生きていること
ティム・インゴルド(著)
,柴田崇(著)
,野中哲士(著)
,佐古仁志(著)
,原島大輔(著)
,青山慶(著)
,柳澤田実(著)
/左右社*
作品情報
生きることと知ることは完全にひとつになる。この本を読めばそれがわかる。──大澤真幸(社会学者)あなたの生に出逢うため、世界という命に己を浸せ。そして「共に」運動せよ。──磯野真穂(文化人類学者)この本で人類学は、これからのデザインの視座になった。──佐藤卓(デザイナー)私の探究を人類学ではなく、芸術や哲学、建築といったジャンルなのではないかという人もいる。だが私は人類学者である。なぜならあらゆる注意を払い、動くこと、知ること、記すことを通じて世界に向かって生きながら、生きていることそのものを探求するのが人類学者だから──。地面とはいかなる場か、線を引くとはどういうことか、板を挽くとき職人たちは何をしているのか、大地・天空と応答すること、散歩することと物語ること、観察するとはどういうことか。さまざまな問いから、人類学や哲学が取り逃してきた〈生きること〉の姿をみつけ、〈生を肯定する人類学〉の可能性と価値を擁護する。芸術・哲学・建築などのジャンルと人類学の交わるところに、未知の学問領域を切り拓いてきたインゴルドの豊穣なるアイデアのすべてを込めた「Being Alive」、いよいよ刊行!
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この作品のレビュー
平均 4.5 (2件のレビュー)
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ラインズ以来の興奮を覚えた。
芸術と建築はそこにすでにあるものを観察し記述することなく見たこともないかたちを自由に生み出す、そのような通年はもはや擁護できない
動くこと、知ること、そして記すことは…直列につながれる別々の操作ではなく、むしろおなじプロセスの並列した複数の側面であり、生そのもの
生産の本質は、目の前に掲げられた達成すべき目的の心像や表象よりも、行為が持つ注意深い調整という質、すなわち展開しつつある当面の課題に対する鋭敏な調整と、それが作り手を発達させるということにある
行為が生産者の人間の周囲との世界の可能性を抽出して現前させ、文字どおり前へと導きだす能力に焦点を当てるとき、たしかに、生産者としての地位を人間だけに限る根拠は何もなくなってしまう。人間であろうと人間以外の動物であろうと、事前に心のうちに抱いたデザインを自然の素材という基体に刻み込むことで世界を改変などしていない
人類学とは、世界という織物のなかで繰り広げられる人間の生成変化を探究してゆくこと
すまうことは、生きていることと同じく進行中のことであり、すでに建てられた構造物を占拠することではない。すまうことは、生きた世界の流れに浸ることであり、それなしではデザインすることも、建てることも、占拠することも起りはしない
すまう視点は、素材とともに仕事をするプロセスとして、また単に仮想物を実物へと移し替えるのではなく、かたちを生成するプロセスとして建てることと捉えなおす
つくることに先立って、作り手が物質世界を超越し、それを支配する意図をもつのに対し、住まう視点では、素材の世界に包まれており、文字通りそこから引き出し、紡ぐことで仕事を進める
知覚は根本的に動きに関するものだということ。知覚は体の内にある心の達成ではなく、環境内を動き回る有機体全体が成し遂げることであり、生物が知覚するのは事物それ自体ではなく、進行中の活動の遂行のために事物が与える機会である。これらアフォーダンスに注意を向け、応答するプロセス、事物と関わることを通じて人間、人間以外の動物など巧みな実践家は事物を知るようになる。意味とはこのような生産的な関わりから発見されるもの
感受性を持つことは、世界に対して開かれ、包まれ、己の内部を世界を満たす光と響きに共鳴させること。光や音、感覚に浸され、知覚者であると同時に生産者である感受性をもつ体は、その連続変化に寄与するとともに、世界の展開の道筋をたどっていく
すまうことは、文字どおり、生の道すじを漕ぎだす動きである。この道筋により、生は生きられ、わざが磨かれ、観察がなされ、理解が育つ。
家を建てようとして、あるいは畑を耕そうとして、仕事にとりかかる。やがて仕事がうまくいき、満足しても、生と意識は前進しており、地平の向こうには新たな目的が既に立ち現れている
