この作品のレビュー
平均 4.6 (8件のレビュー)
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一読、ぐいぐいと引き込まれる。アンベードカルが不可触民の間でもある程度恵まれた家庭に育ったことは知らなかった。それでも以前他で読んだ記憶のある少年時代の差別は、きわめて強い印象を残す。不可触民であるが…ゆえに共同井戸の水を飲めず、喉の渇きに耐えかねてこっそり飲んでいるところを見つかり、あざだらけになるほど殴られる。学校でも、誰かが水をのどに流しこんでくれるのを待つほかない。教師たちは、穢れをきらい、面と向かって教えることも、質問することも拒否する。彼が黒板に近づくと、他の生徒は弁当が穢れないように他へ移す等々。
アンベードカルは、藩主バローダに見込まれアメリカに留学し、ついでイギリスに留学する。再度留学したときの限られた時間と費用の中での猛勉強の様子。時間と費用を節約するために昼食も抜いて、大英博物館館内の図書館に通い詰める。同胞の不可触民のためにと超人的な克己奮励するその姿。不可触民を「奴隷状態」から解放しようとするその意志の強さと、政治的な実行力。それでも愛する息子を失ったときには、迫害に対してはあれほど忍耐強かった彼が、深い苦悩に沈潜し、ほとんど死んだように眠る日々が続いたという。
第10章「ガンジーとの戦い」とそれに続く章は圧倒的である。アンベードカルは、ガンジーに向かって「私には祖国がありません」という。「‥‥犬や猫のようにあしらわれ、水も飲めないようなところを、どうして祖国だとか、自分の宗教だとかいえるのでしょう。自尊心のある不可触民なら誰一人といてこの国を誇りに思うものはありません。」
その圧倒的なガンジーとの対決場面。これまでのガンジーの印象が一変してしまうようなその一言一言のやりとり。挙げればきりがないが、インド独立運動の影で、不可触民解放のためのこのような必死の努力がなされていたことに強い感銘を受ける。これまで現代インド史を見る眼がいかに浅薄なものだったかを痛感する。
不可触民が政治の場に参加することを願うアンベードカルの要求に対するガンジーの敵意は、インド各地の不可触民に大きな衝撃を与えたという。そのようなガンジーにアンベードカルは仮借のない攻撃を向けた。それは、強固な意志力をもったガンジーに限りない憤怒の念を生じさせ、その怒りを抑制するのにたいへんな努力を要したほどだった。
しかし、1932年のイギリス政府のコミュナル裁定に反対して行われたガンジーの「死に到る断食」は、アンベードカルを譲歩させ、指定カーストの第三勢力が政治の土俵に上がることを防ぐ結果となった。
ここに書かれているのは、あくまでもアンベードカル側からの記述であるから、ガンジーがそのとき置かれた状況を私なりに確認しないと何とも言えない。それにしてもガンジーを単純に「聖者」とみなすのではなく、不可触民の解放運動との関係をもっと調べる必要があることは十分に分かった。
通読してアンベードカルの巨人たるゆえんが、いやというほど分かった。6000万指定カーストは、アメリカの黒人よりも悲惨だった。その「穢れ」によって同じ井戸の水を飲むことも食事をともにすることも、カーストヒンドゥーの影を踏むことさえも禁じられたのだから。黒人は少なくとも白人の召使いではありえた。インドの不可触民は、2500年にわたって、世界のどの被抑圧民民よりも過酷な状況を耐え忍んできた。その2500年の暗黒の扉をこじ開けたのがアンベードカルだった。彼によってはじめて「不可触民の心の中に人間的尊厳の念と、自尊心、不可触民制への激しい憎しみが湧き起こったのだ。」
アンベードカルの『ブッダとそのダンマ』を読むのはもう少しあとになるだろう。「私は何故仏教を選んだのか。それは、他の宗教には見られない三つの原理が一体となって仏教にはあるからである。即ちその三原理とは、理性(迷信や超自然を否定する知性)、慈悲、平等である。これこそ人々がより良き幸せな人生を送るために必要とするものである。」
アンベードカルの理解する仏教は、きわめて知性的であり、それは「単に宗教であるばかりでなく社会的教理」でもある。
