【感想】クラシック音楽は「ミステリー」である

吉松隆 / 講談社+α新書
(7件のレビュー)

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  • yonogrit

    yonogrit

    770

    吉松 隆
    よしまつ・たかし―1953年、東京都に生まれる。作曲家。慶應義塾大学工学部中退後、独学で作曲を学ぶ。1981年「朱鷺によせる哀歌」でデビュー。以後、いわゆる「現代音楽」の非音楽的傾向に異を唱え、調性やメロディを復活させた「現代音楽撲滅運動」および「世紀末抒情主義」を主唱。1998年に英国の音楽レーベル、シャンドスと契約し、交響曲5曲を含む全オーケストラ作品が海外にも発信されている。 著書には『図解 クラシック音楽大事典』『空耳! クラシック名曲ガイド』(以上、学習研究社)、『魚座の音楽論』『世紀末音楽ノオト』(以上、音楽之友社)、『夢みるクラシック交響曲入門』(ちくまプリマー新書)などがある。

    彼、バッハは「音楽の父」などと称され、現在「クラシック音楽」と呼ばれているタイプの近代西洋音楽の謎を作った。実際、#やbを組み合わせた調性のシステムや、平均律、フーガや対位法などの音楽の構造、様々な楽器の演奏法などなど、現在のクラシック音楽界で一般的に使われている音楽語法の基礎を確立し、同時に「聴いても素晴らしい音楽」として完成させたわけだから、「父」と呼ぶことに異存はない。

    ただし、それらは、バッハ一人が発明したり考案したものではなく、それ以前の数百年にわたる西洋音楽を集大成したもの。彼がやったことは、百科事典を編纂し図書館を整備する学者のような視点で、それまで存在してきたあらゆる音楽をタイプ別に数え上げ、並べ、体系付けて自分の作品として組み上げただけ、と言えなくもない。 だから、当時のバッハは「新しい音楽の開拓者」などではなく、「古くさくて理屈っぽい学者みたいな」音楽家として、(意外にも)あんまり大衆的な人気があったわけではなかったらしい。よく音楽教室に並んでいる真面目な校長先生みたいな風貌の肖像画を見ても、なんとなく納得できる話だ。 それでも彼の音楽は、三百年たった現代も、その圧倒的な質と量を誇る作品群によって、クラ シック音楽の基礎を成す音楽として聴かれ続けている。単に、学者的に音楽を総括しただけでは なく、「音楽」としても魅力に満ちているからだ。 しかし、ミステリー・マニアとして何よりも重要なのは、そんな「音楽の父」の肩書などよ り、「音楽暗号の父」としての功績の方かもしれない。 なにしろ、彼が最晩年に書いた未完の大作「フーガの技法BWV一〇八〇」の最後の最後に 登場する「シ・ラ・ド・シ(BACH)」という、自分の署名とも取れるテーマ。この存在こそ が、後に様々な作曲家たちを巻き込んだ「音楽暗号」の基礎になったのだから。

    作曲家と連続殺人犯の類似性
    一、白人系の男性が多い。
    一、独身者が多い。
    一、裕福な家庭か、親が音楽家の育ち。
    一、人付き合いは少ないか、人嫌い。
    一、時間だけは自由。

    貧乏育ちの場合は、父親が音楽家で、昔は羽振りがよかったもののその後の家計は火の車というパターン。ベートーヴェンやブラームスなど多くの作曲家がそういう家庭で育っている。 基本的に「一人が好き」なのは、作曲という作業自体が「一人でピアノを弾いて楽譜に書いて」という繰り返しだからだろう。曲によっては、それを延々何週間何ヵ月(時には何年)も続けるわけで、人付き合いが好きな人間には務まらない。 その反面、個人業なので時間はかなり自由。作品の構想を練ると称して普通の人は出歩かない時間帯に散歩したり、作品を書き上げると人のいない時期に旅行したりと、行動だけは自由なのが唯一の取り柄か。