熟練者の頭のなかに閉じ込められた意識ではなく、環境に参与してゆく感覚の多様な経路に沿って、環境に向かって伸びる意識
彼女にとって、つくることは「発見すること」であり、「自分がその内部にいて、自分の周囲で展開する生きることへの開かれ」に他ならない
対象を生み出した素材は、当の対象の中に飲み込まれて消え失せてしまったかのようである。こうして私たちは、対象そのものに注意を引き付けられるようになり、対象をつくった素材にはもはや注意を払わなくなる
物質文化の理論家が考える固い対象がつくる世界では、素材の流動は窒息し、動きを留めている。そのような世界では、素材はすべてモノに閉じ込められてしまい、呼吸できない。
モノには生命があり、能動的だが、それがモノのなかや物体の一部に精神が保持されているからではなく、周囲のメディウムのサブスタンスがのみこまれ続けるから
環境はそこで生きるものとの関係において絶えず展開する世界
環境が展開するとき、環境を構成する素材は、物質世界の対象と同じように存在するのではなく、生起する、したがって環境の構成要素としての素材の属性は過程的であり、関係的であり、モノの固定した本質的特性と同一視することはできない
石らしさというものが一定不変ではなく、光や影、感想や湿気、そして観察者の位置、姿勢や運動との関係で絶えず変動する
素材がつくる世界では、石が人間の文脈のなかで立ち現れるのと同じように、人間は石の文脈の中で立ち現れる
社会、自然という具合に本質的に異なる存在の水準にあるのではなく、同じ世界の重なりある領域として確立されるもの
石らしさは、石の「本質」、つまり石の物質性にはない。観察者や取り扱う者の心のなかにもない。あなたや観察者を含む、周囲全体と石の関り合いを通して、石が生活世界の流れに関与する多種多様な仕方において、石の石らしさが創発するのである。
歩行の経験を足ふみマシンの操作に切り詰めたことと、それと呼応して創造的知性の場としての頭部が高く持ち上げられたことが、現代社会に特有の地に足の付かない感じを、、
知覚の研究方法を文字通り、地面に根をもつものにしていけば、感覚間のバランスにおいて触角が適正な地位を回復する助けになる
最も根本的、かつ持続的に周囲の環境に「触れて」いるのは、間違いなく足を通して地面と接触しているとき
目的地志向の旅行の習慣は、知識が歩行者が移動する経路に沿ってまとめられるものではなく、ところどころにある休憩場所からの観察の築盛
固定された高台からモノを知覚するのだと思い込むようになった
対象のかたちは、固定した地点からではなく、運動の持続する道のりに沿って、知覚する
認知ではなく、移動こそが知覚活動の出発点
歩くことを通して、継続する終わりのない過程のなかで風景は生活に織り込まれ、生活は風景に織り込まれる
あるモノを道具だというのは、他の物との関係において、それが何らかの効果を発揮しうる活動領域に配置すること
人間が設計したもののなかで、目的に完全に適合するものはない。のこぎりは、「誰かが暫定的に判断する、現段階で鋸に無理なく期待できる機能」
樹をきるには、鋸だけでは十分でない
道具がその物語をもつのは、作業場にあるその他すべてのあれこれの用具がそろった文脈に置かれている場合に限る
★★鍛治の巧みさの神髄は、動きの安定ではなく、次々と生じるタスクに対する動きの調整にある
技術的活動は、静的な背景に対抗するようになされるのではなく、その多様な構成要素がそれぞれ固有の周囲を経験してゆく世界のなかで行われる
鋸で板を切る作業は、単一の運動ではなく、身体の内外両方で並行して起こる運動の集合他。自分がやっていることへの自覚をもった大工は、複数の運動をなんとか局面へまとめ上げ、それらを共鳴、あるいは調和させる
生命の網は、つながれた点からなるネットワークではなく、編みあわされた線からなるメッシュワーク
生成の世界においては、通常のもの、あるいは平凡なもの、直感的なものでさえ、驚嘆-まるでその瞬間に初めてその世界にでき鷲、その躍動を感知し、その美しさに驚き入り、そのような世界はどのようにして可能であるのかに想いをめぐらせる驚嘆
動物が環世界にとらわれていることと、世界が人間に開示され、開かれている仕方
有機体(動物や人間)を、環境によって取り囲まれる境界付けられた存在者としてではなく、流動世界における境界のない線の絡み合いであると結論づけたい