アンベードカルは30万の不可触民とともに仏教に改宗したという。そして今インドには1億人の仏教徒がいるという。どのような仏教が1億人の心をつかんだのだろうか。アンベードカルが説いたような理知的な仏教がそのように多くの人をとらえたのだろうか。インドに「再生」した仏教がどのように人々の心をとらえていったのか、きわめて興味のあるところだ。 続きを読む投稿日:2008.12.20
990
インドの格差って日本人から見て凄まじいからそこのカースト外(触れてはいけないもの、近寄ってはいけないもの、視てはいけない犬猫以下の不可触民)から頂点まで這い上がった物語に迫力があって鳥肌立っ…た。伝記としても超面白いしインド社会について知れる本。日本でアンベードカルが無名なのが不思議なぐらいこんな凄い男が居たんかと思った。ガンジーの見方も変わった。
ダナンジャイ・キール (著)
1913~1984年。インド屈指の伝記作家。主な著書の中に、ヴィール・サヴァルカル、ティラク、マハトマ・ガンジー、ジョティマ・プーレなど、近代インド社会に大きな影響を与えた人物をはじめ、優れた宗教家などを網羅している。1971年、インド政府は大統領の手によってパドマ・プジャン(蓮華飾賞)を授与し、その功績を称えた
山際素男 (翻訳)
1929年生まれ。古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の翻訳で第34回日本翻訳出版文化賞を受賞
ふかしょくみん【不可触民】
インドのカースト社会で,4バルナ(種姓)の枠の外に置かれてきた最下層民。4バルナに属する一般住民(カースト・ヒンドゥー)にけがれを与える存在とみられ,〈触れてはならない〉人間として社会生活のすべての面で差別されてきた。ヒンディー語でアチュートachūt,英語でアンタッチャブルuntouchable,アウト・カーストout‐casteと呼ばれ,またガンディーは彼らに〈神の子〉を意味するハリジャンharijanという呼称を与えた。
ビームラーオ・アンベードカル
1891~1956。インドの政治家,社会活動家。現マハーラーシュトラ州の「不可触民」カースト出身。ボンベイで教育を受けたのち,アメリカ,イギリスに留学し,経済や法律を学ぶ。1920年代以降,インドで不可触民の権利獲得のための政治・社会活動を行うが,その路線をめぐってガンディーやインド国民会議派としばしば対立した。インド独立後は,法相,憲法起草委員会の委員長に就任。死の直前にはヒンドゥー社会への批判から仏教に改宗した。
アンベードカルは、貧しい不可触民の家に生れた。 不可触民というのは、ヒンズー社会の最下層階級であり、太古の昔からカーストヒンズー(不可触民以外のヒンズー教徒)によって〝触れるべからざるもの〟として忌避されてきた。 一九五〇年、インド新憲法がこの不可触民制を廃止するまで、不可触民階層は〝触れるべからざるもの〟、〝近寄るべからざるもの〟、〝視るべからざるもの〟という三つのクラスに区分され、徹底的に差別されてきた。その数約六〇〇〇万。三億のヒンズー教徒の二〇パーセント、五人に一人が不可触民であった(政府統計数字では、指定カースト民一三パーセント、指定山間部族民八パーセントとなっているが、実際は両者合わせて二五パーセントをはるかに超えているといわれる。ウエスト・ベンガル州などは三〇パーセント以上ともいう。詳しくは『不可触民と現代インド』〈光文社新書〉を参照されたい)。
しかし、この労働の分化原理は固定化し、世襲化され、どんな馬鹿者、邪悪な、堕落したものでもブラーミンであれば神に次ぐ高貴な存在と見なされ、最下層階級の生れのものはどれほど才能があろうとシュードラとして卑しめられた。かくてこの四つの区分は厳しく人びとを身分的、階級的にしばり、カースト制へと堕落していったのである。このようにしてかつて四つのヴァルナ(色を意味する古い語)として分けられていた区別が四つのカースト、即ち四姓制度へと変質し、本来の意味や目的とは関係のない社会的桎梏となってしまった。それに伴い、種々の異なった職業、地域性、異なった生活、食習慣、迷信、風習などが四つの主要カーストを更に分化させ、ついには三〇〇〇以上ものサブカーストを生み出すにいたった。