    天才型と自律型の生存原理と、「独学・自律型」の作曲家たちを幾人か並べてみると、何となく共通項が見えてくる。
    一、親がインテリ階級の、ある程度裕福な(もしくは父親が音楽家の)家庭に育ち、幼少の頃 から、「教養としての音楽」には親しんでいる。
    二、十代後半(十五〜十七歳前後)で音楽に目覚めるが、音楽の専門学校には行かず、その後の数年間は別の学問(法科か理系)を勉強。しかし、途中(二十歳前後)で何かをきっか けに転身、作曲を志している。
    三、その後の数年(二十〜二十五歳頃)はきわめて吸収力旺盛に勉学を進め、二十代後半(二 十六〜二十九歳)には、後に作曲家として一家を成す「自分自身の作風」を確立している。
    四、二十代後半から三十代後半を創作のピークとして名作を書き、そこから緻やかに円熟期を 迎え、五十歳以降は徐々に創作活動を終息させている。

    おそらく普通の人にとって「音楽」というのは、次々に流れゆく川の水のようなものではなかろうか。目の前でキラキラ光るさざ波や、水面を、「きれい」と思ったり「面白い」と思ったり。心に映るものは「今見えるもの」であり、「切り取られた現在」という時間だ。 でも、作曲家は違う。上流から下流に至る数キロの川全体の形が気になり、さざ波を光らせる太陽の角度や、渦巻く水面の流体力学が気になって仕方がない。 そのため、単にきれいなメロディや素敵なサウンドを追い求めるのではなく、「モチーフ(音型)を組み上げて堅宅な構築物にする」とか、「ハ短調で重く暗く始まった世界を、ハ長調の明 るく輝かしい世界へ昇華させる」とか、「第一楽章で登場させたメロディを変奏させて第三楽章に組み込む」とかいうような(聴いているだけの側にとっては「そんなことどうでもいいじゃない」と思えるような)ことに命を賭ける。

    作曲家たちにとって「音楽」とは、心地よく流れては消えてゆく「とらえどころのない音」などではなく、頭の中できちんと3D化されている構造物だからだ。音は燃ずのブロックとして積み上げられ、メロディは柱のように力学的な計算で組み上げられている。


    だから、見えない壁や柱の奥にも、バランスを保つための「和声法」や「対位法」という仕掛けが必要だし、表面には 「管弦楽法」を駆使したさまざまな装飾を凝らすわけだ。 このような、物体の位置や方向や形などを三次元的に把握する感覚を「空間認識」というそう なのだが、これは耳の奥の「三半規管」で自分の身体のバランスを知覚し、同時に「音」で自分 置かれている状況を把握する感覚。例えて言えば、右上に岩があり、左下に崖があ 居て、横に茂みがあって、自分は木の陰に居る⋯⋯というような「空間」におけ 位置を「認識」する能力で、男性に特出したものだとされている。 まさに「耳」の持つ機能であり(一説では、顔の横についている器官だけが「耳」なの ではなく、身体全体の皮膚が耳の一部なのだとか)、単に「音」を知覚するだけでなく、世界に おける自分の「位置」や「体勢」を身体全体で把握する動物的な感覚である。戦闘機のパイロッ トや潜水艦の艦長などは、この能力プラス瞬発力がないと出来ない職種のきわめつきだろう。とうしても自転車に乗れない人や、どこに行っても道に迷う「方向音痴」な人は、 に欠けていることになる。この感覚は、おそらく原始時代に「狩猟」でわれたもの。つまり、獲物を狩る時は、獲物に悠づかれないような場所に隠れ、獲物の位置と自分の位置との関係を3D的に把握しつつ、弓矢や影で追い詰めてゆかなければならないからだ。 そこで、頭の中に仮想の立体空間を組み立て、自分や獲物や仲間たちとの相関関係をシミュレーションしてゆく。その能力の優れたものが「狩り」の名人として生き残ってゆき、文明を築い ていったわけだ。さらに、「農耕民族」と違って「みんな」と協調する必要がなく、「個人」で獲 物を捕れさえすれば生きてゆくことが可能という「一匹狼」的な生き方も、この能力のスペシャ リストに特有のスタイルになったと考えられる。 そう考えると、この能力が「狩猟民族」の、それも「男(オス)」に特出したものであることは納得できる。つまり、この「空間認知」を持ったうえ「狩猟本能」に長け、さらに運動能力が傑出している人間こそ、最高の「3人」だからだ。それは、同時に「兵士」としても有効なわけで、「動物を狩る」ことは「敵を殺す」ということに進化してゆく。まさに、良くも悪くも「オス」特有の能力なのである。 しかし、文明が平和に発展すれば、男といえども「狩猟」や「戦闘」に傑出する必要はなくなってゆく。そのうちに、空間認識を持っているものの狩猟本能は薄まり、さらに運動能力に欠けていくようになる。すると「男」はどうなるだろう。⋯⋯と考えてゆくと、それは、 現実では捕まえられない「獲物」に対して、自分と世界の位置関係をシミュレーションする「架空の狩猟ゲーム」に遊ぶしかない、と思い至る。 考えてみれば、交響曲やオペラが華々しく生まれた「ロマン派の時代」 は、(男が)「邪悪な魔法使いやドラゴンからお姫さまを救い出して結婚」というような、よく言えばイマジネーション、悪く言えば「妄想」を全開にした時代だった。 ということは、そこでは、育ちが良く、「頭は良い」けれど「体は弱く(狩猟本能は弱く)」、 「自分一人」が好き⋯⋯というキャラクターこそが、もっとも「空想」を全開し「プログラム」 を構成出来るタイプであることになる。この「妄想」のパワーこそが、空想の産物である「文学」や「絵画」や「音楽」や「建築」を膨だに生み落とし、十九世紀のあの豊穣なロマン派音楽を生んだと言ってもいいのではなかろうか。