アニミズム-世界について信じる方法ではなく、世界のなかで存在する条件
住みつかれた世界は、それ自体として表面をもたない。人が出会うどんな表面も、それが地面、水、建物の表面であれ、世界の内にあり、世界についてのものでhない
知覚とは、使用の過程で、意味が発見される事態のこと
ユクスキュルが物の質と呼ぶものは、それにより事物が特定の生き物に対して意義をもつものとしても、物それ自体に固有のものではなく、生き物の活動へと取りこまれることで獲得されるもの
それらは当の生き物が必要とするものであり、まさにその石に注目するという行為において石に授けられる質
世界の所定のくぼみに適合するどころか、動物の方が世界を自分自身へと適合させるのであって、みずからが切り結ぶものに対して有用な質を刻み付けることで、物をみずからを含むひとまとまりのシステムへと統合する
★その人が手に石を持ち、その物体について熟考しているあいだは、これらの物のどれでもない。それは単にあるかたち、大きさ、対象である、中立的な対象。原理的にはほとんど無制限の用途の幅を見出せるもの。
ツグミはまず医師が何で有るかを知覚してから、次に石を使って何ができるのかを考えるわけではない。それはツグミが自分のくちばしを使って何ができるのかを考えないのと同様である
精神は、行為が遂行されるなかで臆面もなく、身体や世界と混ざり合うもの
天と地を分かついかなる線もなく、介在する距離も遠近法もなければ輪郭もなく、視界は限られているものの、もろもろの地点や対象のうえにではなく、さまざまな此性つまり諸関係のさまざまな集合の上に、成り立つ極めて繊細なトポロジーがそこには存在する
個々の行為するアリ(アクタント)がエージェントではない。むりお、エージェンシーすなわち物事を生じさせるものはネットワーク全体に分散されている
物が相互作用するためには、それらの物を取り囲むメディウムの渦が調えるある種の力の場に深く巻き込まれていなければならない
これらの渦から切り抜かれると、つまり物へと還元されると、それらは死んでしまいます。力の線を切断することで、メッシュワークを絶体絶命にし、かくして、メッシュワークを何千もの断片に切り刻んでしまうのです、その破片にエージェンシーという魔法の粉を振りかけて生き返られようとしても無理なことです
網は、相互作用する対象ではなく、相互作用の可能性が基づく基盤。網は、私のエージェンシーの条件そのものだが、それ自体がエージェンシーというわけではいない
知性は、世界のなかで実行する前にあらかじめ頭のなかで問題を解決する認知能力のこと。しかし知性とエージェンシーはまったく別物。
★あらかじめ考え抜いたことでなければ何もできない生物は、実際には何もできない
★行為の本質は、事前の思考にあるのではなく、身体運動と知覚との密接なカップリングにある。熟練者とは、行動の流れをまったくさえぎることなしに、自分の知覚環境において生じた錯乱に対して絶えず自分の動きを調整することができる者のことです。そしてそのような技能は出来合いのものではない。むしろ環境中での有機体自身の発達の重要な部分として、発達するのです。エージェンシーは技能を必要とし、技能は発達を通して生じるので、発達の過程がエージェンシーを行使するための必須条件となります。
生きていいることは、光を楽しむこと、地面の支えを、開けた道を、空気の浮力を、楽しむということ
空気を感じで地面を歩くというのは、周囲と外的に触覚的に接触するということではあく、周囲と混交するということで
彼女は、真下の硬い岩石と真上の晴れた天空のあいだにいる自分自身を見つけている
開けに居住するということは、閉じた表面の上で立ち往生することではなく、風と気象の絶え間ない運動のなかに没入すること。
陸と気象のあいだの関係は、むしろ世界を、結ぶことと解くことのあいだの関係
近代建築と都市計画は、居住する世界をいつでも使用できるように準備された家具付きの宿泊施設に改造する建設プロジェクト
線描の過小評価は、像(イメージ)の重要性の一見甚だしい過大評価と隣り合わせになっている
いったいなぜ線描をするのか。描写や説明が目的ならば、言葉を使った方がよい。表現、図解、表示することが目的ならば、写真を使った方がはやい。
★★そもそもは近いことだった、線を描くことと字を書くことが、つくることに対するある種の見方の中に取り込まれた結果として、一方がイメージ、他方がテキストという二分法の両極へと追いやられてしまった