しかし、この差別制度に反対するインド人は誰もいなかったのだろうか? もちろんいた。先ずブッダがそうであった。ブッダは不可触民制を批判し、不可触民を受け入れたのである。一一世紀にはラーマーヌジャ(一〇一六~九一。南インド出身の宗教家。中世ヒンズー教改革の先駆者)が現れ、不可触民を弟子に加え、彼の建てた僧院や寺院を人びとに開放した。時代が下るにつれ幾人もの聖者が平等主義を唱え不可触民制を攻撃した。ラーム・モーハン・ローイ(インドの宗教指導者――一七七二~一八三三。ブラフマ・サマージ――ウパニシャドに基づく一神教と西洋思想による社会、教育上の改革を主唱する近代ヒンズー教の運動――の創始者)とその信奉者によって唱えられた社会・宗教復古運動も時代の批判者であったが、近代インドにおける最も傑出した役割を果したのは、一八四八年プーナ(マハーラシュトラ州)にこの国で初めて不可触民のための学校を創設したマハトマ・フレー(ジョテラオ・フレー、一八二七~九〇。低カースト、マーリの出。夫人はインドで初めての女性教師となる)である。バローダ藩王国の藩王、シュリ・サヤジラーオ・ガエクワードは一八八三年、不可触民の学校を開いた。しかしヒンズー教徒は誰もこの学校の教師になろうとしなかったため、幾つ学校を作っても教師は回教徒に頼るしかなかった。
ラームジーはまた子供たちにラーマーヤナ(インド二大古代叙事詩のひとつで、ラーマとシータの冒険の物語詩)やマハーバーラタ(ラーマーヤナと共に、古代叙事詩として有名。聖典のひとつとされるバガヴァッド・ギーターはこの一部)といった偉大な叙事詩をよく読んできかせたり、マラータの諸聖人の詩などを朗唱してやったりした。このような日常は子供たちの精神、人格形成に大きな影響をあたえずにはおかなかった。ラームジーはマラーティ語(マハーラシュトラ地方の言語)の達人でもあり、一四年間、軍学校の校長でもあったから、子供たちにとってこの上ない優れた言葉の教師でもあった。マラーティばかりでなく英語にも堪能であり、数学も得意であった。彼はまた酒を飲まず菜食主義者であった。スポーツも得意で若い頃はクリケット、フットボールの選手として鳴らしたものである。自らに厳格であると同時に、豪快な面を持つラームジーは自分たちの階層の運命に心を砕いた。一八九二年イギリス政府が財政的理由でマハール族を軍隊に雇わないという決定を発表するや、ラームジーは直ちに行動を起し、ラーナデの協力をたのみ法令の撤回運動の先頭に立って活躍した。後年ボンベイ総督と会見したとき、開発計画中の建物の幾つかを不可触民のために開放するよう直訴したこともある。このような父親の性格、優れた知能、マハール社会への献身性などが、ビームにも受け継がれていったのである。
やがてアンベードカル一家はボンベイへ移った。家は二階建の粗末な共同アパートの小さな一室で、周りは労働者たちのスラムだった。娘たちはすでに結婚しボンベイに住んでいた。兄弟はマラータ・ハイスクールに入学し、ビームはそこでも熱心に学んだ。父の薫陶の甲斐あって、ビームの英語力はクラス一となり、後年、第一級の著述家として名を成す下地を蓄えていった。 この頃からビームは大変な読書家、乱読家になった。彼は学校の教科書などよりもっと幅広い知識を吸収することに貪欲であった。ティラクやサーヴァルカルたちがそうであったように、優れた文人政治家となる人びとはみな早い頃から学問に目覚め、深い知識や歴史への洞察力を養ってゆくものである。このような人びとはクラスでの席次など大して意に介さず、将来の国民的指導者たるべき素養を培ってゆく。ブラーミンであるティラクやサーヴァルカルは、生れながらにして開かれている学問への道をひたすら邁進してゆけばよかった。しかし、ビームにとってそれは 茨 の道であった。不可触民制と非識字社会が彼を取り巻いていた。父のラームジーはその中にあって最も良き味方であった。ラームジーは娘たちから借金をし、時には彼女たちの装身具を質に置いてまでして、ビームに本を買いあたえた。息子の将来に大きな望みを托するラームジーに応え、ビームはひたすら勉学に励んでいった。