    彼らは、空間認識からくる「想像力」には長けているため、ロマン的な様々な妄想を音楽で構成することが出来る。しかし、「運動能力」は欠けているため、外に出てスポーツをしたり狩りをしたりという行為に向かわず、家の中でもそもそ楽譜を書くという内向的な作業に埋没するようになる(つまり、ひきこもってゲームをやっている現代の若者は、見事に狩人の君敵なわけだ)。

    あるいは「自己保存(子孫を残す)」の本能がありながら、それが現実社会では成就されない⋯⋯というような、オスの「喪失感」を補うために起こる(ある意味では自己破壊的な) 「衝動」なのではなかろうかと思うわけなのだ。 だからこそ、交響曲やオペラは作曲家の肥大した男性性の表出であるにもかかわらず、それを書いた当人たちは「永遠の女性性」などに救済されようとするわけだ。
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    投稿日:2023.11.06

  • 及川理仁

    及川理仁

    吉松隆さんの文章は言っちゃ悪いが、正直、クダラナイ。
    しかし何故か私と非常にウマが合う。
    なので吉松さんの著作は何冊も読んでいます。
    本書も全文が面白いわけではないですが、
    一部は非常に面白く、興味深ったです。続きを読む

    投稿日:2021.02.14

  • atzm

    atzm

    ・シェーンベルクは13という数字を恐れていた。49歳とか58歳のように足すと13になる年の13日の金曜日は外出しないようにしていたが、76歳の13日の金曜日、あと13分で翌日という時に喘息発作で死亡した。

    ・あるときスターリンがラジオを聞いていたら、モーツァルトのピアノ協奏曲23番が流れてきて、とても気に入った。そこでラジオ局に電話してレコードがあるかどうか聞いたところ、ライヴ放送でレコードは作っていないにもかかわらずスターリンにNOとは言えなくて、あると言ってしまった。
    急遽そのときの奏者マリア・ユーディナとオーケストラを集めて夜中に録音したそうだ。緊張のあまり、指揮者は3人も交代したとか。
    そのレコードは、スターリンが亡くなったときに聴いていたのではないかと言われているが、この録音の話自体本当なんだろうか。
    続きを読む

    投稿日:2013.06.21

  • みいたま

    みいたま

    真面目一辺倒のクラシック解説本でないところが良かった。「ドン・ジョバンニ」は私には良さが解りづらい作品だったが、もう一度見てみようと思えた。

    投稿日:2011.02.08

  • よおこ

    よおこ

    クラシック音楽と作曲家たちについてたくさん知識をお持ちの方のようですが、話があちこち飛んでいって、何をいいたいのかよくわかりませんでした。

    投稿日:2010.07.24

  • oshikiri_in

    oshikiri_in

    気持ちのいい公園のベンチに座る、物事をぼんやり考えているような考えていないような状態の、他人の頭の中を覗いたような文章なのですが、口語で読みやすくはあります。

    ミステリーというより、2時間なんちゃら劇場とかで、登場人物の名前みながら話の筋を考えちゃうような、推理小説好きっぽい人とTVの前で座ってるみたいな感じ。

    クラシックや推理小説に縁はなくとも、薀蓄&妄想系のエッセイがお好きな方は、楽しく読める。かも?

    と、思っていたら、この本は、本業・作曲家の人のブログ書籍化だそうです。
    納得。
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    投稿日:2010.03.15

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