この作品のレビュー
平均 4.3 (5件のレビュー)
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『「わざ」の習得が最終到達点ではない。その先がある。というより、稽古は「わざ」に囚われることを警戒し、「わざから離れる」ことを勧める』―『第1章「気にする」のか「気にしない」のか』
最近の若者(など…と表現すること自体、如何に自分が年を食ったかを示しているので気が引けるが、敢えて言いたい)に繰り返しの多い仕事をさせると不平不満が出る。ラグビーワールドカップの度に、ジョニー・ウィルキンソンや五郎丸のルーチンが話題になるが、それと仕事上の決まりごとが結び付く気配はない。
中学で剣道、高校でバドミントンを部活動としてやった身としては、最初から面白い仕事など出来る筈が無いと思うのだが、そういう旧態依然としたことを言っても話が通じるわけではない。最初は憧れていた対戦どころか、手応えのある打ち込みやシャトルにも触れさせてもらえず、ひたすらに繰り返すのが「素振り」。繰り返すその内に少しずつ「様になってゆく」。そして試合で思い掛けなく自分を救う。それが後から振り返ってみるとよく分かる。だから新入生が入って来ると再び同じように素振りをさせる。そういう教えのようなものが、どうしても薄れて来たように思えてならない。
ずっとそんなことを考えて来たような気もする。大学時代や社会人駆け出しの頃に打ち込んだ合唱でも、歌を歌う前にしなければならない事はたっぷりとあった。それを飛ばしてカラオケのように歌うことも可能だが、その結果は目指しているものとは大きく異なる(だからOB会の演奏会から足が遠のくのかも知れない)出来となる。そんなもやもやとした思いを形にしてくれるのがこの「稽古の思想」という本だ。
大分以前「型」を繰り返すことの意味を野村萬斎がある番組で語るのを聞いたことがある。単純に言えば「型もなしに何かをしても型破りなことは出来ず形無しになるだけ」だと。その時、凄く共感したのを覚えているが、この本に書かれているのも基本的には同じこと。それを、修道者としてではなく研究者としてまとめたところに僅かな違いはあるのかも知れないが、以心伝心ではなく言葉によって伝えようとするところに教育研究者としての矜持があるように思う。
それは古来より「守破離」と簡潔に語られているものだが、そこを還元主義的に観察し尽くそうという試みが興味深い。もちろん、要素に分解した時、失われてしまうものもそこにはあるだろう。それでも稽古に臨むものが辿るであろう問い掛けの道程を、一歩ずつ踏み固める様は読んでいて心地よい。
『千利休はこう語る、「稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一」』―『第2章 スキルとアート』
ああ本当にその通りだなと思う。思った先から、そう言えば最近自分が一に返っていないな、と反省する。続きを読む投稿日:2019.11.11
即興を輝かせるためにこそ、事前の準備が大切になる。それが暗中模索の中で、自分なりに掴み取った、準備の基本原則であった。
稽古という言葉は、古事記序文に登場し「古を稽(かんが)える」と用いられる。
…魚住孝至「道を極める、ーーー日本人の心の歴史」
脱練習があるから、人格の変容が生じるわけではない。そうではなくて、脱練習が加わることによって、練習に厚みが生じるあるいは練習が単なる直線的上昇ではなくていちど停止し、改めて新たな形で始まる。
アートは大切なのだが、初めからアートを習うことはできない。やはりまずスキルを身に付け、その後に、そのスキルを手放していくスキルから自由になるという事は、いつでもスキルに戻ることができる。スキルを確かな土台とした上で、そこから離れることもできる時、アートが成り立つと言うことである。
稽古において工夫を怠り、舞台に出た時だけ工夫しようとすると、汚く、卑しくなる。
利休曰く「一より習い十を知り、十より帰るもとのその一」
大切なのは、もはや気にする必要がないほど役になりきること、そのものに真に成リ入ることである。
楽譜を目指すのではなく、楽譜から離れ、楽譜の事など忘れて、曲を楽しむ。
西田幾多郎曰く「ものとなって考え、ものとなって行う」
ベイトソンの「論理階型」を上がるためには、その都度執着から離れる必要があり、そのためには、日々の暮らしをそをの都度新鮮にしておくが求められることになる。
舞台は不測の事態に満ちている。自在に自分を変えて行かねばならない。そうした可能性に開かれた体を育てる知恵が「形」である。
型が、身につくと楽になり、形を意識することがなくなる
道元は、身でもなく心でもない体である自分がひたすら座禅に徹し、日常生活のすべてを、体として生きる。
体と心が1つになるのではない。体も心も消してしまう。体も心も、一切の束縛から解き放たれて、自在の境地になるという。