数カ月後、父はビームを有名なエルフィンストーン・ハイスクールに転校させた。ビームは一層学業に熱を入れた。しかし、勉学に集中するには一部屋に家族四人という環境は余りに不適であった。家財、薪、台所用具が家中所狭しと散らかり、炊事の煙が部屋に立ちこめていた。枕元で牝山羊まで時ならぬ鳴声を立てた。 ラームジーは彼一流のやり方でこの難問を解決した。ビームを早い内に寝かせ、自分は夜中の二時まで起きていて、息子を起すと交替にベッドに入った。ビームは暁方まで勉強し、また少し眠り、再び起きて学校へ駆けていった。 公立学校の手前、表面立った不可触民への侮蔑はなかったとはいえ、カースティズムの偏見はいぜんとしてつきまとった。
教師の多くは不可触民の子弟が学校にきているのを快く思っていなかった。中にはビームに向って「お前なんか勉強したって無駄だ」と明らさまに嘲笑うものもいた。度重なる厭味に、ビームはついにたまりかね、立ち上って「余計なお世話だ。授業をつづけてくれ」と叫んだことすらあった。 ビーム兄弟にとって生涯忘れることのできない悔しさは、二人だけにはどうしてもサンスクリットを学ばしてくれなかったことである。何千年もの間、ヒンズー教の聖典ヴェーダは、シュードラ、不可触民にとってはタブーであり、立ち聴きしただけでも耳に鉛を流しこまれた、という話は余りに有名である。ティラクは、真のヒンズー教徒とはヴェーダを信ずるものであるといったが、ヒンズー社会の七〇パーセントはヴェーダを学ぶことは愚か〝聴く〟ことすら禁じられていたのである。二人は仕方なくペルシャ語を第二語学に選ぶしかなかった。
エルフィンストーン・カレッジのミューラーという教授がビームに本を貸したり、衣服をくれたりして目をかけてくれたが、周囲の冷淡さはいぜんとして変らなかった。ブラーミンである寮の管理人は終始彼にお茶や水すらあたえるのを拒否する有様であった。
ビームラーオ・アンベードカルは今や自分の足でしっかりと立って歩まねばならなかった。彼の貪欲な知識欲と燃えるような志は、小さな一藩王国の雇人で満足することはできなかった。そのような彼に好機が訪れた。バローダ藩王は幾人かの学生を選んでアメリカのコロンビア大学へ留学させる計画を立てたのである。アンベードカルは直ちに藩王に会い、これまでの彼の生い立ちを詳しく話した。藩王は彼の熱意に打たれ、アメリカ留学に応募するようすすめ、他の三人の学生と共にアンベードカルを派遣することにした。
ニューヨークでの生活は総てが新しく、新鮮な経験の連続であった。アンベードカルはインド人留学生や仲間と連れ立って街を自由に歩き回り、好きな時に本を読み、書き、散策し、風呂に入り、何よりも平等の気分を楽しんだ。食事は決まった時間にきちんと取り、それもテーブルクロスや眼にしみる白さのナプキン付のテーブルでだ。コロンビア大学での生活は彼にとってひとつの大きな啓示であり、新世界であった。彼の知的水平線は大きく広がり、新たな存在意義が確固として心に芽生えてきた。
彼は初めの夢見心地から醒めると、本来の勤勉さと徹底性を取りもどした。もはや金持の息子たちと大学生活をエンジョイする気持は毛頭なかった。劇場通いや市内見物も止め、ひたすら学問に打ちこんでいった。食事も簡素であった。巨漢であるアンベードカルは、食べさせれば幾らでも食べかねない旺盛な食欲の持主だったが、彼は我慢した。一杯のコーヒー、二枚のトーストに、一切れの肉か魚。一日一ドル一〇セントが彼の全食費であった。彼は奨学金の中から毎月国元へ送金せねばならなかったのである。 アンベードカルの宿願は大学の最高学位だけではなかった。彼は科学、政治、倫理哲学、人類学、社会、経済学に及ぶ広大な分野に挑み、自分のものにしようと奮闘した。その頃のアンベードカルを知る友人たちは、わがことのように誇りをもって、彼がいかに寸刻を惜しんで勉学に励んでいたかを語っている。