つくることをプロジェクトとして理解するもの。想像のなかでかたどられたアイデアをそれを受け取るべき準備された物質の基体において具現するという見方は、近代の特徴的な「つくる」。
←こうした場合、線描は、心がイメージを紙に投影し、その輪郭をトレース工がなぞり、鉛筆で下書きをするものとみなされる。人が線を描くときには、イメージが心から転移するということ。
線描は、イメージの投影とは無縁であり、むしろ散歩と深く関わるものである。大地に分け入り、大地とそうぞのそれぞれに足跡をのこすこと、それは大地と空からなる世界を歩くときに起こることそのもの
★筆者の技能においては、書くことと、線描すること、さらには絵を描くことのあいだの区別はほとんどない。中世の写本家は写本を描く画家であり、写本のページには絵と言葉がごく自然に交錯していた。ここではテキストとイメージのあいだに根本的な対立はない
★★芸術の目的は、イメージと対象がそれぞれ宿る根本的に対立し相容れない二項のあいだを仲介することにはなく、むしろ心と世界を現在進行形の動きのなかで結びつけることにある。その動きは生そのものにほかならず、生の衝動が目に映る形を生み出す。芸術は自然を真似するのではなく、芸術と自然は根源的には同じ源から湧き出ている
★エスノグラフィーでは、観察と記述が分離している。記述と観察を再び結びつける方法として、記述を言葉による構成ではなく、線を引くプロセスとしてとらえることを提案する
★手書きの文字線は、「散歩にでかける」線である。歩く人がその土地に展開するみずからの足跡として自分の現存を記してゆくのと同様に、手書きをする人は、彼の伸びてゆく筆跡により、自分自身の現存を示す
★中世の作家は、ことばと絵、あるいはテキストとイメージのあいだの近代的な存在論的区別を受け入れていなかった。厳密には等価であり、交換可能なものであった。絵は言葉よりも視覚的ではなく、ことばは絵よりも視覚的でないことはなかった。視覚と聴覚という双子の門から、絵画と言語の道に通じていた
→ここがやりたいんだろうなぁ。「絵」でも「テキスト」でもない形での「ことばの現前」。視覚的でもあり、聴覚的でもある
★アルファベットの「O」は、ある種の感情のトーンを喚起し、それは音楽の調性が喚起するものと似ている。つまり、「O」は内的な側面と外的な側面をもっている。目で見ることのできる絵画的なかたちと、内的にしか感じられない感情のトーン。
精神がなくてもかたちによって得ることはできるが、心理が明らかにされるときには、精神と実体の両方が完全に表出される
★芸術は可視的にするのであって、可視的なものを再現するのではない
★熟練したわざにおいて問題となるのは、心のうちにあるかたちをみずからは動かない物質に型押しすることではなく、かたちが生成する素材の力と流れの場に没入すること。作り手は、放浪し、歩き回るのであって、そのわざは運動状態にある世界の肌理を見つけ出し、その展開をなぞるとともに、発展しつつある目的にかなうようにその流れを導いていく。
★大工の斧は、木の肌理に適うように「機の繊維の波状や変化の歪み」に導かれる。
生きた素材同士が編みあわさっていく過程でものが成立するのではない
★建築家は建物は、完成された物だと考える。建設業者じは建物を、基礎、土台、、、、といった一連の手順として知り、理解している。設計をつくることから切り離した結果、建てられる環境に「流れ」がなくなってしまった。即興や適応は設計できる代物ではない。
物質にかたちを押し付けるというよりも、多様な素材を束ねなおし、何かを生成させようとしてその流れの舵をとっていく
★ネコも、ネコ用ドアもエージェンシーを備えているわけではない。むしろそれは行為に取り囲まれているのである。
→ここ、重要な論点だと思う。あくまで「行為」がないと、潜在的な「エージェンシー」が発揮されない事態を呼んでしまう。
★私たちが生きる世界は、主体と対象から成り立っているのではない。問題は「主」あるいは「客」もしくは両者の区分にあるのではなく、むしろ「投げ出された」ことの方にある
★凧がそのようにふるまったのが、屋外に出たとき、凧と私たちが「風」と呼ばれる空気の流動に吹かれたため。屋内では死んだようにじっと横たわっていた凧が、勢いのある流動に飲み込まれた途端、生をふきこまれた。ついさっきまで対象だと思っていたものが、モノであることが判明した
