスされたようなイメージ。後半は、三浦氏独特の展開だった。いずれにしても会話が楽しい作品でした…。続きを読む
投稿日:2024.05.27
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