アメリカ滞在中、アンベードカルの心に強い印象を刻みこんだものが三つあった。一つは合衆国憲法、なかんずく黒人の解放を宣言した憲法第一四次改正であり、もう一つは、彼の滞在中、一九一五年に死んだ、偉大な黒人指導者であり教育者であったブーカー・T・ワシントン。プラグマティズム哲学のジョン・デューイも大きな影響を彼にあたえた一人であった。彼の授業には欠かさず出席していたという。 コロンビア大学で立派な成功を収めたアンベードカルは、学問のメッカであり、あらゆる分野の才能の憧れの的であるロンドンに目を向けた。一九一六年六月、彼はアメリカを去り、旬日にしてロンドンに到着した。その頃未だ第一次世界大戦は終っておらず、到着早々、インド革命党分子の嫌疑を受け、英国秘密警察に厳重な身体検査を受けるという一幕があった。実際には、アンベードカルは、アメリカにいて活動していた有名な民族運動指導者のラーラー・ラージパット・ラーイの親友であり、彼の恩師でもあったエドウィン・R・A・セリグマン教授から、革命運動に直接参加しないまでも、インド解放運動に加わらないかと働きかけられていたが、アンベードカルはその申出を断っていたのである。
アンベードカルはしかしそんな歓迎の雰囲気に酔っている余裕はなかった。彼にはバローダ藩王との約束が待っていたのである。だが、彼にはバローダ行きの旅費すらなかった。思案にくれているところへ、運良くトマス・クック旅行会社から本の保険金が送られてきた。アンベードカルは複雑な気持でその金を受け取ったことであろう。ニューヨーク、ロンドンで買い集めた貴重な本を失った悲しみと、妻への生活費と旅費がいっぺんに工面できた喜びとが同時に彼の心を去来したにちがいない。
彼は法律家として独立しようという気持があった。弁護士になって人びとのために働けば生活も成立ち、同じ階級の仲間にとって大きな励ましになるだろう。だが、ロンドンのグレイズ・イン法曹学院での課程が未完了であった。彼はなんとしてもその道に進もうと決意し、活動を開始した。あるパルシー教徒実業家の紹介で家庭教師の口を見つける一方、経済学の知識を生かし、株仲買人たちの相談所のようなものを開いた。これが予想外にうまく当り、顧客も増えいい収入になった。しかし、間もなく彼が不可触民であることが知れると、客足はぱったりと遠のき店を閉じる他なくなった。
アンベードカルを待ちうける大学の空気は冷やかであった。最初のうち学生たちは不可触民出の教授何するものぞという態度であったが、授業が進むにつれ、態度が変っていった。若いアンベードカルの博学と用意周到な講義内容は学生たちを圧倒し、かれらの心を魅了した。彼の評判をききつけ、他所の大学から聴講生が集まってくるほどになった。だが、その名声も頑固な不可触民制の壁を破ることはできなかった。グジャラート地方出身のブラーミン教授たちはこぞって彼を忌避し、教授用の飲料水を彼に使わすまいとした。
「インドは不平等社会である。ヒンズー社会は梯子も入口もない何階かの塔のようなものだ。人はその生れた階の中で一生を終えるしかない。ヒンズー社会は三つの要素から成立っている。ブラーミン、非ブラーミンそして不可触民である」また「動物の中にも、生命あるもの総てに神は宿るという思想をもつ人びとが、同じ宗教をもつ同胞を〝不可触民〟として扱うとはなんと情けないことか」「ブラーミンの狙いは、知識と教養の普及ではなく、その独占と蓄積にある」「被抑圧階級を永久的奴隷状態、貧困、無知から救う道は、超人的努力によって、自らがおかれている差別に人びとを目覚めさせる以外にはない」
マハールには一八のサブカーストがあったが、アンベードカルは大変な努力の末、この全マハール・サブカーストのリーダーたちを一堂に集めることに成功し、共に食事をした。しかし、会食に応じたのは総ての不可触民階級の代表ではなかった。不可触民同士の間ですら食事を共にすることはできなかったのである。
アンベードカルが渡米して間もなく彼女は男子を出産したが直きに死に、帰国後生れた子もまた幼くして死んでしまった。やっと三人目の息子ヤーシュワントだけがなんとか無事に育っていたが、彼も病弱で心配の種であった。彼女は学問に没頭する夫に余計な気を使わすまいと、家庭の心配事は総て自分の胸に仕舞い、黙々と家事を切り回していた。結婚した時、字が読めなかった彼女もアンベードカルのお陰で読み書きが一通りできるようになっていた。このように忍耐強く貞淑な妻に恵まれたという点でアンベードカルは、ガンジー、ティラク、といった偉大な国民的指導者と幸運を少なくとも共有していた。