モノはみずからの生成の同線へと私たちを引き込みいれる。それぞれが進行中
★★凧と凧のあげ手、それぞれが交互にエージェンシーと客体を演じ相互作用する二つの存在としてではなく、対位法のように、呼応しつつ絡み合う運動の軌道、旋律とリフレインのようなもの。
レンガ、モルタル、材料なども対象ではな。これらは素材なのだ。そして人々は素材に従うのであって、みずから生成しつつある線を束ね、生きた世界を構成する素材の流動のテクスチュアを紡ぎだす。このような営為から、建物、植木、絵画などが創発する
★モノの生を対象のエージェンシーと置き換えることは、モノから対象、さらに生からエージェンシーという二重の還元を行うことに他ならない。それはあやまっている
★★事前に心のうちに抱いたアイディアを施工するということではなく、当の作品のかたちをあらしめている素材の力と流動に合体し、それに随うこと。作品はそれを見るものを芸術家の旅の道連れをするように招く。見る者は、作品が世界に現れるさまを、作品とともに見るのであり、作品という最終形をもたらすことになった元来の意図をその背後に読み解くのではない。
★物質に従うことは、再生することではなく、巡行することを本質とする
即興することは、開かれつつある世界の流線をたどること
身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが即興することは、世界に合流し、世界と混然一体になること。ささやかな歌に身をまかせて、我が家の外に出てみる。ふだん子どもがたどっている道筋をあらわした運動や動さや音響の線に、
線描の本質は、静的な存在よりも、動的な発展にある。山、鷹、森の木として存在することはできない、しかしみずからのうごきと身振りを描きたいものにかなわせることで、「モノとなる過程」、生成の動線となることはできる。それは「流れ」であると同時に、「絶え間ない微調整」である。鉛筆を持った製図工は、自分が行く先を感じつつ、動的な目標に低位するように、動作を絶え間なく微調整しなければならなう。
紙の上の痕跡は、導かれるだけでなく導くのである。それは紙の側から画家が次に線を運ぶ行き先を導き、紙の上の跡として新たに戻ってくる。
★★線描は、非常に強力な観察のツールであり、観察と記述を一つの身振りにおいて組み合わせたものである
描かれる線は、表面を覆うのではなく、通り抜ける道を見つけることで表面を消滅させる
★線描は、知覚的には存在するが、概念的には不在のものをえがく
★すでにそこにあるもの、あるいはすでに過ぎ去ったものを完全に記述するのではなく、その形成の動きのなかで、人や他のものと一体となることを目指している。この一体となることこそが観察の実践である。
★★観察することは、何が起こっているかを眺めるように、「そこにある」ものを見ることではない。観察の目的は、観察されたものを再現することにはなく、同じ生成的な動きに、観察されるものとともに参与すること
単に注視することによっては、書の作品を観察することはできないし、その意味を理解することもできない。人はその中に入り込み、その制作過程に参加しなければならない。つまり、墨の痕跡のなかで書家と 再開する
本とスライドで訓練を受けた美術史家が、敬意をもって、距離をおいてたち、動かずに見る。線描の身振りに成れている芸術家は、手でなぞり、痕跡を追体験し、身体的な反応をする
観察者は、暗闇のなかで手探りをしているように見え、その経験は視覚よりも触覚的なものである
★★物事を記述することは物事を線描することではなく、それを文章にすることだと思い込んでいた。さらに言葉による作文の芸術として、記述的な文章を書くことは、観察から遠ざかることを伴うと想定されている
→★★ぼくにもこの偏見がある。いったん文章にしなくても、文字を使って「記述」できる方法はある。ここに可能性がおそらくある
記述を言語的な構成ではなく、線を引くプロセスとして考える
★★線を引くことは、まだ観察から離れていない記述のモード。手の身振りが表面に痕跡を描くのと同時に、観察する目は、生活世界の迷路のような絡み合いのなかに引き込まれ、それらの形態、プロポーション、テクスチャー、その動きを感知し、つまり生成する世界のダイナミクスを感知する
★★観察と記述とを結びつける線描の可能性は、書かれたテキストと視覚的なイメージとのあいだの二分法により隠されてきた