心身一如は、心と体の一致ではない。心は無心になり、体は無体になることによって初めて生じる無心と無体の一如である。
重要なのは、私が演じるのではなく、なんだか外側からの力によっておのずから動いたと言う点である。
能における舞は息の身体表現と語られる。息を身体表現によって、観客の目に見える形にしたのが舞である。
沢庵和尚は、無心の心を、心が一カ所にとどまることなく、流れ続け、全身伸びやかに広がっていく働きと書いた。
我見からたどりなおせば、我見の主が演者であり、対照的に、離見の主語が観客であったのに対して、離見の見の主語は再び演者に戻ってくる。
意識的に操作された肉体の動きは、体の自由な動きではない。自分で自分の動きを気にしながら、作為的に演じている限り、体がおのずから動く事は無い。
舞台人は、体の内側が動き出すのを、待っているわけにはいかない。しかし直接求めると失敗する。そこで世阿弥は回り道を工夫した。観客の視線に意識を集中し、その視点に映る自分の姿を見ると言う仕方で、自分で自分を意識することから離れてしまう。そうしていると、意識の呪縛から解きほぐれて肉体が「からだ」になる。自分が「からだ」になる。そしてからだの内側がおのずから動きだす。
世阿弥によれば、演者は「生きられた身体感覚」になる時、観客と一体になる。見所同心(けんじょどうしん)と言う。
無心の舞に至ると観客を惹き込む。それを期待してしまう。結果を意識してしまう。そこでまた、初心に戻り、無心になろうとする。それが世阿弥の稽古であったことになる。
「道」、道教(タオイズム)の「タオ・道」に近く、森羅万象全ての根底をなす、宇宙エネルギーである。そのエネルギーが顕れいでる。稽古とは「道」が顕れる機会、道が成就する機会である。
鈴木大拙「せぬときの座禅」時間をとって「座禅」してこそ、「せぬときの座禅」が意味を持つ。
何かを求める営みではない、すでにいただいていることを喜ぶ営み。それが「修行」である。
2度目
準備はそこから離れるための踏み台。踏み台がしっかりしているほうが、しっかりジャンプできる。
技から離れようとしていると、新たな技が生まれる。
「気にならない」は、「気がついた」あと。
稽古は古事記の序文にあり、「古(いにしえ)を稽(かむがへ)る」と用いられる。「照今」(今に照らす)と合わせ、「稽古照今(古を範にとり古に照らして現在を顧みる」
稽古は師なしには成り立たない。
道を極めるという視点から見ることによって、「日本人の心の歴史」がみえてこないか。
スキルの習得が、稽古の最終目的ではない。スキルではすべての事態に対応できない。
味わいあるセリフにするためには常日頃の稽古の中で、身体に馴染ませておく。「常」になる必需がある。「常をもって手本とする」。(歌舞伎)
稽古に成果を求めない。
状況を頭で判断するのではなく、状況の中にいるからだが、その時その場に最も相応しく周囲と響き合う。
型は即興性を可能にする身体の土台。
意識されなくなって初めて「型が身についた」と語られる。
型が身につくと、型を意識することがなくなる。「練習は覚えるために、稽古は忘れるために」。
曲の正確な模倣とは違うが、名人のもとで稽古した「曲」には,その名人の香りがただよう。
身心脱落。意識も肉体も通常の機能を放棄して,もはや意識も肉体も無くしてたしまったかのようになる。
能は息の芸術。「息を詰める」という言葉があり、息の詰め方によって舞台が変わる。
世阿弥が強調したのは、「我見」に縛られたまま舞台に立たないこと、「我見」から離れることの重要性。
「離見の見」観客の視線に意識を集中し、観客の視線に映る自分の姿を外から見ること。
意識的に操作された肉体の動きは、からだの自由な動きではない。
世阿弥によれば、演者は「生きられた身体感覚」になる時、観客と一体になる。「見所同心」という。見所=観客
無心の舞に至ると観客を惹きこむ。それを期待してしまう。結果を意識してしまう。そこでまた、最初に戻り、無心になろうとする。それが世阿弥の稽古。
「道タオ」の思想では、「タオ」とは宇宙全体のエネルギーであり、そのエネルギーが顕れ出ることである。とすれば、「書道」とは「書」という営みにおいて「道」が顕連れ出る出来事。書における「道の顕現」となる。
成功とは別の「納得」がある。世阿弥は「落居」という。「然るべき過程を踏んだ後、落ち着くべきところに落ち着いた」というかんじ。ある種の満足・納得。
欲を濾過していくプロセスに意味がある。その時その場の状況に対応して行くことに意味がある。そのポイントにおいて「場のエネルギー」が顕現することに意味がある。続きを読む投稿日:2023.04.07
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