彼は文字通り寸暇を惜しんで生活した。時間と費用を節約するため昼食も抜いた。朝八時の開館を待ちかねたように図書館に入ると、夕方五時の閉館時間までほとんど休みなしに本を読み 漁った。守衛に追い出されるように最後に出てくるのはいつもアンベードカルであった。頰はげっそりとこけ、疲労は色濃くにじみ出ていたが、ポケットは写し取ったノートで一杯だった。外の新鮮な空気を吸いながら三〇分ほど散歩をすると真直ぐ帰宅し夕食を取り、再び机に向った。夜一〇時頃になると空腹が彼を悩ました。彼の下宿の女主人は恐ろしくけちで、朝食はトースト一枚、小さな魚のフライに一杯の紅茶。夕食は一皿のスープに数枚のビスケットとバターという貧弱なものだった。飢餓感に耐えかねると、友人から分けて貰ったパパード(インド製の薄焼きせんべいのようなもの)を焼いて飢えをしのいだ。それからまた暁方まで読書をつづけるのである。同室の友人がいつ眼を覚ましても起きているアンベードカルの健康を案じいい加減に床に入るよう忠告しても、アンベードカルは微笑し、「ぼくには時間が限られているんだ。お金が尽きてしまわない内にやらねばならぬ仕事が山程ある」というと、再び机に向った。
一方、アンベードカルの研究も次第に終りに近づきつつあった。一九二一年六月「英領インドにおける帝国財政の地方分散化」という論文で修士号を得、翌二二年一〇月、有名な論文「ルピーの問題」を完了、ロンドン大学に提出した。同じ年に弁護士資格を取得している。
考えの上では高尚であったが、不可触民の心に、かれら自身の救済への確信、願いを振い起したものはいなかった。むしろ不可触民の間には依頼心、保護者へのへつらいが目立ちはじめていた。不可触民たちはこのことを知っていたが、援助と自己救済の違いをうまく表現できないでいたのだ。
アンベードカルの場合、事情は全くちがっていた。彼は不可触民の出であり、不可触民が考え、感じるように彼もまた考えることができたのである。彼は一〇年間、人びとの恐るべき貧窮、動物的生活状態をつぶさに観察し、経験し、学んできた。そして並外れたエネルギーと三つの世界的大学で学んだ該博な学識と経験、高い倫理観によって、ゆるぎない人格を形成していた。
アンベードカルは、依頼心を厭い、カーストヒンズー改革家たちの恩着せがましさに我慢がならなかった。不可触民を都合のいい時にだけ持ち出し、被抑圧階級を食い物にする組織や運動を徹底的に軽蔑していた。苦しむものが自ら立ち上り行動しない限り不正は正されないことを知っていた。
「私は不可触民がヒンズーから政治的に分離することに反対です。それは明らかに自殺行為です」
「不幸にも会議派はガンジー氏を代表に選んでしまった。インドの運命を托するには一番不味い人を選んだわけだ。統一勢力の統率者としては明らかに失敗だった。ガンジー氏は自ら最も謙虚な人物として任じていた。しかし、円卓会議で勝ち誇った時に見せる彼の態度は実に心の小さい人間を感じさせたものだ。政府の妥協を取りつけてロンドンへ現れた彼は、会議派以外の代表をことごとく見下していた。機会あるごとに他の代表を 蔑ろにし、彼だけが会議派代表としてインドを代表するものだと、明らさまに面と向っていいつづけた。彼は代表団を統一させる代りに亀裂を広げただけだ。知識という点からみたガンジー氏はすこぶるお粗末な人だった。新統治やコミュナル問題に対し色んなお喋りには事欠かなかったが、内容のある、建設的見解や示唆はできなかった」
一九三二年一一月七日、第三次円卓会議に出席するためアンベードカルは、イタリア船ヴィクトリア号でイギリスへ向った。船の設備も食事も良く、途中の海も、殊にその時期波の荒いので有名な紅海も穏やかで、旅は快適であった。彼はしばしの静けさと孤独を楽しんだ。 脚を痛めていたアンベードカルは、デッキの散歩には出ず専ら読書三昧に耽った。愛読書のひとつはナポレオンの伝記であった。イェラウダ監獄から出されたハリジャン運動に関するガンジーの声明に触れ、船中から仲間に次のような意見を書き送った。