→ここはまさに自分も同じ偏見にはまっている。
★★線描は、テキストとイメージの二極化の前提を覆す。線描はイメージとして固まったり、印刷されたテキストの静的な言葉のかたちにまとまったりすることはない。それらは、世界を全体として捉え、それを見るモノや読む者に向けて再生するのではない。むしろ、線描の線を観察する目、身振りをする手、そしてそれらがのこす記述的な痕跡のあいだで繰り広げられる関係の中で、世界の動きとともにリアルタイムで進行してゆく
→意味に回収されるわけでも、視覚的なイメージ(具体)に回収されるわけでもない、ただそれとしての「ことば」を現前させる線描の可能性
カメラがより早く鉛筆のしていることをできると考えるのは間違いであるし、写真のイメージがより正確な仕方で線描と同じことをしていると考えるのも間違い。
★★鉛筆はイメージに基づく技術ではないし、線描はイメージではない。線描は何が起こっているのかを追う観察的な身振りの痕跡
★キーボードは、観察的な記述に不可欠な知覚、身振り、その痕跡のあいだのつながりを絶つ
→逆に言えば、「書道」の可能性はここにしかないな
線を描くことへの回帰は、手書きへの回帰でもあり、イメージとテキストのあいだの硬直した対立を、手書きから線描、スケッチに至る一連の手書きの実践、あるいは線づくりのプロセスに置き換える
「について=他者化」の研究ではなく、線描は「とともに」にある研究を生み出す
生の課題は決して完結せず、世界が絶え間なく世界する途上にあるということは、生がなかば完結し、私たちが住む世界が半ば出来上がったことを意味するのではない。
線描は描写による呼応を可能にするものである。
人類学における教育は、世界の知覚を教育するものであり、未知の存在の可能性に対して、目と心を開くもの
この世界について、ではなく、この世界と共に考える。そのとき、心は皮膚の境界を飛び越えて探索し、外に向けて伸びてゆく。実証主義とは異なる。
世界とそこに住まうものは、人間と人間以外のものを含め、私たちの教師であり、指導者であり、対話相手なのだ
夢の中ではいつもと異なる種類の動きをしながら、別の感覚を介して世界を知覚する。
人類学を行うことは、夢のなかにいるように、世界を開き続けることなのだ
★★人類学が試みているのは、区分けされた物体や実態の比較ではなく、さまざまさな存在の仕方である。異なる存在の方法に対する気づき、ある存在の仕方から別の仕方への移行可能性が常に存在することに対する絶え間ない気づきであり、この気づきこそ、人類学的態度を定義するものである
→こう考える、自分の制作も多分に「人類学的」なのかもしれない。
どこにいても、何をしていても、常に物事が異なる仕方で行われるかもしれないことを認識している。この完成は、芸術と共通するものだと私は思う。
通常の科学は、人間の直接経験の領域から排除することで、客観視を試みる
★★実在の問題について、取り組むものは、一般的な方法と理論に関する細かな議論に耐えられない。そうした議論にうんざいりしてしまう。彼のしかるべき研究を邪魔するものである
絵画、線描において観察と描写は手を携えて行われる。絵画もドローイングも土地の形や輪郭を追いかける画家の視覚的な知覚の動きと表面に痕跡を残す筆のや鉛筆を持つ手の身振りのあいだに結びつきを伴うから。
知覚と行為のむすびつきにより、画家は世界に引き込まれ、描写の身振りと痕跡において世界を描き出す
記述は、対話や観察から離れて反省、分析、解釈するための場所である。
人類学は探索的な仕方で世界に住まうこと、探索的な仕方で世界とともにあることとして、「横目で見る」比較的な態度により特徴づけられる、それ自体が参加型の対話に根差した観察の実践
人類学はエスノグラフィー(冷徹な記述)ではない
腰かけ椅子のなかではなく、世界のなかで、こうした大問題に立ち返る学問分野のために。私たちは哲学者になれる。そして世界との観察的な関わり合いや世界の住人との共同作業や呼応のやり取り続きを読む投稿日:2022.01.18
良くも悪くも人文学、人類学の本だなあという感じ。評価は人によって分かれそう。難しいと感じる人も多いだろうが、基礎的な内容のようにも思う。
投稿日:2024.01.10
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