同じ場所で開かれた他の重要な不可触民青年会議の席で、アンベードカルは教育の重要性を強調し、教育は両刃の剣である。品性と謙譲に欠けた教育ある人間は時として野蛮人より危険なことがある。彼の受けた教育が貧しい人びとの幸せに有害なものだとすればそのような知識人は社会にとって呪いとなるであろう。教育より品性の方が人間にとってはずっと大切なのだ。若い世代が宗教に無関心になりつつあるのは悲しいことだ。宗教は誰かがいうように阿片ではない。私の内の良きもの、社会に役立っている私の教育の総ての根本には、宗教的感情が横たわっている。私には宗教が必要だ。しかし宗教の名に隠された偽善はごめんだ、と語った。
なお閉会に際し、彼は本に囲まれ社会に無関心であるといういわれない 謗りに抗議し、自分は元々誰に対しても悪意をもたず、人を侮辱する気持は毛頭ない。限られた短い時間の内で最大限に成しうることをやろうとしているだけなのだ。多くのヒンズーたちは自分を敵といっている。しかし自分の親しい友人にはブラーミンたちもいるのだ。自分の置かれた立場から、同胞を犬畜生以下に扱うブラーミンたちの不正な行為を攻撃せざるをえないのである。
アンベードカルがガンジズムを嫌ったのは、ガンジズムが機械を憎み、人間に大きな可能性をあたえず、経済的平等への情熱を拒否したからであった。 彼はまた教条主義的マルキストを嫌った。彼は常に人生の新しい考え、新しい接近の仕方を愛した。人間の理想を一片の言葉で片づけることはできない、と彼はいう。社会は常に実験的段階にいるべきであり、彼によればマルクス哲学は、下層階級を喜ばす思想であり、それは指標としてあるべきであり、ドグマであってはならない、といっている。彼はかつてロシア共産主義はぺてんだといったことがある。
ではアンベードカルはインドの社会主義者たちと全く意気投合していたのだろうか? 経済的動機のみがそれによって人間を動かす唯一の要因ではない。インドを見てみるがいい、宗教がどれほど社会を動かす力の源泉となっているか。宗教、社会的地位、財産、どれも総て力の源泉でありそれなりの発言権をもっているのだ、と彼はいう。 彼は更に社会主義者に問う。諸君は社会的階級制を打破せずに、経済的改革ができるのか。もし、社会主義者たちが言葉だけでなく、社会主義を真に実現させようと考えるのなら、社会改革が一層根本的問題であることに気づかねばならない。もしそうでなければ決して革命を達成することはできないだろう。革命後にかれらはカースト問題にぶつからざるをえない、と。
全世界の新聞は、このことをガンジーの勝利と誉め称え、アンベードカルの名を挙げるものはひとつとしてなかった。もちろん、マハトマ・フレーも、ダヤーナンダ(スワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティ、一八二四~八三。アーリヤ・サマージ〈ヴェーダへ帰れをモットーにヒンズー教ヒンズー社会の改革を唱えた〉の創始者)の名も見られず、あたかもガンジー一人が不可触民解放者であるかの如き歴史のねつ造を行ったのである。
新総督マウントバッテン卿は、一九四七年六月遂に最後の断を下し、新しい計画案を発表した。それによってインドはパキスタン・東ベンガルを失い、両国の分離は決定的となった。 ガンジー、ネールは全力を挙げて全国会議派委員会が分離案を受け入れるよう説得した。パキスタンの分離を罪とし、「インドを分割するなら先ず私の体を断ち切ってからにしろ」とまでいったガンジーも涙をのんで政治的妥協を決心したのである。
憲法草案を完成した後、アンベードカルは十分な休養を必要としていた。そして、老年にさしかかった彼の面倒を見てくれる良き伴侶がいて欲しいと痛切に感じるようになっていた。 一九四七年の夏頃から、彼の健康は急速に悪化し、不眠症に悩まされていた。持病の糖尿病も進みインシュリンを常時服用していた。それに脚の神経痛が益々ひどくなっていた。同僚のチトレーに痛みで四晩もまんじりともできない日が続いたと、手紙に書いている。 ボンベイの病院でミス・シャルダー・カビール博士に知り合ったのは丁度この頃であった。 彼は更にチトレーに、十分な看護を受けないと神経痛は慢性化し一生癒らなくなる恐れがある。誰か適当な人を見つけたらどうかという君の忠告に従い、カビール博士と結婚することにした。彼女以上に適切な女性がいるとは思えない。それが良かろうと悪かろうと、そうすることに決めた、といささか強引に決意を披瀝した。最初の妻が死んだ時、再婚はしまいと決心していたが、気持を変えたのである。彼は家事もやれ、医学的治療も施せる高い教育を受けた女性を求めていた。そのような女性を不可触民階級の中に求めるのは所詮無理であった。カビール博士はブラーミン一族の出であった。 その後、アンベードカルはチトレーに手紙を送り、仲間の一人が息子のヤーシュワントにいらぬことをいい、彼女との間を気不味くさせたと嘆き、これ以上結婚を長引かせると世間の口が益々うるさくなる。そこで、一九四八年四月一五日に挙式したい。ついては君に是非結婚式に出て欲しい。今度のことで疚しいことは何もないし、誰にも、ヤーシュワントにさえも文句をつけられるいわれはないと信じている。ヤーシュワントには三万ルピーの金と、今では八〇〇〇ルピーの値打のある家を呉れてやった。父親…
彼はまた英雄崇拝の弊害を警戒し、国民にその生涯を捧げた偉大な人びとを敬愛することは少しも間違っていない。しかしそこにも限度というものがある。ダニエル・オコーネルがいったように、自分の名誉を捨ててまで感謝するいわれは誰にもないし、自由を失ってまで他国に感謝するいわれもない。このことはインドにとって特に大切である。というのは、インドでは政治の世界でバクティ(最高神に対する絶対帰依の信仰、ヒンズーイズムの中核のひとつ)が他のどの国々よりも大きな比重をもって働いているからである。バクティは魂の救済に導いてくれるかもしれないが、政治におけるバクティ、無批判的偉人崇拝は確実に堕落と必然的な専制主義に陥る、と述べた。
この時期に、アンベードカルは「ヒンズー女性の盛衰」という論文を発表し、「インド女性の沈滞はブッダのせいだ」とする論者を徹底的に批判した。彼によれば、ブッダは女性を避けもしなければ軽蔑もしなかった。ブッダ以前には、女性はあらゆる人間の権利である学ぶ権利を否定され、知的能力に目覚める権利を奪われていた。ブッダはこのような誤りを取り払い、女性にも同等の権利があることを認めた。これは女性に自由と誇りをあたえる革命的女性解放である。マヌは仏教を家庭から閉め出そうとし、女性に様々の不平等と制限を課した。インド女性の地位の低下に責任があるのはブッダではなくマヌである、と。
六日の朝、夫人のシャルダーはいつも通り起床し、アンベードカルの寝室を見にいった。アンベードカルは片足をソファーにのせたまま休んでいるようであった。何もかもいつもと変らなかった。彼女は庭を一回りし、夫を起しにいった。彼をゆり起そうとした瞬間、彼女の心臓に氷のような戦慄が走った。冷たく固いその体は死んでからすでにかなりの時間が経っていることを告げていた。医師である彼女に錯覚はありえなかった。厳粛な死の事実を前に彼女は茫然と立ちすくんだ。
アンベードカルは新聞も編集した。彼は、経済学、社会学、歴史、政治の分野に健筆を振い著作した。寄宿舎、図書館を設立し、法科大学の学長にもなった。幾百という政治、社会的集会、会議を司会し、大衆的指導者として政治、社会、労働運動をリードした。 彼は政党、大学を創設し、政治家としての叡智を発揮し、英雄的勇気、殉教者的忍耐、大学者としての学識を人びとに示した。六五歳という短い生涯の中で、不可触民の子供として生れた人間が、これほどまで多才な目覚ましい働きと学識を誇りえたということは、現代社会では恐らく類のない出来事であろう。
彼の生涯は、階級、カースト、特権、富による差別も、忍耐強い努力と深い誠実、大きな勇気、献身によって己れの人間性を確立しようと決心した者の前進と飛躍を妨げることはできないという立派な証明であり、打ちのめされた人びとへの励ましである。 彼は、個人的栄達、成功はエリート選民の特権であるという傲慢さをたたき潰した。続きを読む投稿日:2023.11.22
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